将人とともに together with Masato

For the parents in the world, whose children have autism.

一生

2008年03月10日 | 最終章
知的障害児が知的障害者に成長し、そして高齢ともなれば、知的身体障害者となる方も出るだろう。知的障害者は就学も就職も難しかった。買い物、散歩さえままならなかった。

病気になっても病院にかかることや、介護施設に関わることも簡単ではない。ただ、高齢となったこの最後の段階では、いわゆる健常者の方もさまざまな原因で障害を持つ事が多くなる。

生まれた時は、みんな丸裸のかわいい赤ん坊で生まれた。

それがいつしか健常者と障害者という、全く別々の道を歩むようになり、全然次元の違った楽しみ、苦しみを経てその一生を過ごした。

健常者の中には、大金持ちになって長者番付に乗るような人もいただろう。篤志家として世間の尊敬を集めた人もいただろう。あるいは、人をあやめて絞首刑になった人もいたかもしれない。世界中を飛び回って、普通の人の経験できないような事をたくさんした人もいるだろう。

一般的に、障害者は地味な人生を送ることになるだろうが、二次元的、三次元的に活発な行動を繰り返した健常者と比べ、だからといって不幸せだったと誰が言えるだろうか。

それが、最後の段階では、みんな何らかの障害を持って、また合流し、最終的には畳一枚に乗るだけの、財産も何も持たない身軽な体となって黄泉の世界へと旅立つ。

一方、障害児の親としての一生を図らずも送ることとなった我々も、健常者でいて健常者でない、障害者でもないのに障害者然として暮らした日々は決して平坦ではなかった。かといって、苦しみばかりだったかというと決してそんな事はないと断言できる。はみ出ていただけだ。

ただ、かつてネロのライオンに噛み殺された、ローマの初期キリスト教徒がおそらくそうであったように、今の世の中が苦しい者ほど黄泉の国が楽しみにさえ感じる。そういう前提で、敢えてある格言を思い出す。「死の自覚だけが生への愛である。」

高度に完成された土佐光の村は、親の高齢化もあわせ、親子の人生設計、特にその最終章を考える、そのいいモデルケースとさせていただいた。

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