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水戸の見て歩き

水戸の桜の話題(3)

2024-03-28 21:26:30 | 水戸

桜町(さくらまち 金町2あたり)
 江戸時代初めは寺院が多くあって、上寺町といわれたそうです。武家屋敷造成のために延宝年間(1673-1681)に寺は移転したそうです。枝垂れ桜があり、それが美しかったので、桜町となったそうです。その後、由来の桜はなくなったそうですが、東照宮の祭礼には、その桜の姿を再現したものが使われたそうです。

 

徳川吉子
 徳川斉昭の正室として宮家である有栖川宮から嫁いできた吉子(幼名は登美宮(とみのみや)、院号は貞芳院(ていほういん)、諡(おくりな)は文明夫人)は、紫宸殿・左近の桜の鉢植えを小石川の藩邸にもたらしたそうです。その後、桜は弘道館玄関前に移植されて、現在3代目が育っているそうです。その桜の一株が、北辰一刀流の達人で水府流水術の指南でもあった、当時弘道館司吏・小沢敏行がもらって桜町(現・金町2)の自宅に植えたそうです。その木が花を咲かせるようになり、小沢は、吉子に由来と歌を、桜の花を松平雪江(せっこう)にかいてもらい、石碑にして建てたそうです。その碑は現在、弘道館入口付近に建てられています。歌は「天(あま)さかる ひな(鄙)にはあれど さくら花 雲のうへまで さき匂はなむ(咲き匂わなん)」です。この桜は、妙霞台(みょうかだい)の桜ともいわれたそうです。桜町の写真で見える背後の建物のあるあたりに、小沢の屋敷があったようです。石碑の写真では、左右と上に桜が描かれていて、中央に吉子の歌と文があるようです。

 

版木
 版木には桜、桂、朴などの木や、シナベニヤ(シナノキの合板)などが、現在使用されているようです。桜は材が固くて、細かい表現ができるので、浮世絵などに使われたそうです。水戸藩主や藩士の遺墨を拓本したという水戸拓(みとたく)も、桜の版木が使われているそうです。写真は水戸市立博物館で見た、岩田咸章堂(かんしょうどう)で使用された水戸拓の版木だそうです。拓本の版木なので、鏡文字になっていません。

 

朱舜水(朱舜水像 舜水祠堂跡 36°22'48.1"N 140°28'14.1"Eあたり)
 徳川光圀が師として招いた、明の亡命僧・朱舜水は桜が好きで、中国にこの木があったなら、まさに百花に冠たるものだったろうといったそうです。ソメイヨシノは幕末に交配でできたそうですから、朱舜水の好んだのは、山桜などの古くからの品種だったのでしょう。今はありませんが、かつて水戸につくられた舜水祠堂(大町3)には、山桜が植えられていたそうです。写真はNTT東日本茨城支店前にある朱舜水像です。

 

桜宮(さくらのみや 護国神社 見川1-2-1)
 護国神社の拝殿に向かう参道の途中に、赤い鳥居の桜宮があります。祭神は木花開耶姫(このはなさくやひめ)だそうです。桜山にあるので、それに関係しているのでしょうか。

水戸の桜の話題(2)

コメント
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