涼風野外文学堂

文学・政治哲学・読書・時事ネタ・その他身の回り徒然日記系。

思いつき〔で/に〕賞を与えるな。

2006年11月05日 | 読書
 相変わらず更新サボり気味の涼風でございますごめんなさい。仕事はすっかり暇なのですが今回更新が滞っているのはひとえにプライベートな理由で、プライベートなので詳細はご勘弁を(汗)。

 で、先週の話で恐縮なのですが、先にちょいと書いたとおり、職場旅行に行っておりました。まあ私が福岡でラーメン食った話とか門司港の平和を守るバナナマンに挨拶してきた話とかそんな話はどうでもよくって、行きも帰りも飛行機だったので、暇つぶしに本を一冊、前日に見繕って持って行きました。つい最近文庫版が出た村上春樹『アフターダーク』とどっちにしようか悩んだのですが、悩んだ結果私の旅行鞄に突っ込まれたのは「新潮」の11月号でした。
 最近の文芸雑誌の動向なんぞまるで追っかけちゃいないのですが、今回の「新潮」は目次を開いたところ、最近のマイブーム平野啓一郎が新連載を開始(『決壊』)しており、その煽り文句が「9・11、Web2.0以降の〈来るべき文学〉に向け、渾身の大作、遂に開始!」とかこれもまた涼風のツボをつきまくっていたので、つい購入してしまったのでした。で、平野の前掲作を行きの飛行機で早々に読了し、次いで絲山秋子『エスケイプ/アブセント』を読み終え(これら2作とも文体が整っていて読みやす過ぎるので、短時間で読み終えてしまう)、さて他にめぼしい短編も評論もないし何を読んだらよかろう、というところで、帰りの飛行機の中では、第38回新潮新人賞受賞作『ポータブル・パレード』(吉田直美)を読んでいたのでした。

 ……ひさびさに「読むのが苦痛」でした。こんなにしんどかったのは村上龍『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』以来ではないでしょうか、と言えばむしろ褒めすぎかもしれませんが。
 何が辛いって、この小説は「複数の人物を平行して動かしつつ、朝から晩までに起こる出来事の推移をどうにか構築してみせた」(阿部和重の選評より)というよりは、単に視点が定まっていないのであって、要するに、様々な思い付きが(作者の脳の奥深いところではひとつに繋がっているのかもしれないけれども)全体として何ら統合的な繋がりもまとまりも見受けられないままに、随時並べ立てられているために、何行か読むごとに視点がいちいちあっちこっちに飛び回って、読者はそれに振り回される、という構成に(結果的に)なっている。それが読者(である私)を疲れさせるのだ、と思います。(もちろん、テレビをザッピングするような感覚を意図的に文学に導入しようとしたのだ、というような野心があるなら話は別ですが、残念ながら本作からそのような意図は感じ取れませんでした。)
 ただ、新人賞の応募作なのだから、技量は荒削り構成は支離滅裂でも、とにかく全力を注ぎ込んで書かれている、というスタンスが見て取れる以上、作者を批判するのはお門違いというものでしょう。したがって、私がここで疑問に思うのは、選者5名を含めた、この「賞」そのものの姿勢です。
 面白いことに、5人の選者の誰一人として、基本的にはこの『ポータブル・パレード』を積極的に推してはいないのです。それなのに、本作が新人賞を受賞してしまったのは、いったいどうした理屈なのでしょうか。

「受賞作となった『ポータブル・パレード』は、他の候補作よりもツッコミどころが少ないかといえば、逆だ。問題点は多く、特別に強い個性が認められる作品でもない。本作には、『去勢した猫に愛を教える伝道師』たる男が登場するわけだが、そのような特殊な事業を営む上での理念の説明を、作者は果たしていない。この点に具体性が欠けると、ドラマ上の切迫感(主人公の姉妹が個別に追い詰められる理由)が直ちに希薄化してしまうという意味で、これは深刻な欠陥である。とはいえ、複数の人物を平行して動かしつつ、朝から晩までに起こる出来事の推移(この間に主人公はわずかに死に近づく)をどうにか構築してみせた作者の筆力に、今後の飛躍の可能性を感じないでもないので、受賞に反対はしなかった。また、本作の登場人物は、他の候補作のそれと比して最も鮮明な像を結び、小道具も有効に機能していた。」(阿部和重)

