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徳川光圀の話あれこれ(10)

2021-02-05 19:39:54 | 水戸


二の丸展示館パネルにある光圀像です。

 

 居間に案内されたが、案外に粗末で狭く、天井や壁には反古(ほご)紙が貼ってあり、その中には自分の藩から送った書簡もあった。徳川光圀は天井や壁は塵を防ぐためのもので、これで足りている、自分で貼ったといっていた。身辺に仕える女中に美人はおらず、その衣服は粗末で、お前たちの召使いにもあのような者はいないだろう。尾張公が、光圀の小石川邸を訪ねて帰ってきたときに、家臣にいったことだそうです。(水戸義烈両公伝)

 

 本当の学者は、自分の智や学を隠すものだが、光圀は、僧や学者を論難して喜んでいるところがあり、これは学者のやらないことだ、ということが、土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)に書かれているそうです。光圀には、自分の知識をひけらかして、相手をいじめるというところがあったようです。(磯田道史)

 

 鮎釣りに行ったとき、急に河原で料理をするようにと、光圀が命じたそうです。まな板や庖丁がないと家臣が困っていると、光圀は藁ほど清浄なものはないから、わらじの裏に鮎をのせて、小柄(こづか 刀の鞘(さや)の内側にある溝にはめ込む小刀)でさばくようにといったそうです。これを足なか(足裏の半分程しかない、かかとのはみ出すわらじ)料理といったそうです(西山遺事里老雑話)

 

 雪が降り出した12月下旬に、光圀が急に神崎(かみさき)へ行くことがあったそうです。お付きの者の一人が、大名とは心ないものだ、禄の少ない者は年末にお勝手具合のやりくりで苦しんでいるのに、といったことが光圀の耳の入ったらしく、すぐに城に戻ったそうです。それでも、何のおとがめもなかったそうです。(西山遺事里老雑話)

 

 西山荘の池へ、霞ヶ浦の玉里鯉をいけすに入れて取り寄せたそうですが、みな死んでしまったそうです。光圀が、これからは、鯉の口の中へ挽き茶を詰め、籠へ入れて動かないように結んで運ぶようにといったので、そのようにしたところ、死ぬ鯉はなかったそうです。(西山遺事里老雑話)

徳川光圀の話あれこれ(9)

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