なおじい(HOBBY:カメラ・ビデオ撮影・DVDオーサリング/資格:ラジオ体操指導員・防災士・応急手当普及員)

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凶悪少年犯罪、親の料理を食べる習慣の少なさと因果関係か 偏食や一人夕食も 警察調査

2015年03月07日 18時59分24秒 | ブログ

凶悪少年犯罪、親の料理を食べる習慣の少なさと因果関係か 偏食や一人夕食も 警察調査

 神奈川県川崎市の中学1年生、上村遼太君殺害事件で、17~18歳の知人少年3人が殺人容疑で逮捕された。首を刃物で切るという残酷な手口は、世の親たちの心胆を寒からしめた。週刊誌の中には、事件の背景に過激派組織「イスラム国」の影響を取り上げているものもある。また、2013年に広島県内で16歳の少女が、無料通話・メッセージングアプリのLINE上で起きたけんかをきっかけにLINE仲間の少女ら6人に殺された事件同様、LINEの存在と事件の関連性を指摘している報道も多い。確かにLINEとそれぞれ事件は、無関係ではないだろう。

 だが、筆者はジャンクフードやファーストフードに依存した少年らの食生活が、少年凶悪犯罪を生み出している大きな要因だと考えている。犯人の少年らはどんな食生活を送ってきたのか。殺人容疑で逮捕された少年たちは、ゲームセンターを中心に深夜徘徊を繰り返していたという。また、事件直前の夜、逮捕された少年の自宅に集まり酒を飲み、その後、近くの中華料理店に行き、そこで上村君と合流したと報じられている。深夜徘徊や飲酒というのだから、逮捕された少年たちの日頃の食生活が相当に荒廃したものであったことは間違いないだろう。

●食事を一緒に取らなくなったことが事件の一因に

 筆者がこれまで取材してきた凶悪少年犯罪にも、犯人の食生活が大きな影響を及ぼしていた。「中央公論」(中央公論新社/00年10月号)の記事『17歳は何を食べてきたか』において、少年犯罪と食のルポを掲載したが、「宇都宮会社員リンチ殺人事件」で、無期懲役となった17歳少年(当時)の母親は「夕飯だけでもしっかり食べさせてやっていれば、こんな事件は絶対に起こさなかったはずです」と、涙ながらに語っていたのを鮮明に覚えている。

 1999年12月、栃木県宇都宮市を舞台に起きた17歳の少年3人組による会社員リンチ殺人事件は凄惨なものだった。被害者は市内に住む19歳の男性会社員で、少年3人組に殺されるまでの50日間近く「金づる」として連れ回され、シャワーの熱湯や殺虫剤スプレーに引火させた炎を全身に浴びさせられるなどのリンチを受け続けた挙げ句、山林に埋められた。主犯のA少年の父親が地元警察署の幹部だったのも衝撃的だった。3人組の1人の母親は、「被害者のご両親には申し訳ない気持ちでいっぱいで、言葉もありません」と謝罪した後、筆者にこう語った。

「主犯のA少年とは中学校の同級生なのですが、付き合いはありませんでした。A少年は中学時代からこの辺では札付きのワルで有名でした。うちの子は誘われると断れないタイプなので、中学校の時は先生が配慮してA少年とはクラスを3年間同じにしなかったくらいです。私も息子にA少年とは『絶対に付き合うな』と口すっぱく言っていまして、本人も『わかっているよ』と言っていたのです。それが、どうしてか付き合うようになってしまいました」