「選考会に臨む前、小説部門では、受賞作なしが適切だろうと考えていた。議論の中で『ポータブル・パレード』が浮上してきた時、それに対抗して強く推せる作品が他にあれば、いろいろ言葉を尽くして反対していたかもしれない。しかし、受賞作なしの心積もりでいる人間は、どうしても無口になってしまう。作品の美点ではなく、欠点についてばかりあれこれ語ることになり、次第に自己嫌悪に陥ってゆくからだ。よって、どれかの作品を受賞に相応しいと考える選考委員が一人でもいるのなら、それには反対しないでおこうと、最初から決めていた。
『ポータブル・パレード』は、腰を据えて何かしらを書こうとする意志が、最も強く伝わってくる小説だった。千羽鶴やタイガー・バターなどの小道具の使い方も上手いし、どことなく怪しげな人物たちもたくさん登場してくる。構成には破綻がなく、文章は独自のリズムを持っている。
 けれどすべてが、独りよがりの空回りに終っている気がする。折り紙のエピソードも夢の場面も、こういうふうに書けば意味ありげな小説になるのではないか、という計算の結果としか受け取れなかった。」(小川洋子)

「今流行の、下流小説ということになるのだろうか。とにかく手数が多いことには感心した。思いつきをそのまま書いているようなエピソードが多く、脈絡なり構成なりについての意識も低いのだが、とりあえずサービス精神があることは、否定できない。その点で、この作品が受賞したことは、よかったと思う。ただ、これでスタート・ラインに立てたと思ってもらっては困るけれど。」(福田和也)

「『ポータブル・パレード』は、重苦しい日常のなかで自分自身の存在が希薄で、確かに自分にのしかかってくるものがあり、それによって自分は毀損しているのだけれども、動物が危機に際して仮死状態になるがごとく、自分の心が仮死状態でその重みを実感できぬまま実際には自分がじわじわ傷んでいく、また、自分の感覚を自分で所有していない、官能が自分の外にあって漂っているのをただ眺めている、みたいな荒廃した状態を描いて切ない小説であると思った。春男という無気力な人物の、去勢した猫に愛を教える、という職業が非現実的で白けるという指摘があった。猫についてはいろいろあってそういうことを言い出す人がいても不思議はないと思うが、確かにこの春男という人物は小説のたてつけを悪くしていると思った。」(町田康)

「これらと比べると、○ひとつ、△ふたつを獲得した『ポータブル・パレード』が突出することになる。とはいえ、これが特にすぐれた作品かと言われると、躊躇せざるをえないだろう。何より、最初と最後に夢を置くのは安易だし、しかもその夢が面白いとは言いがたい。語り手がところどころで入れ替わるのも安易だし、それが効果的というわけでもない。父は死んで不在だし、姉の夫は『去勢した猫に愛を教える伝道師』とやらで何とも影が薄いのだが、逆に言えば、男に頼ることのできない女たちが何とか『下流生活』を営んでいくさまがそれなりにリアルに描写されていることは認めておくべきだろう。原則論からいえば受賞作なしにすべきだという小川委員の意見にも理があるとは思いつつ、そういうリアリズムを基調に一応小説らしい構造を作り上げていることを評価して、この作品の新人賞受賞に同意することにした。」(浅田彰)


