ただ今翻訳の仕事で、英和辞典を作るべく一冊の英英辞典を訳しているのだが、これが英語の勉強になると同時にとても日本語の勉強になっている。またいろいろと考えさせられることがある。
「ズボン」という言葉はもう死語となっているらしい。今はズボンのことをパンツというらしい。じゃあ下着のパンツは何というのか?また認知症に関係した言葉で「もうろくする」という言葉ももう死語になっているらしい。
私が日本を離れているからこうした言葉の移り変わりに気付かないでいるのか、それともどこにいようが若い世代の新しい言葉には取り残されていくものなのか。
差別用語というのは辞書の翻訳では神経を遣わないといけなくて、これはと思う言葉は必ず放送禁止用語の一覧と照らし合わせている。
スチュワーデスといった女性であることが前面に押し出されている言葉は差別用語に当たるとして「キャビン・アテンダント(CA)」という和製英語が生み出されているし、多くの「~マン」で終わる言葉(セールスマン、スポークスマン)には女性形「~ウーマン」形(セールスウーマン、スポークスウーマン)が作られている。
そうした変化の全部が全部、納得できるものではなくて、勝手に人間に「差別用語」のラベルを貼られ、使用を禁止されている言葉もあるように感じてしまう。動物を「屠(と)殺する」という言葉が差別用語となっているのにはちょっと驚いた。
「乞食」は差別用語になるとして代わりに「ホームレス」という言葉が放送用語で使われているらしいが、私の中ではどうも物乞い=ホームレスにならない。
10年くらい前に「この言葉も差別だ、あの言葉も使うなと言われるなら、もう小説を書くのをやめる」といって筆を折った日本人の作家がいるという話を聞いた。
差別用語を迂回するため微妙に意味が違う言葉を使わざるを得ない経験をしている今、その作家の気持ちがちょっと分かるような気がする。差別に無神経になるつもりはないけれど、なんだか言葉の自由を奪われる束縛感を感じてしまう。。
「ズボン」という言葉はもう死語となっているらしい。今はズボンのことをパンツというらしい。じゃあ下着のパンツは何というのか?また認知症に関係した言葉で「もうろくする」という言葉ももう死語になっているらしい。
私が日本を離れているからこうした言葉の移り変わりに気付かないでいるのか、それともどこにいようが若い世代の新しい言葉には取り残されていくものなのか。
差別用語というのは辞書の翻訳では神経を遣わないといけなくて、これはと思う言葉は必ず放送禁止用語の一覧と照らし合わせている。
スチュワーデスといった女性であることが前面に押し出されている言葉は差別用語に当たるとして「キャビン・アテンダント(CA)」という和製英語が生み出されているし、多くの「~マン」で終わる言葉(セールスマン、スポークスマン)には女性形「~ウーマン」形(セールスウーマン、スポークスウーマン)が作られている。
そうした変化の全部が全部、納得できるものではなくて、勝手に人間に「差別用語」のラベルを貼られ、使用を禁止されている言葉もあるように感じてしまう。動物を「屠(と)殺する」という言葉が差別用語となっているのにはちょっと驚いた。
「乞食」は差別用語になるとして代わりに「ホームレス」という言葉が放送用語で使われているらしいが、私の中ではどうも物乞い=ホームレスにならない。
10年くらい前に「この言葉も差別だ、あの言葉も使うなと言われるなら、もう小説を書くのをやめる」といって筆を折った日本人の作家がいるという話を聞いた。
差別用語を迂回するため微妙に意味が違う言葉を使わざるを得ない経験をしている今、その作家の気持ちがちょっと分かるような気がする。差別に無神経になるつもりはないけれど、なんだか言葉の自由を奪われる束縛感を感じてしまう。。