© Business Journal 提供

 親子の共通認識として、A少年とは付き合わないように意識していたというのだ。

「息子は高校を中退し働いていたのですが、交通事故で怪我をして仕事を休んでいました。パチンコが好きで休職中も近所のパチンコ屋とかゲームセンターによく出かけていました。そこで、偶然A少年と会ってしまったのです。それからは息子の携帯に1日に何十回としつこく呼び出しの電話がかかってくるようになりました。いま思うとその頃、無理をしてでも晩の食事を息子と一緒に食べていればよかったのです。離婚してから仕事で私の帰りが遅くなり、食事の用意がほとんどできなくなってしまいました。少なくとも食事の用意をしていれば、夜、食事をしに外に出ることもなく、A少年と会うこともなかったはずです。息子はそのうち家に帰らなくなってきました。どこにいたのか聞くと『友達の所に泊まった』と言いました。その時、ひっぱたいても外泊をやめさせればよかったのです。悪いことはやはり夜起こります」(同)

 犯人少年の母親は、夕飯を息子と一緒に取れなくなったことが事件の大きな要因になっていると本能的に感じたのだ。

●食習慣と犯罪の関係

 筆者が取材した限りでは、2000年の佐賀西鉄バスジャック事件も犯人少年の食生活の影響が大きいものだった。犯人の少年が唯一心を開いていたという中学1年生時の担任教師は、「私は彼が高校へ入学し、引きこもりになったときの食生活が非常に気になります。彼は偏食傾向が強かった」と語った。中学の卒業アルバムにも「好き嫌いするんじゃねー、何でも食べよら」「サイダー飲んだら骨溶ける」「牛乳飲めよ」等の寄せ書きが、彼に寄せられている。高校入学後、引きこもってからはますます偏食傾向が強まったと思われる。母親から相談を受けた前出の教師は少年の自宅を訪問したが、父親も母親も少年の言いなりになっているのに驚いたという。

「父親に対して『お茶』と命令口調で言う。父親はそれでもニコニコしている。私が『お茶をください、だろう』というと、彼は『ははは』と笑っていました」

 少年の両親は大学病院のカウンセラーに相談しており、カウンセラーは「子どもの言うことはすべて受け入れなさい」と、両親にアドバイスしたという。当然、食事も子どもの食べたいものばかりになっていたはずだ。しかし、子どもの要求を受け入れすべて満たしてやれば親は“子どもの奴隷”となり、子どもは“欲望の奴隷”になってしまう。人を健康に育むはずの食が欲望のままになれば、それはまさしく食の「餌」化で、行動も動物同様、欲望のままになる。

「少年犯罪と食」の関係については、以前から警察でも大きな関心を抱いている。98年に茨城県警、02年に群馬県警から少年犯罪と食についての調査報告が発表されている。県内で検挙・補導された中学生・高校生とほぼ同数の一般の中高生との食生活を比較したものであるが、両県警の調査結果はほぼ同じとなっている。「朝食を一人で食べる」「家以外で朝食を食べる」「夕食を一人で食べる」「家族で鍋を囲むことがない」というのが、非行少年、特に粗暴犯の大きな特徴である。また、間食では非行少年のほうがジュース類を一般少年らより多く飲んでいる。食事の好き嫌いをみると、非行少年は果物、牛乳、おひたし、ごまあえ、ご飯、野菜、味噌汁、魚の煮物が嫌いな子が多い。朝からカップ麺を食べるという子も非行少年には何人かいた。

 茨城県警察本部少年課では「食事を親に作ってもらい、それを食するという習慣の乏しさは、非行と関係することがうかがえる」と、考察している。

 お父さん、お母さんへ。息子、娘たちと週に一度は必ず一緒に食事をしようではありませんか。子どもたちのSOSもキャッチできるはずです。


戦艦「武蔵」か 発見者ポール・アレン氏の素顔は

2015年03月07日 09時07分45秒 | ブログ

戦艦「武蔵」か 発見者ポール・アレン氏の素顔は

 世界最大、最強の戦艦と言われた旧日本海軍の戦艦「武蔵」が、アメリカ軍の攻撃によってフィリピン沖に沈みました。戦後70年の年に、この「武蔵」と見られる船の残骸が、アメリカ人の大富豪によって発見され、今、専門家らが分析しています。