 意図の読めない町田康は別格として、他4名は、本作『ポータブル・パレード』の新人賞受賞に反対はしないものの、積極的に推してもいない、というスタンスがこの選評から見てとれます。普通に考えれば、小川洋子の主張するように「受賞作なし」が自然な流れでしょう。それなのに、なぜ本作が受賞したのか?選評からは読みきれないので勝手に想像する以外にないですが、同席した編集者が「受賞作なしは困ります」と言ったのではないか、という邪推が働くのが当然ではないでしょうか?
 このような(商業主義的な?)賞の与え方をされては、受賞者本人のためになるとも思えませんし(いや、どんな形であれチャンスを与えられたのだから、それを活かそう、と文を磨くような受賞者であれば、この先さらなるチャンスに到達する可能性もあるでしょうし、そうであることを願いますが)、文学界全体にとっても決してプラスには働かないのではないか、と思います。いっそ選考会の主要な発言をそのまま公開してくれればいいのに(全文公開はボリューム的に無理でしょうから一部分だけでも)、とさえ思うのですが、どうなんでしょうか。平野啓一郎だけでなく文学賞もWeb2.0時代に対応してほしいと願う、そんな読了後の(徒労感に満ちた)感想でした。
 つーか、そんなに「下流生活」が流行なら、田丸浩史の『ラブやん』を浅田彰か福田和也に読ませてみたいと思う今日この頃。


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「僕らの世代」代表としての平野啓一郎。

2006年10月05日 | 読書
 少し時間ができたので、本棚を席捲している積ん読の中から、平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』を引っ張り出して読みました。読む前に想像していたより面白かった、というのが、僭越ながら感想。
 例え方がちょっとアレですが、言うなれば、老舗の料亭の若き三代目がデパ地下に出店して2000円のお弁当売ってる、とかそんな感じ?一品一品は小ぶりで手軽な印象ですが、それぞれに丁寧な仕事がしてあって、ちょっぴりお特感のある短編集でした。

 こういうものを読むと、やはり平野啓一郎は達者だな、という印象を受けます。少しばかり若さの表れているところもありますが(「白昼」や「閉じ込められた少年」のような、少しばかり言葉遊びに遊ばれすぎた感のある作品とか)、それもまたひとつの魅力かもしれません。
 他方で、確かな技術で丁寧な仕事をしてしまうあたりが、やはり平野啓一郎の現時点でのひとつの限界というか、望むと望まざるとに関わらず、彼が立たされてしまう立ち位置というものを表しているようにも思えます。例えば彼には、中原昌也や清涼院流水のような「天然系」の作品はどうやっても書けません。平野啓一郎が老舗料亭の三代目なら、中原や清涼院は「漁師が道楽で居酒屋始めました」のノリ。鮮度のいい材料を適当に丸焼きにしてごちゃ混ぜに盛り付けて出すだけです。それが案外旨いというのも真実でしょうが、老舗料亭の確かな包丁捌きを持つ平野にとって、それは料理ではない。あるいは、そんな恥ずかしいものを人様に出すわけにはいかないのです。

 引きこもりネットワーカーの独白調でカフカを語る「最後の変身」や、似非論文のテイストでボルヘス「バベルの図書館」をネットワーク時代のイメージに即して捉えなおす「『バベルのコンピューター』」からも見て取れるとおり、平野啓一郎は、現在の日本語文学が向き合っている問題の中でもひときわ大きなもの、「インフォメーション・テクノロジーの進化とそれに伴うコミュニケーション様式の変化が、日本語に劇的な変化をもたらしている」ということに充分に自覚的で、古い文学作法に拘泥していては文学は今の時代に産み落とされる文学としての強度を有し得ない、ということにも充分に自覚的です。
 したがって、先に「若さが表れている」とした「白昼」や「閉じ込められた少年」、あるいはもう少し筆を抑えた「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」にしても、そこに現れている言葉遊びは単なる若さゆえの児戯ではなく、そのようにして日本語に圧力を加え、内側から破裂させるような作業が、文学にとって必要なのだと、そしてそのような役割を自ら引き受けることを買って出たのではないかと、私は勝手に邪推しているのです(そしてそれゆえに、平野啓一郎のこの短編集には多大なシンパシーを感じます)。
 そして同時に、中原昌也に代表されるような「天然系」に膝を屈するわけにはいかない、ということも、勢いとフィーリングではなくて、研ぎ澄まされた正確な技術によって高みに達しようということも、引き受けているのではないでしょうか。大仰な言い方をすれば、彼は、あるひとつの窮地に即している「文学」を、自ら救う役割を引き受けたのではないか。「俺が文学を救う」ということを自覚した上で作品を呈示しているのではないか。そんな印象を受けるのです。それは勇敢で頼もしく、しかし、孤独で悲壮な戦いに見えます。

