つれづれ写真ノート

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京の文化財散歩(冷泉家公開)

2015年11月06日 | 旅行

11月3日の文化の日、ぶらっと京都へ行ってきました。

秋の「京都非公開文化財特別公開」(10/30~11/8)の期間中で、普段は見られない冷泉家(れいぜいけ)が公開されていました。

 

冷泉家。周りは同志社大学。

 

京都御所(御苑)の北、今出川通りを隔てたところにある冷泉家は、平安・鎌倉時代の歌人、藤原俊成、定家父子を祖先に持ち、800年も続いている「和歌の家」。どっしりとした塀に囲まれた屋敷は、現存する最古の公家屋敷として重要文化財に指定されています。

伝統と格式を重んじる京都の、ある意味で象徴のような場所ですね。

かなり前、「冷泉布美子が語る 京の雅 冷泉家の年中行事」(聞き書き・南里空海、集英社)という本を読んで以来興味を持ち、いつか訪ねてみたいと思っていました。

 

「冷泉家特別公開」の看板が立てられた表門。

 

公開は他の特別公開文化財と比べて短く、10月31日から11月3日までの4日間だけ。拝観料は大人800円、中高生400円。

あらかじめ分かっていたことですが、内部の撮影は禁止になっていました。

なので門の外から撮るしかありません。

 

表門から見た冷泉邸。このあたりまでが撮れる限界。

玄関を目隠しするための、格子状の「立蔀(たてじとみ)」が見えます。

 

珍しいのは表門の屋根の両側にある亀の瓦。

仁王像のように「阿吽(あうん)」の姿が対になっています。これは向かって右側の、口を開いた「阿」の亀。

 

こちらは口を閉じた「吽」の亀。

 

なぜ亀の像があるかというと、冷泉家が京都御所の北に位置していることから、「四神」のうち北を守る「玄武神」(亀と蛇の姿)を表したものだそうです。

また、屋根の中央の梁にもう一匹、木彫りの亀が北向きに屋敷を見守るように祀られているとのこと(ちょっと見えませんでした)。

この亀については、「冷泉布美子が語る 京の雅 冷泉家の年中行事」で冷泉布美子さんが面白いことを話しています。

京都の大半を焼き尽くした天明の大火(1788年)で、冷泉家の屋敷も御文庫(藤原俊成、定家などの書物を収めた土蔵)だけを残して焼失。2年後に再建の地鎮祭を行っていた時のこと、

『裏の相国寺から来たのでしょうか、一匹の亀がノソノソと現れたのだそうです。それを“繁栄之吉瑞也”と喜び、冷泉家の表門の梁に、木彫の亀が冷泉家を守護するかのように置かれるようになりました。私どもの分家に下冷泉家がございます。下冷泉家に対して、うちは上冷泉家と呼ばれておりますが、それがいつの間にか“亀冷泉”と呼ばれるようになりましたのは、庭のあちこちに亀がノソノソと歩いていたからだそうです。娘たちがまだ小さいこ頃、庭の亀をたいそう怖がって、見ると泣いておりました。』(冷泉布美子さん談)

 

この日の特別公開では、水のせせらぎがある庭も拝見しました。亀は見かけませんでしたが…

 

冷泉邸の見取図と拝観順路(赤い線)。

(冷泉家に失礼とは思いましたが、ネットで見つけた見取図に、拝観順路の赤い線を加えた画像。あくまで記事の参考。公式なものでは全くないので、再掲載・配布なさらないようにお願いします。下絵の見取図は「わくわくドキドキ DOUBLE HEART」さんのブログから引用しました。官公庁などの資料かと推測します。出所は未確認。)

 

台所の土間を内部から、玄関、座敷、御文庫は外から見学、係の人が説明してくれました。

 

<台所土間>

黒ずんだ柱と高い天井の土間に、白く塗られたかまどが2つ。「おくどさん」といって、正月や神事に使われるもの。土間の正面の梁に「しゃぐま」という大きなワラ束が吊り下げられていました。祇園祭の長刀鉾に使われ、祭が終わると冷泉家がもらい受け、魔よけとして飾るならわしだそうです。

普段使う台所は奥の方にあり、かなり広そうでしたが、見られませんでした。

<玄関>

日常の来客や家族が出入りする内玄関と、当主や賓客の出入りに使われる大玄関の2つ。

内玄関の前には目隠しの「立蔀(たてじとみ)」が立てられ、大玄関には、来客が地面に降りることなく駕籠に乗れるように式台(板の間)が設けられています。

<座敷>

庭に面した座敷は、来客の身分の高さの順に「上の間」「中の間」「使者の間」が連なっています(「上の間」は神事にも使用)。

部屋の境に欄間(らんま)がないのは、歌会などの大きな行事のさい、襖を外して全体を一室化するため。襖の模様は黄土色の地に銀色の雲母で型押しした「牡丹唐草」で統一。歌を詠むときに邪魔にならないよう、季節性のある柄は使わないとのこと。

さすが和歌の家。徹底していますね。

 

天皇の勅使などは、玄関ではなく、庭に通じる「塀重門」を通り、座敷縁先の階段から直接「上の間」に上がったそうです。

庭には、(座敷側から見て)左近の梅、右近の橘が植えられています。座敷に、後桜町天皇から拝領の「牡丹図蒔絵文箱」、光格天皇の遺品「菊図象嵌鉄火鉢」などが展示されていました。

<御文庫>

2階建の土蔵。貴重な文書を収めてあり、冷泉家の信仰の対象。

防火を考えて、白い壁の厚さは八寸(24.2センチ)も。木製の屋根は、漆喰の屋根に載せてあるだけで、火災の時、延焼を防ぐために取り外せるとのこと。

最悪の場合に文書を投げ入れる(?)井戸もそばにありました(過去そういう事態はなかったそうですが)。

 

藤原定家自筆の「古今和歌集」「後撰和歌集」「名月記」など国宝5 件をはじめ重文指定の多数の文書、それ以外のものも含めて何万点もの歴史資料がこの御文庫に保存されています。(参考までに、朝日新聞出版が文書を撮影した精巧な複製本「冷泉家時雨亭叢書」を出しています。最終的には100巻!で完結する予定)

いわば日本の伝統文化のタイムカプセル。それを守り続けてきた冷泉家の努力には頭が下がります。

 

それにしても膨大な古文書と広い屋敷… 荘園を持っていた公家の時代ならいざ知らず、現代では個人が維持していくのは相当な困難。このため、昭和56年4月に、将来にわたり恒久的に文化遺産を継承保存する目的で、公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」(理事長は現在、第25代当主・冷泉為人氏)が設立されています。

平成6年から12年末にかけては、屋敷の解体修理も行われました。

 

お土産に買った一筆箋。京の雅(みやび)ですね~

和歌などをさらさらと書ければいいのですけど…

 

かわりに藤原定家の歌をひとつ。

「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩(もしほ)の 身もこがれつつ」(百人一首)

「小倉百人一首」の選者も定家でした。

定家の時代は源平の争乱があったり、後鳥羽上皇が隠岐に流されるなど激動の中。歴史書を読んでいると興味が尽きません。

 

冷泉家見学のあとは、大覚寺の嵯峨菊を見に行きました。

その話は次回に。

 

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撮影カメラ・レンズ

   キヤノン EOS 6D

    EF24-105mm F4L IS USM

   ソニーRX100

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関連記事・サイト

   ・京都古文化保存協会

   ・『京都非公開文化財特別公開 2015年秋』(朝日新聞デジタル)

   ・『モリサワ文字文化フォーラム 第1回 - 冷泉家の歴史と文化』(2010年)