 世界最大のIT企業、マイクロソフトをビル・ゲイツ氏とともに創業したポール・アレン氏。アメリカの経済紙「フォーブス」が先月発表した長者番付で世界51位。総資産175億ドル、日本円にしておよそ2兆1000億円の大資産家です。

 「シアトル市内のこちらのスタジアム。アメリカンフットボールとサッカーのプロチーム2つが本拠地にしていますが、実はこの2つのチームのオーナーもアレン氏なんです」(記者)

 過去には自らが所有するNFL=アメリカンフットボールのシアトル・シーホークスが優勝しました。

 様々な顔を持つアレン氏は8年以上前から私財を投じ、日本の軍艦を探索するプロジェクトを進めていました。その軍艦とは旧日本海軍の戦艦「武蔵」です。全長263メートル、大和型戦艦の二番艦として建造され、当時、“世界最大、最強の戦艦”と言われました。

 「武蔵」の乗組員だった原口静彦さんは当時の様子をこう語ります。

 「いやー大きいと思いました。これならば沈まんだろうと」(「武蔵」の元乗組員 原口静彦さん)

 最大の特徴は、口径46センチもある主砲です。

 「すごかったですね。常識はずれで。射程が42キロありましたから」(「武蔵」の元乗組員 原口静彦さん)

 しかし、1944年10月、アメリカ軍の激しい攻撃を受け、乗組員1000人の命とともにフィリピン沖に沈没。船体の行方についてはこれまで特定されていませんでした。ところが今月、アレン氏が自身のツイッターやホームページなどで戦艦「武蔵」の船体と見られる映像や画像を公開したのです。

 「武蔵には15トンの錨が2基あり、こちらは右舷に残る錨です」

 水深1000メートルの海底とされる映像には茶色い船体の一部が映っています。バルブハンドルには、「主弁取手」や「開」と読み取れる漢字が刻印されているように見えます。

 「こちらは主砲94式46センチ砲の第一砲搭台と思われます」

 艦首と思われる部分には菊の紋章があった丸い枠が確認できます。

 広島県呉市の大和ミュージアム。戦艦「大和」の10分の1の大型模型が展示されています。戦艦「武蔵」も「大和」とほぼ同型だとミュージアムの担当者は話します。

 「戦艦『武蔵』の錨が見えます。これが収納位置で模型と同じように失われずそのままある」(大和ミュージアム 相原謙次学芸員)

 これ以外にも映像に映る砲台やカタパルトの形状が「武蔵」と判断できる材料だと言います。

 「映像を見るかぎり、戦艦『武蔵』と断定していい」(大和ミュージアム 相原謙次学芸員)

 アレン氏は幅広い分野でその名が知られる存在です。アレン氏が資金を提供したアメリカ・シアトルの博物館。ここには、アメリカポップス界ゆかりの品々やSF映画の衣装などが展示されています。実はアレン氏、音楽好きが高じてアルバムデビューも果たしているのです。

 「10年後には宇宙船を軌道にのせるでしょう」(ポール・アレン氏)

 2011年には宇宙船による貨物輸送を目指す会社を設立するなど、様々な分野に資金を注ぎました。

 「彼は街にとってすばらしい人だよ。大量の金と時間をつぎ込んでくれるからね」(シアトル市民)
 「彼は地域に貢献してくれるし、間違いなくシアトルで大きな影響力がある」(シアトル市民)

 アレン氏の口癖は「何が存在すべきか」。新しいことにチャレンジするたびにこの言葉を思い出していたと言います。

 戦艦「武蔵」と見られる船体の発見は戦後70年を迎える節目の今年、戦争について考えるきっかけとなる存在になるのかもしれません。

戦艦武蔵に間違いない!