 世代論に回収するのは卑怯と思いつつも、私が平野啓一郎に共感を覚えるのは、やはり彼が「われわれの世代の代弁者」の役割もまた、同時に引き受けているからではないのかな、と思います。
 巻末の作者紹介によれば、平野啓一郎は1975年生まれ。涼風とほぼ同世代です。いわゆる「団塊ジュニア」のひとつ下の世代に位置し、ジュリアナ東京のお立ち台とルーズソックスの女子高生の中間に位置し、どちらにもご縁のなかった世代(なんつぅ言い方だ)。中高生の頃にバブルが弾け、ベルリンの壁もソ連も崩壊し、大学に入る前後辺りに高学歴で知られるオウム真理教がサリンを撒いて、求人倍率が最低の頃に就職活動を余儀なくされた、最近の新聞なんかで言うところの「失われた世代」です。
 思春期から青年期に向かうありとあらゆる場面で、拠って立つべき価値観を次々に叩き壊され続け、諦めることも開き直ることもできない立ち位置に置かれた困難な世代。それでも苦しみもがきながら、何とか生きていかなければならないのだ、ということくらいは知っている世代。私は、自分を含むこの世代を、そのような困難な立場に生かされている世代であるのだと自覚しているのです。
 そういうことなのではないでしょうか?新しい時代を迎え、今までのやり方が通じなくなっていく中で、それでも「僕らの世代」は結局、幼い頃から「昔ながらのやり方」で来ていて、それが身に染み付いている。もう少し早く生まれていれば、変革する時代を他人事のように冷めた目で見られたかもしれませんし、もう少し遅く生まれていれば、すべてを所与のものとして当たり前に受容していけたのかもしれません。しかし「僕らの世代」は、「昔ながらのやり方」をほとんど唯一の武器として、「新しい時代」に切り込んでいかなければならない、という困難を、自らの問題として、各々引き受けなければならないのです。そのことを文学の世界で体現しているのが、平野啓一郎なのではないでしょうか。
 そのことがこの短編集『滴り落ちる時計たちの波紋』に、名門料亭三代目デパ地下進出、のノリで表れているのだ、と思います。

 同時代の体現者としてはもう一人、中田英寿の名を挙げたいようにも感じられますが、まあそのへんの話はそれ、また機会があれば。(こうして宿題が増えていく)


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新世紀のマルクス、シャーマンとしての柄谷行人。

2006年08月14日 | 読書
 有明から無事生還いたしました。今日はコミケで買ったエロ本の話……ではなく、行き帰りの車中で読んだ柄谷行人「世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて」の感想らしきものをちょっとだけ。

