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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

天安門風に半旗も晒されて

2008年05月19日 | 川柳

          天安門風に半旗も晒されて

 四川大地震「全国哀悼日」、中国全土で娯楽活動を停止。

北京の天安門広場では、国歌とともに国旗が掲げられた後、ゆっくりと下げられ半旗になったと読売新聞のサイトに記事が書かれてありました。

 楽しいブログを書こうかナーと思っていても、新聞記事を読むと、記者の思いまで伝わってくる現地からの記事に、あほなブログはチョット書いてはいけないなー・・と思ってしまいます。

思い出すのは、私が17歳の高校生の8月下旬、暑くてたまらない長崎の8日間のショッキングな思い出の一コマです。

道路のコールタールも歩けばネロッと溶ける暑さで、不快指数80パーセントの精神状態の私たち6名の高校生を原爆記念館に部活の顧問がはりきって引率しようと前を歩いていました。

国体のボート選手で日本一に向かっているはずの6名のモチベーションが顧問の自分よがりの平和理念の啓蒙によって、毎日原爆病院訪問、浦上天主堂のキリシタン弾圧の悲しい歴史を感じ、毎朝の陸上トレーニングはキリシタン26名が張り付けになった処刑場。(中にはこどもまでいて、大きなレリーフで処刑の姿が再現された場所です)

15・16・17歳のスポーツ選手が日本一を目指して過酷な練習を終えて北海道スポーツ界の使命感を背負っている若人に・・またしても、原爆記念館かい!!・・。

普段、従順なスポーツ選手6名は、「もう見たくありません!」と顧問に抗議しました。

明日決勝戦だと言うのに・・目的が違うじゃないか・・!と選手達は内心・・憤慨していました。

今となっては何十年も前の出来事でその経験は良かったと思っていても、当時は・・精神統一ができない、ぐちゃぐちゃなメンタルを与えられたと思っています。
試合が終わってからならいざ知らず・・。・・これで顧問への信頼はゼロに到達でした。

 原爆記念館の前で、見学を拒否して宿舎に帰るタクシーの中でのことです。

タクシーの運転手さん。

「あなたたち・・国体の選手かい!」
「はい!そうです。」
「いいねー・・うらやましいねー・・」運転手さん
「・・・??」選手4人
「ボクはねー・・小学校の同級生がひとりもいないんだよ・・」運転手さん
「・・・???」選手4人
「原爆が落ちた時、家族と親戚の家に法事で出かけていて、長崎から出ていたんだよ・・」運転手さん
「・・・・」選手4人
「ボクの同級生は全員死んじゃってね・・あなた達を見ると・・本当にうらやましいよ・・」私たちをうれしそうに見つめていた運転手さん
「・・・・。」選手4人

    全員・・なみだ・・をまたこの長崎で・・こぼしたのでした。

長崎を後にするとき、仲間といつか私たちが結婚して、子供ができたら・・この原爆のこと、戦争のこと、被爆者の辛さを教えられる親になろうねと・・長崎の駅前で疲れた体を引きずりながら誓ったものです。

 時は流れ、娘が中1になりふたたび家族で長崎を訪ねたとき、26聖人殉教の丘(処刑場所)の会館に飾られている「細川ガラシャ」(細川元首相の長女にそっくりです)の絵との再会に涙し、(毎朝陸上トレーニングで通って観ていた思い出深い絵です)原爆記念館に入り・・いろいろな思いが交差して、声を上げて泣いてしまった私に、娘が「ママ・・泣かないで・・」と、なぐさめられましたが・・

天災なら・・あきらめるしかないかも知れませんが・・。うつろで不安そうに小枝のように細いこども達が、あの子は後2年くらいしかもたない・・あの子はどうかしらね・・などと看護婦さんにそっと教えられた・・言葉に出来ない・・いのちへの無念さ。原爆を投下した者への怒り・・この子達に何の罪があったのだろうかと・・テレビに映る平和記念像とその背後で揺れるねむの木の木立を見る度に、原爆病院でお亡くなりになった子供たちが何十人も私の脳裏では生きている。そして・・何かを私に問いかけて来るような気がします。

人災の「原爆投下で失ったいのち」・・「被爆2世・・」の子供たちの姿・・被爆者のコンクリートが朽ち落ちた病室で枝垂れるようにベットで座っていた被爆者の皆さんの光景は忘れることができません。

 きっと、今回の地震に立ち会った多くの被災者の皆さんや、救助や、報道にたずさわった皆さんは、私たちのショックとは比べ物にならない大地獄を見ているんだろうなあ・・。
     天災、戦争だけには遭いたくないとつくづく思います。


