Cockloft

趣味の道具や昔のノートなんかが散らばってる。
そんな「屋根裏部屋」。

No Border

2005-12-07 | Thinking

「どっからどこまでがコレ!」
って定義はなかなか難しいモンで

 

たとえば
親友はどっからどこまでか。

 

中学生のときくらい昔は、
変な仲間意識とか、はぶられたく無いみたいなのがあって
「コイツとコイツは親友」
みたいなのがあった。

 

でも今は全くといっていいほど使わない。

 

だってどっからが親友?

「親友」と「親友じゃない友達」で何か変わるのか。

確かに付き合いの深さや、
気の合う具合とかで程度の違いは出てくるけど、
そんな極めて抽象的な度合いで線引きはしたくない。

 

仮に線引きするとしても、
そんなの各人によって基準はさまざま。

オレだって線引きを始めたらその基準は非常にあいまい。

仮に「付き合いの深い友達」って基準にしたとしたら、
親友は山ほどいるってことになる。

 

でも
「限られた少数が親友」って条件があるとしたら、
そのうちの何割かは親友じゃないってことになる。

その選び方はオレにはわからんです

 

 

 

 

コレに限らず
「ここからここまでの線引き」ってのはいたるところで見つける。



音楽のジャンル。
インディーズとメジャーの線引きはどこか。
天才と馬鹿の境目はどこか。
自主性とエゴの境目はどこか。
空と宇宙の境目はどこか。
自信家とナルシストの境目はどこか。
もみ上げとひげの境目は・・・。

 

などなど、
考えたらいくらでも出てくるねぇ。

 

確かに、分かりやすくするためある程度は必要だとは思う。

でも国境をむりやり引いたために争いの絶えない国ってのも実際はある・・・。

 

あいまいなものを無理やりカテゴライズしようとするばっかりに労力を使う。しかし、それが出来たところで得るものは特に無い。

 

挙句の果てに
「こっからはオレの力では無理だ」
と、自分の限界までも決めてしまう人もいる。

 

こういう「線引き」とか「レッテル」っていうのは一見分かりやすそうに見えて、
気づかないうちに他の可能性までも狭めてる気がする。

 

 

例えば、
情報が足りないうちに無理やり
「この人はこういう人だ」と自分の中でレッテルを貼って、
「らしくない」だのと口出しをする人。

本人にしても「オレはこういう人なんだ」と無意識にそのレッテルを気にして、成長していく可能性まで狭めてしまう。

 

 

 

 

とにかく言いたいことは、
いちいち細かく線引きしなくていいじゃないかってこと。

 

世の中にあるあらゆる物事は、
線引き程度じゃ分かりやすくはならない。

むしろそれがあだになって足かせになったり、
争いごとの種にもなる。 

 

もちろん社会福祉の保障の範囲とか、その線引きが死活問題な人らもいる。
線引きってのはお互いの主観によって基準が変わるから、それを一般的にするってコトは非常に難しい。

 

「全部失くせ」とまでは言わないけど、
いちいち細かいカテゴライズで労力を使ったり、
可能性を狭めたりしなくてもいいんじゃないの?

少なくともオレはそういう線引きは好きじゃないっす。

 

 

ま、あくまでオレ個人の考えなんで気にせんで下さい