 文学界8月号掲載のインタビューで柄谷本人が語っているとおり、この本からは、(新書というスタイルとも相まって)柄谷が「ビジネスマンへの啓蒙」という役割を進んで引き受けようとしているのだ、というある種の覚悟を感じます。
 タイトルに現れている「世界共和国へ」というのは、カントを道標にしながら、国家主権を放棄した先としての国際連合への指向なのですが、実をいうと、その「世界共和国」へ至るための道筋の困難さ、乗り越えるべき壁については、まるきり忘れ去られたような書かれ方になっている。これは、柄谷がおめでたい性格だから……などというわけでは決してなく、この本のメインはその困難さを語るところにはないのだ、という覚悟によるものなのではないかな、と推測します。
 この本が主眼としているのは、今やわれわれが所与のものとして省みもしない「資本主義」と「ネーション=ステート」のコラボレーションについて、もう一度歴史的、思想史的に捉えなおそう、というところにあります。世界資本主義をすべての前提とする考え方から離れ、われわれが生きている今、この世界というのが、世界史的にどのような時代であるのかを、なるべく客観的に見渡そうとする。そのような視点を与えようということこそが、本書の主目的であるように感じられました。
 そのことは決してソ連圏の崩壊と無縁ではないのでしょう。「資本主義vs社会主義」のような、(多分に政治的な)硬直的な言説が広まったことの当然の帰結として、ソ連圏の崩壊は資本主義に対立するオルターナティブの崩壊をもたらしました。
 見田宗介風に言えば「それでも最も魅力的な社会」であるところの消費社会=資本主義システムは、もはやそれに代わる社会像をイメージするのが困難であるほど、われわれの身に「基本条件」として染み付いている。その立場を相対化し、自らが今立つ地点をより高い場所から俯瞰しようという際に、柄谷が拠り所とするのがマルクスであるというのが、また面白いところです。
 結局のところ、マルクスというのは、「資本主義とは何であるか」を分析した、最初で最後の研究家なのかもしれません。「マルクス主義」の世界的敗北は、いわゆる現代思想の世界に現在に至るまでトラウマを残していますが、そのトラウマに圧殺される形で、マルクスの残した視座、資本主義とはいったい何であるのかを見下ろし眺める視点というものまで、消し去ってはいけないのでしょう。
 であるから(例えばジジェクが「いまだ妖怪は徘徊している」と不吉なメッセージを発したのとまったく同様に)われわれは未だ人類が体験したことのないまったく新しい世界に投げ出されているのだ、という自覚とまったく同時に、それは有史以来現在に至るまで続けられてきた、常に1回限りで不可逆的な世界の諸相=連綿と続く世界史の延長線上に置かれているのであり、その限りで繰り返す歴史のある1回の局面に過ぎないのだ、という相反する自覚を持つ。古い「マルクス主義」の死を(例えばフランシス・フクヤマのように)叫ぶと同時に、その背後に「マルクスの亡霊」が立っていることを知る。そのようなものの考え方を可能とするために、考え方の枠組みを今一度整理整頓するために、本書は書かれたのだと思います。

 そうであるならば、柄谷は本書において「シャーマン」の役割を引き受けたのだ、とも言えないでしょうか。既に死に絶えた(と多くの人が思い込んでいる)マルクスの亡霊を、今一度呼び戻し、自らを憑坐(よりまし)として、その口を通じてマルクスに語らせようとしているのだ、と。そうであるならば、大変な覚悟であり、これは尊敬に値する仕事である、と思います。

 交換様式を軸に歴史を読み返し、資本=ネーション=国家の位置取りを確認し、それらが現在どのように絡み合っているのかを丁寧に読み解いていく、柄谷の現状分析には感嘆します。他方で、そこから何故「世界共和国」へ向かうのか、という、未来へ向かう思考の部分には若干の違和感を感じたので、その点を考えながらもう一度読み返してみようか、と思っていますが……そこを考えるなら「トランスクリティーク――カントとマルクス」を読め、ということでしょうかね。あんな分厚いの今読む気しねぇ。


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もてない男は帰ってこない(小谷野敦をめぐって)。

2006年07月25日 | 読書
 今日は久しぶりに外での仕事です。つっても一日椅子に座って大学の先生方の講演聴いてるだけのゆるーい仕事ですが。それにしても幕張メッセ冷房効きすぎだヨ。
 で、珍しく電車で出かけたので珍しくゆっくり本を読む機会に恵まれました。すっげぇ久しぶりに「文学界」を端から端までほぼ全部(意図的に読み飛ばした部分除く。某東京都知事の連載小説とかね)読んだので、それ繋がりで今日は小谷野敦の話題なぞ。

 文学界8月号は、小谷野敦の小説「悲望」が堂々180枚のボリュームで創作部門のメインを張っており、今月号はまさにこれを読むために買ったようなものだったのですが……いや、痛すぎるよ、これ。どこまで創作でどこから実体験に着想を得たものか知りませんが、しかし、法界悋気というよりもはやストーカーの気配すら漂う最近の小谷野敦の鬼気迫る様子には、正直、ちょっとヒキます。
 まだしばらく書店の店頭にあると思うので、興味がおありの方は是非文学界8月号を探して読んでみていただきたいと思うのですが、要するに、ちくま新書で彼が放ったスマッシュヒット「もてない男」の小説版とも言うべき、「ああ、こりゃ、もてないだろうなぁ」という男の話です。