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うんどんこん・うんどんこん

2008年05月19日 | 川柳

            ひたむきな汗に寄り添う運鈍根

           川柳を初めて、13年目になります。

        川柳界ではまだまだ、ひよこの域ではあります。

 川柳の魅力のひとつに、ユーモアの素敵さや、今まで知らなかった日本語に「出会う」ということが多々あります。

 函館川柳社の中では、ご高齢のR氏が一番ウイットがお上手で、いつも句会でのひと言が皆さんにウケなかったことは無く・・川柳を創る積み重ねが人間の味にもなるのだと感じています。

例えば新年会の懇親会のご挨拶・・(短いのが川柳の特徴です。)
句会も終わり・・成績発表後・・懇親会の開会の乾杯のごあいさつでは・・。

「今日の新年句会の・・(間)・・わたしの成績は・・(間)完敗(乾杯で)した。
・・・だから・・乾杯(完敗)の音頭を・・とることになったんでしょうかねー・・(間)・・それではかんぱーい!」会場は、ほんわり温かい笑いに包まれます。

   いまどきの、KY(空気を読む力が上手なのです)が最高に上手なのです。

 お孫さんとメールのやりとりまでしていますし、お花が好きで広い花畑の中に囲まれたお家ではさぞかし奥様が無類の花好きかと思えば、R氏のご趣味だという。
ほとんどのお花の名前も覚えていらっしゃるのには私も完敗してしまいます。(笑)

 そんなユーモアの達人の諸先輩に教えていただいたのが「運鈍根」うんどんこん。

意味は、「幸運と愚直と根気。ことを成しとげるのに必要な3条件としてあげられる。」
ということだそうです。

それに近いことばを知ってはいても、このような端的でわかり易い言葉は、威力があると思いました。

 先ほど、娘夫婦と近くの居酒屋で食事をしている時、私がファンの娘婿が今、会社の規定で大変な資格に挑戦中で、少し自信をなくしておりました、

さっそく、この「運鈍根(うんどんこん)」の意味を説明して、30歳まではひたむきにこの三文字に向かっていくことが大切だと思うとアドバイスしました。

本人はなんども、「うんどんこん・うんどんこん」と、「いい言葉ですねー・・」と喜んでいました。

何事も一生懸命に、脇目も振らず目標に向かって努力をしていると回りは、ほおってなどおきません。嫌というほど・・いいお話が舞い込んでくるはずです。

     一番わかりやすいのが、スポーツ選手のイチローでしょう!!

    この三文字に出会うまで、人間はどれほどの言葉の旅をすることでしょう。

  「運鈍根」を知っていても、生かせない人間の方が大多数かも知れません。

 50人の生徒に同じことを教えても、東大に合格する生徒もいれば、殺人を犯す生徒もいます。

 同じ、読み書きを教えても、教師以上に語学力が身に付く生徒もいれば、漢字そのものが読めない生徒もいます。

「学ぶ」とは、「学びたいという本人の運鈍根があってこそ、生きた学びなのだと思います」

帰り際、娘婿に・・

「将来の道を選択する時、あなたは毎日お茶漬けと梅干の生活と・・ステーキがいつも食べれる生活と・・どちらを選ぶ?」と、質問を投げかけました。

娘婿は、
「おかあさん・・それはわかり易いたとえですね・・」と26歳が答えました。

「気持ちはビフテキですよ・・」娘婿

「そう・・それなら・・そうなるように思うことだね・・思うと叶うからね!まずは、思うことから・・なら、今からでも簡単にできるでしょう・・!!」と、私。

「思う・・だけでいいんですか?」26歳

「いいんだよ・・思うことが強くなると、ビフテキの道に行くようになっていますからね・・」私(彼の大好物がお肉ですから・・。)

 思わずして叶うこと無き夢のかたちよ・・・とても率直で、人間性が大好きな娘婿。

 (がんばってビフテキの道へ進め!・・少なくてもいい結果が出ることでしょう。
  おかあさん・・肉屋さんに着きました(笑)ではないゾ!)
  
