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水戸の酒の話(14)

2021-07-23 19:43:03 | 水戸

 朱舜水は徳川光圀に招かれて寛文5年(1665)に江戸にきた中国明末の儒者で、水戸学や大日本史編纂事業などに影響を与えた人だそうです。思想家であるとともに、たいへんな博学だったようで、安積澹泊(たんぱく)によって編纂された一種の百科事典である、「舜水朱氏談綺」にその伝えられたものが残されているようです。そこには、白酒、陳酒(ふるきさけ)、濁醪(にごりざけ)、焼酒、黄酒、葡萄酒、點到(てんとう)酒、洞庭春色などの酒名が記載されています。写真は北見町8-8にある朱舜水像です。

 

 「酔っ払って身体もよろけ、心を失うときに、万一不慮のことがあれば智者でも対応することはできないだろう。武人でも思いの外の不覚をとるだろう。武士たるもの酒に使われて喧嘩等をすることは恥辱ではないか。」といったことが、徳川斉昭が初めて水戸に入国した、天保4年(1833)に発した告志篇にあります。ちなみに斉昭は下戸だったそうです。写真は、水戸市立博物館にある告志篇です。

 

 水戸で大規模な追鳥狩(おいとりがり)を行う前の天保8年(1837)から、斉昭は江戸小石川藩邸で毎年自ら甲冑(かっちゅう)を着て、徳川家康の遺物を拝してから、同様に甲冑を着た藩士と泰平を祝したそうです。このとき、陣鍋を設けて、酒をお燗して近侍の武士に長柄の銚子で参加した藩士につがせたそうです。肴には打鮑、勝栗を用いて、戦国の方法にならったそうです。写真は、東京小石川の後楽園庭園です。

 

 斉昭は、急進的な改革が批判されて、幕府によって弘化1年(1844)に失脚させられたそうです。疑いを晴らそうとする雪冤(せつえん)運動などの結果、徐々に復活しだした嘉永2年(1849)に行われた将軍家の小金原の鹿狩りに、斉昭は狩場の獲物を追い出したり追い込む役の勢子(せこ)を勤めた百姓などに樽酒を贈るということを建議して、将軍・家慶はこれを許したそうです。写真は、水戸市立博物館にある、追鳥狩絵巻です。

 

 京都を目指した天狗党でしたが、新保宿(現・敦賀市)で、元治1年(1864)12月に加賀藩に降伏したそうです。加賀藩の永原友孝は、降伏に至る過程で、彼等を武士として扱い、白米200俵、漬け物10樽、清酒2石、鯣2千枚を武田耕雲斎の陣中に贈ったそうです。写真は回天館にある天狗党行軍地図の一部です。

水戸の酒の話(13)


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