 「もてない男」は1999年に発売されており、同年のうちに私も大学生協で買い求めて、大変面白く読んだ記憶があるのですが、当時大学の後輩に勧めて読ませてみたところ、「いや、ほんとの『もてない男』は、こんなんじゃないですよ」という感想を聞かせてくれたことを覚えています。その当時は「ああ、自分が『もてない』と考えている人には、『俺が一番もてない』『俺こそもてない男だ』的な各自のこだわりがあるんだろうなぁ」程度に考えていたのですが(ずいぶん失礼なこと考えてたんだな)、他方で、この後輩くんの一言と、それに対して私が抱いた感想とは、それぞれ「もてない男論」のある一面を的確に言い当てていたように思うのです。
 つまり、誰かが「もてない男」について論じ始めたときに、必ず想定される質問は、まず「では誰が『もてない男』なのか?」「『もてない男』はどこにいるのか?」という問いかけであり、ここから一歩進めば「結局お前は『もてない男』ではないのではないか?」という形の批判が当然に出てくると思うのです。実際「もてない男」のカバー裏に掲載されている小谷野敦の写真はなかなか上手に撮れていて、「本当にもてないのかお前」という形のツッコミをしている文芸評論家かなんかも、当時いたように記憶しています。
 つまりは「もてない男論」とは、小谷野敦が世に放ったその当時においては、ある意味においてこの世の誰にとっても「他人事」であったため、そこにはどこか牧歌的な、絵空事を論じるような気楽さがありました。
 で、実際「もてない男」がベストセラーになった後に小谷野敦は結婚し、その様子は写真週刊誌にでかでかと掲載されたりもしたのですが……。

 昨年、小谷野敦は同じちくま新書から「帰ってきたもてない男」なる本を出しました。帰ってきたとはいかなることか、と冒頭を開けば、離婚したとのこと。いやはや、それは、何というか。
 肝心の本の内容は、出会い系サイトに挑戦してみたり、結婚情報サービスに足を運んでみたりとかなり痛い内容になっています。主張することの中身は初代「もてない男」とそんなに変わっていないはずなのに、「もてない男」の時ほど面白く読むことができなかったので、それは何故だろう、と考えてみたときに、要するに、イタいのだ、ということに気づきました。

 馬頭様との往復書簡の中でも私が主張した(「涼風文学堂」に掲載してありますのでよろしければご覧ください)「ポジション」論に通ずるところでもあるのですが、結局のところ、あらゆる政治的発言は(あらゆる発言は政治的なのですが)その発言者が置かれたポジションによるバイアスを免れることができない、と思います。「もてない男論」はそうしたポジションによるバイアスの影響を特に強く受けるように感じられます。発言者は実際のところもてるのか、もてないのか。もてる男が「もてない男論」を論じても空々しいだけで説得力がないし、本当にもてない男(というのがいるかどうか分かりませんが「恋愛関係でこっぴどい目にあった経験を持つ人」ならいるでしょうし、今の小谷野敦はまさにそんな状態です)が「もてない男論」を論じてしまうと、論の中身より先に論者の境遇に目が行ってしまい、結局のところ「イタい」ところばかりが目に付いてしまうわけです。

 かような流れから今回の「悲望」を読めば、とうてい純粋な「創作」として受け止めることなどできず、ただただ痛すぎるわけです。
 以上により私は本作をもって小谷野敦に、尊敬と畏怖を込めて「男中村うさぎ」の称号を与えたいと思います。しかし、小谷野敦にしても中村うさぎにしても岩井志麻子にしても、腫れ物のように肥大する自分を切り売りするより他にない状況に自らを追い込んでいくことは、身の破滅を招きそうに思えて恐ろしいのですが……。

 ついでですが、小谷野の文体は小説を書くには向いてないですね。説明臭さが鼻について気分悪いです。新書やエッセイで読む分にはまったく気にならないのですが。


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