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バラとおわら風の盆と釣りなどの雑記

徒然草12 美の探究

2009年02月06日 | 徒然草

先日述べた「自由精神」であるが、明治以降近代文学が輸入され突如現われた、個性に関する標榜や自由という言葉ではなく、人として営々と繋がっている一つの感情であり、新しいものではない。特に個性化については、近年更に諸所教育の場面で謳われそれがあたかも正義の如く扱われている傾向にあるが、本来習慣に培われ続けている人間生活上においては、個性化というものは必要がなく、順番が逆である。教育とは忍耐を伴う訓練の結果初めて成果が現われるもので、更にその上を目指す志がある者にとって個性ということが重要になってくる。自由の問題も又然り。我々の習慣というものは、秩序を伴うものであり、その中での自由意志のみ認められる。これが一般的な庶民の姿である。何年に一人、大天才が現われ、この秩序を超えたものを創造することがあるが、その結果新しい秩序が生まれるだけで何も人々の行動規範は変わりはしない。

「伝統について」という小林の文章で法隆寺の救世観音像を見た志賀直哉が、そこには作者というものをまったく意識させず、フェノロサの言う、聖徳太子が製作者であるという伝説を信ずる気持ちを自分も信ずるという話があり、歴史学者や国文学者達はその時代背景や作者の心理状況を調べ、作品に隠された秘密を探すことに多忙であるが、それでは優れた芸術作品が永遠に残る意味は解決しようもなく、また解決は不可能であると述べている。志賀直哉の感想は、そうではなく、製作者としての発言であり、このような名作が残せるならば、自分は作品に名を残そうと思わないとまで述べている。永遠とは今この時点という概念がなければ、存在しないものなのである。永遠の作品とは、すなわち人々の感性も永遠であるということの証明であろう。時流とは関係なく、過去、現在、未来を貫く永遠なる美への探求が小林の創作態度であった。

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