将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

障害者の老後

2008年04月06日 | 最終章
土佐校で見せて頂いた、自閉症児の学校後の姿は大変いい参考になった。みんながみんな、そううまく行くとは限らず、実際卒業生がみんな残っていらっしゃる訳ではないが、それはとりもなおさず、地元に帰ることができた事を意味している。手がつけられない状況ではなくなったという事だろう。・・・と、思う。

ただ、まだ老後は見えない。知的障害者は老いも早いと聞く。内科的疾患にもなるだろう。これは適度な運動等をすることで防止できる成人病とは別次元の問題だ。また、運動するからこそ起こる整形外科的な疾患は、むしろ光の村方式だからこそ起きやすい可能性はある。私も若い頃酷使した腰と膝が今頃になって痛み、無茶しなければ良かったと思う事がたびたびある。

発病した時、どこまで治療できるか、すべきかは大変難しい問題だ。完全に治る病気ならいざ知らず、今の医学では命は助かったが、高度後遺症を残して、知的障害の上にさらなる障害を抱える事になる事もままあるだろう。

最近聞いた話では、知的障害者に腎不全が発症し、このままだと透析しないと命が危ないという事で、長く通った小児科から透析病院を紹介されたという。透析病院の方も腎不全で紹介された訳だから当然透析するしかなく、親御さんに今後の見通し、適用等を細かに相談する事もなく、「腎不全だから透析します。」という事だけで透析を開始したという。

そして、数週間入院透析した後、家の近くの外来透析中心の施設に再紹介となり、半年たった。しかし、針を抜いたり暴れたりする事こそないものの、さまざまな事でスタッフとうまくいかず、そのたびに年老いた親が呼び出され、生活もままならないという。認知症の方に、何か別の病気が起こった場合でも似たような話を良く聞く。実に辛い話だ。

治療にも「適用」という事が考慮されてしかるべきだと思う。そういう問題が起こるであろう事は、専門家には初めからわかりすぎるほどわかっていたはずだ。命の危険性は透析で乗り切ることが出来ても、上記のような問題は親なり社会なりにそれを支えきる体力と資質、経済的な裏付け、そして何より継続性がないと解決できないのだ。医学的な生命とは別に、社会的生命というものもある。いったん始めた事を止める事は理不尽だが、始めから「チャレンジしない」という選択肢はあり得る、と思う。


ただ、問題が起こる可能性があるとはいえ、何とかなる可能性も皆無とはいえず、一方、適用なしとして腎不全末期でも透析せず、死亡にいたり、後で裁判になった例もあり、その場合の司法判断は、やはり「腎不全なのだから透析すべきだった。」とされる例が多いようだ。しかし、裁判になった例でも、どうも言い方、説明の仕方に難があり、コミニュケーションがうまく取れていなかったことに起因する訴訟が多いような気がする。本当に難しい問題だ。


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