2015年03月07日 08時52分44秒 | ブログ

戦艦「武蔵」か 新たな動画公開

3月4日 19時24分
戦艦「武蔵」か 新たな動画公開
 
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フィリピンのレイテ島近くのシブヤン海で、太平洋戦争末期に撃沈された当時としては世界最大級の軍艦、「武蔵」とみられる動画が新たに公開され、今後、日本の専門家などによる確認作業が進むことが期待されています。
旧日本海軍の戦艦「武蔵」は、太平洋戦争末期の昭和19年10月、レイテ島に上陸を始めたアメリカ軍に反撃するためレイテ湾に向かう途中、アメリカ軍による魚雷などの攻撃を受け撃沈されましたが、その後、船体は見つからず、どこで沈没したかは謎のままになっていました。
ところが、アメリカのIT企業マイクロソフトの共同創業者で資産家のポール・アレン氏が、「シブヤン海で、『武蔵』の船体を発見した」として2枚の写真を投稿したのに続いて、4日、新たに自身のホームページに「旧日本海軍の『武蔵』」とタイトルをつけた1分余りの動画を新たに公開しました。
今月2日に発見した「武蔵」の船体の一部とされる映像には、海底に沈む「開」などの漢字が書かれたバルブや巨大ないかりが鮮明に映っています。いずれも、さびや海藻が付着していて年月の長さを感じさせます。さらに、艦首の一部が映し出され、かつてこの部分に菊の紋章がついていたとみられるとの説明がつけられています。
ホームページによりますと、アレン氏は、父親が太平洋戦争に従軍したことから歴史的な軍事技術を保存することに情熱を感じていて、8年前から戦艦「武蔵」の捜索を続けてきたということで、一連の映像の公開などで今後、日本の専門家などによる確認作業が進むことが期待されています。

「武蔵に間違いない」

広島県呉市の「大和ミュージアム」の館長で、旧海軍の歴史を研究している戸高一成さんは、公開された動画を見たうえで、「写真を見た時点で、ほぼ間違いないと思っていたが、この動画で、間違いなく『武蔵』だと言ってよいと思う。非常に驚きました。艦首の辺りは、武蔵など大和型の戦艦の特徴がよく出ていると思います」と指摘しています。
さらに、「動画を見て、比較的よい状態で残っていると感じました。『武蔵』については、どのような状況で最期を迎えたのか、不明な部分がかなりあり、今回の発見で、こうした点が明らかになると期待されます」と指摘しています。
そのうえで、「太平洋戦争の記憶が薄れ、過去になりつつあるなか、改めて戦争のことを考える意識を高めるうえで、戦後70年の節目の年に発見されたことは、大変、意義があると思う」と話しています。

造船所の史料館では驚きの声

武蔵を建造した長崎市の造船所の史料館を訪れた人たちは「見つかるとは思わなかった」などと話し、驚いた様子でした。
戦艦「武蔵」は、旧日本海軍からの極秘の指令を受けて、昭和13年から長崎市の三菱重工業長崎造船所で建造され、昭和17年にしゅんこうした、当時としては世界最大級の軍艦で、昭和19年10月、フィリピンのレイテ島の近くにあるシブヤン海で魚雷などを受けて沈没し、乗員1000人余りが死亡しました。
武蔵の船体の一部とされる写真や動画がツイッターに投稿され、注目を集めるなか、三菱重工業長崎造船所にある史料館には、多くの人たちが見学に訪れています。
展示されている資料は、およそ50点で、船を建造するときに使われた22キロの大型ハンマーや、海軍に提出した見積書などがあります。
また、進水式で縄を切る際に使われたおのや、横須賀に寄港した際に撮影した昭和天皇も写っている記念写真なども展示されています。
訪れた人たちは、当時の様子をうかがい知ることができる貴重な資料を興味深そうに見ていました。
見学していた、長崎市の西岡千晴さん(25)は、「自分が生きている間に武蔵が見つかるとは思いませんでした。船員や船の供養になるので、できれば日本に戻してほしい」などと話していました。