将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

修道院と共同生活

2008年11月02日 | 社会生活
先日ある修道院の人たちとお話しさせていただく機会があった。そこはカトリックの修道院で、5人の修道女が同居しておられた。

別の用事で出かけたので、生活そのものについてはあまり聞けなかったが、お互いの出来る範囲で共同生活をしておいでのようだった。年齢層はさまざまで、料理の得意な方は料理、裁縫の得意な方は裁縫、パソコンの得意な方はパソコン、といった具合だ。

ただ、分業にしてしまうと、お互いの気持ちが離れ、神のもとに集い、礼拝中心の共同生活を送るという本来の姿がいびつなものになってしまいがちなためか、極力、専門化、分業化を避け、「分担」しているということだった。組織が大きくなると作業量が増えるので、効率化のためには分業化、専門化ということになりがちで、「階層」が生まれる弊害も出てしまう。組織は小さく、みんなが普通に毎日、目をあわせる範囲で運営するのが賢明なようだ。

そういう文化が根付いているためか、欧米系の人たちは気楽にルームシェアする。日本では、長屋や寮でその雰囲気を感じる事ができるが、日本の場合はあくまで団体生活、世間様の方に重点があり、個人は団体生活の方に合わせる事を期待される。ところが、欧米系の場合はまず個々人のプライベートが先にある共同生活なので、一見とても魅力的だが、日本人の自分からすれば想像もつかない。

プライベートを第一にした、共同生活がもし本当に出来るなら、それは理想だ。

これは知的障害者を抱えた家族、独居老人、身体障害者本人などに対し幅広いニーズのあるライフモデルだ。旧来の日本の文化にはないものだろうが、障害者介護、独居、信仰、等々、一つの目的のもと、意を同じくして集まれば必ずしも難しい事じゃないのではないかと思い始めた。なぜなら、それ以上に、それ以外の道が困難を極めているからだ。

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