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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

徒然草16 「無常ということ」4

2009年02月24日 | 徒然草
さて、「上手に思い出す」という態度について少し説明をしてきたが、まだ不十分であるのでもう少し続けたいと思う。小林が古典論を発表した昭和17年の同時期にバッハの思い出をバッハの二度目の妻が書いた本を読みその感想を書いた小林の小作品があるが、結びとして小林が紹介していることが小林にとって大変重要な意味を持つ言葉であったろうことが伺われる。「(バッハは)常に死を憧憬し、死こそ人生の完成にあたると思っていた」というくだりである。同じ頃哲学者の三木清との対談で、三木は「人間とは小説的動物である」と言っている。小林の言う「人間になりつつある一種の動物」(無常ということ)という比喩も同じ意味であろう。死こそ人間の完成であり、生きている人間はどうも何をしでかすか判らない。前述した動く物ということである。物とは物理的な物ではなく、悟性というようなものでもなく、形と言った方が適切かもしれない。歴史上の古典作品は完成されたもので、我々がこれを解剖するが如く研究するのであるが、これはまた一般にはやっかいな事であるが快感を伴うものであると小林は言う。古典作品や優れた美術作品を鑑賞するには、死体を解剖するだけでは魂は判らない。上手に思い出すとはその対象を心を虚しくして思い出すと述べたが、何を。当時の作者と人々の感動を思い出すことなのである。それには作品を人が子供を愛するが如く受け入れる気持ちがなくてはならない。小林は鑑賞するとは模倣することだとも言う。「全ての芸術は模倣に始まる」とはダヴィンチの名言だが、模倣は芸術作品の卵でもあるが、模倣することにより鑑賞という態度も芸術に近付くばかりでなく、その本質を一つにする唯一の道であるということを述べているのである。「無常ということ」の冒頭のかんなぎの真似をしたなま女房の話を小林は、「古びた絵の細頸な描線を辿るように」思い出したと言うが、その瞬間まさに模倣したのである。そして一言芳談抄の一文を我が体験、我が物としたのである。優れた芸術作品の鑑賞とは、漫然と見ることではなく、もっと積極的で強い態度で作品に臨み我が物とする態度を言うのである。そこに存在する永遠の美しい形をしっかりと見てとり同化することなのだ。それにより僕らは身も心も救われるという。(伝統)私はこの一連の文章で小林の難解とされる歴史認識の解説というようなことを考えているのではなく、小林秀雄の「こころ」を伝えて行きたいと思っています。
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八尾冬浪漫 22

2009年02月24日 | おわら風の盆
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八尾冬浪漫 21

2009年02月24日 | おわら風の盆
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