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徳川光圀の酒(7)

2020-11-19 19:53:40 | 水戸

写真は徳川光圀の署名です。水戸市立博物館で見ました。

 
 早く死去した光圀の正妻・泰姫(たいひめ)の歌に あかなくも ながめくらせる 夕闇の 月になるまで めくるさかつき(暗くなるまで月をながめながら、盃を交換して時を過ごしたことよ といったところでしょうか)があるそうです。盃がめぐったというのですから、泰姫もけっこう飲んだのでしょうか? 光圀の泰姫を悼む書に、「去年の今日は対酌して觴(さかずき)を挙げ、今年の今日は独り坐して香を上げる」ともあるそうです。

 

 江戸・谷中あたりで桜を楽しんで宴を開くこともあったようですが、そのとき、藩の絵師・狩野興雲が酔ったせいもあるのでしょうが、 「時なれや 爰(ここ)も盛(さかり)の さくら花 にし山(西山は光圀のこと)様に 咲匂ふらむ」  とヨイショの歌を詠むと、光圀は 「白たへの 花見てさけを のむ人や うかれ心の おこる雲かな(興る雲かな)」 という興雲の名前を読み込んだ返歌(狂歌)を詠んだそうです。

 

 光圀が小城城主3代鍋島元武にあてた書状に、以下のようなものがあるそうです。(酒の部分を抜き出して適当に直しています) 4日には、10名ほどで花街へ繰りだし、帰りに船で「大酒致候(いたしそうろう)」。15日には、川手屋敷へ「孔子弟子(儒者)共」を集めて「気を告げ」たそうです。16日には川手屋敷へ「出家(僧侶)客御座候て野郎共」が2-3人来て、また「大酒致候」。18日には出家衆の船へ行き「又々酒ニ成申候(なりもうしそうろう)」。 元武は光圀が心を許した相手だったようです。花街は、千寿会という生類憐れみの令を廃止させるために、大名、旗本が集まる会合が密かに行われた場所だったそうです。そうしたことがおこなわれたことや、僧侶を野郎といったことや、大酒をよくきこしめしていたことなどがよく分かる書状のようです。

 

 西山荘に隠居してからも酒を好んだようですが、近習(きんじゅう 側仕えの家臣)と飲むときも、たいていは三献でやめていたそうです。飲んだ後は御徒目付(おかちめつけ)を呼んで、今夜の酒宴で目に付いた問題はなかったかを聞きいてから納めの盃をさしたそうです。光圀は、御徒目付は現在の藩主である綱條(つなえだ)の臣下なのだから、自分(光圀)のことでも許してはいけない、しかし、目付というよりは横目といったところだろうといったそうです。徒目付のことを徒横目ともいったそうですが、ここでは、冗談でいった言葉で、真っ直ぐではなく斜め見をするといった意味なのではないでしょうか。

 

 死去する晩に、光圀は御座の間で近習の者を集めて酒盛りを命じたそうです。養子の綱條(つなえだ)が、光圀にも勧めた所、光圀は大盃に六分目ほど受けて、14口ほど飲んだそうです。

徳川光圀の酒(6)


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