今回も建立年のわかる二十三夜塔です。
二十三夜塔(大足町36°23'07.2"N 140°21'48.6"Eあたり)
寛政4年(1792)です。かろうじて寛政まで読めますが、左方に壬子(じんし みずのえね)が読めるので、寛政4年であることがわかります。右下には、単に「村講中」と刻まれています。Y字路の角に建てられた青面金剛等4基の石造物群の中にあります。6代文公・徳川治保(はるもり)の時代のようです。この年、財政の逼迫で、初めて藩士の禄の半分が差し引かれるという半知借上がおこなわれたそうです。
廿三夜供養(鹿島神社 内原町496)
上部にサクという勢至菩薩をあらわす梵語、右下に「寛政六(1794)甲寅(こういん きのえとら)天」、左下に「閏(うるう)十一月吉日」がそれぞれ刻まれています。鹿島神社境内には、外にも寛政5年(1793)と刻まれた「二十三夜供養」塔がありますが、一方か両方が道路工事などで移されてきたものなのでしょう。これも治保の時代です。
二十三夜尊(地蔵院 金谷町325)
右下に「寛政九丁巳(ていし ひのとみ)年」、左下に「一月吉日」とあるようです。二十三夜塔の建立月には十一月が多いようなので、一月というのは珍しいようです。治保の時代です。8代斉脩(なりのぶ)がこの年に生まれたようです。
廿三夜供養(飯富町36°25'46.4"N 140°24'54.8"Eあたり)
これはむりやりで読んだ「文政」(1818-31)の廿三夜供養塔です。Y字路の角に、庚申供養塔と共に並んでいます。その前には「飯富馬車中」と彫られた明治になって建てられた馬力神碑が建っています。文政年間は、哀公と諡(おくりな)された、8代斉脩(なりのぶ)の時代です。「夷人」の来航が目立つようになり、会沢正志斎がその危機を訴えた「新論」を書いた時代です。
二十三夜尊(観音堂 五平町1002)
碑の上に日と月、右に「明治二年」、左に「己巳(きし つちのとみ)霜月(11月)二十三日」とあるようです。旧内原町では、明治になって初めて建てられた二十三夜塔碑のようです。観音堂前に並ぶ石造物群の中にありました。旧守派の市川三左衛門が処刑され、版籍奉還が行われ、徳川昭武が水戸藩知事になった年のようです。