ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸人の海外体験

2021-06-25 21:03:49 | 水戸

徳川昭武と随従の7人の侍
 徳川慶喜の弟・昭武は慶応3年(1867)にパリ万国博に出向き、その後留学ということ欧米で生活したそうですが、これには、幕府崩壊の後を考えていた慶喜の思惑があったそうです。昭武は帰国後、水戸徳川家を継ぎ、水戸藩知事になったそうですが、その後、この海外体験はあまりいかされることはなかったようです。このとき、護衛としてつき従った水戸藩7人の本圀寺派の侍も、行き場のなくなっていた彼らを海外に行かせて、攘夷思想から目を覚ますようにとの慶喜の考えがあったようです。でも残念ながら、この人たちは、頭の切り替えができなかったようで、後年、そのことを本人が反省しているそうです。写真は、偕楽園にある、昭武筆題字の遺徳之碑です。

 

安田定則
 安田は、薩摩出身で、明治17年にロンドンの発明品博覧会事務官長となり、イギリスへ渡り、帰国して明治19年に茨城県知事に就任したそうです。自分への反対の民権派や、一流の人物を抜擢する人事、大火を利用した銀杏坂などの思いきった市区整備といった大きな改革をおこなうとともに、米人牧師アーネスト・クレメントを中学校の英語教師に任命したり、巻きたばこ製造、旧城内で豚を飼育させハムを製造、西洋料理を行う洋館の建設、師範・中学校生徒の仮装行列等々多彩で人の目を驚かす事々を行ったそうです。それによって、洋風ハイカラ知事という名が付けられたそうです。ただし、キリスト教は好まなかったそうです。写真の丸は、安田が行った、土塁を切り崩して作った、新しい銀杏坂です。

 

   

常陸山
 19代横綱・常陸山は、明治40年に弟子3人とアメリカへ渡り、ルーズベルト大統領を表敬訪問して、北川北仙作で水戸徳川家から拝領したといわれる飾りの太刀を贈ったり、土俵入りを披露したりしたそうです。その後、ロンドン、パリ、ベルリンを回り、ロシア経由で帰国したそうです。写真は堀町運動公園にある常陸山像です。

 

樫村勝三郎
 明治41年にミシシッピー川で行われた長距離競泳大会で、本町出身の樫村勝三郎は一等賞となり、水府流の名前を有名にしたそうです。また、溺れかかった人を救って称賛されたこともあったそうです。この人は帰化したそうで、ジョージ・カシムラと名のったそうです。写真は水府橋近くにある水府流水泳道場碑です。

 

菊池謙二郎
 旧制第二高等学校(現・東北大)校長などを歴任後、乞われて水戸中学校(現・水戸第一高校)校長に就任した菊池謙二郎は、その在任中の大正8年から約1年、中等教育視察のためにアメリカからヨーロッパをまわる、欧米視察をおこなったそうです。帰国後、出席率の向上、自発的学習を主とする教育、日常の学習で評価するため定期試験を廃止、保健衛生上生徒の掃除を廃止といった民主化教育を実施したそうです。しかし、その頃おこなった講演がきっかけとなって、危険思想の持ち主というレッテルをはられて校長を退いたそうです。道徳を皇室を中心とした国民道徳と、個人道徳に分けて、個人道徳は偽善に陥りやすいので、自主、自発等の徳を養わねばならないといった講演などだったようです。写真は水戸第一高校入口付近です。


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