 娘婿が尊敬している会社の支店長と私が、今日同じようなことを彼に言ったそうです。
   人間はいい人と、いい言葉を探したくて生きているのかも知れません。

 自分の星(肉)は自分で掴むのです・・その力不足を支えるのが親なのでしょう。

            自分が支えられてきたように。 

     結果の後に「運鈍根」であったと思えるほうが本物でしょうね。

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サミットの手土産は・・・

2008年05月17日 | 川柳

           サミットの手土産九条召し上がれ

 今、四川省大地震の夕刊を読み終え、日本政府の国際緊急援助隊のオレンジとダークブルーのユニフォームの姿で遺体を運ぶ写真を見ながら、ちょっとナーバスな感傷が湧きあがってきます。

 お隣の大きな国「中国」日本の歴史にとっては、さまざまな「文化」のお手本であった時代もありました。武士道なども朱子学から派生して陽明学として日本人の精神性に大きく寄与しております。その他、具体的に書けばきりが無く、書かなければこのテーマも成立しないことではあります。

大地震のこれからの復興の見込み。被災者の方々の心理的トラウマ。国家に対する不満怒り。被災者同士の疲労困憊による犯罪。不信。相当な時間がかかるなーと私でも計り知れる。

 そして、急速な中国経済の発展がもたらす「負の遺産」。「公害」問題は、長江、揚子江を下り「東シナ海」「日本海」へと垂れ流されている「現実」。
それは、中国の問題でもあり、私たち日本人と、次世代に残された大きな足枷でもあります。
 中国は、オリンピックを機に、「公害」の国だった「日本」から今度は、ご教示願う歴史に塗り替えて行くことが急務です。

 7月のサミットも、「環境問題」は、より各国に今回の大地震が「戦争マーケットも昔のように特需などなくなったのだし、高度情報化時代により、世界の人々に受け入れられることが、困難だと知った大国にとっては恰好の「中国マーケットになっていくのだろうと思う」(日本がその声を被害者として上げないから不思議ですが・・。上げられないのだろうとも思う)
 13億の人々を「思想で統治する時代は終わったなあ・・」と、個人的に感じています。
毛沢東、周恩来、小平、江沢民、胡錦濤に政治的影響を受けたそれぞれの中国人。

 以前、北京、瀋陽を旅したときも、そのジェネレーションギャップを五感で感じていましたが、これからより鮮明にこのことが国際社会に問いかけていく時代にもなることでしょう。

 それにしても、13億もの人口を抱える国家主席の「複雑な思い」は、想像すら出来ない私です。

今回の大地震の一連の報道は、胡錦濤国家主席の日本訪問の成果なのかも知れません。
 奈良の仏閣や、公園や敷石などは、インド、中国、朝鮮半島・日本と仏教を通じての融合の歴史がひしひしと感じられるところであります。

 このたびの、この大地震の惨劇をマスコミを通じ知ることとなりましたが、今までもたくさんの天災があっても国民には知らされては来なかった中国人。

マスコミを通じ、不平不満を言うことも非難することも、自国防衛のためにあらぬ策略を手練手管で落としこめようとも、そこには中国国家の威信を第一にしなければ統治することが出来なかった、それしか歴史のデーターがなかった5000年の戦略国家の紛れも無い足跡があります。

 以前中国でお世話になった添乗員さんお2人に「今度は日本にもいらしてくださいよ!」と告げた時に、「多分・・一生無理だと思います・・」との答えでした。

 これが、上海の添乗員さんだったら答えは違っていたかも知れません。

 中国はとてつもなく広い・・。四川省の今回の被災が、日本の4分の1の面積に広がるなどとは気が遠くなります。

洞爺湖サミットでは、各国の天災の協力体制が話し合われることになれば、「日本的・和の精神が見直されることでもありましょう」

         戦争などしている21世紀ではありません。

      黙っていても、温暖化による天災がまだまだやってきます。

        日本の本来の和するこころ。その象徴としての

        (利害を超えたところに位置する精神です)

       憲法9条をサミットでは手土産にいかがでしょうか。


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マーマ(おかあさん)・パーパ(おとうさん)

2008年05月16日 | 川柳

          大地震パールバックが生き還る

 それにしても、中国四川省の未曾有の大地震。
  
 テレビ画面ではコメンテーターがいろいろおっしゃっていますが、いつも思うのですが日本人はいつから歴史観が無くなってしまったのでしょうか・・。ついこの間のことまでも。

 日本も南西沖地震のときは、電話もつながらず救助も、状況判断も後手後手ではなかったのですか・・。

 奥尻の第二波の津波の前に、永田町からの現地指示で海岸べりで対応に当たっていた救助隊が、「島民の安全を確保する為、海岸で待機せよ!」の指示命令で、第二波にのまれないように命がけで逃げたのですよ。
永田町で津波が見えますか?と、言いたい訳です。海上保安部は海上で待機せよ!の指示命令で待機だけで仕事が終わったはずです。
          「事故は現場で起きている!」

 阪神淡路大震災の時は、村山首相は「ぽかーん」として、最悪の状況をイメージできなかったのではなかったでしょうか。

 新潟中越地震は、この二つの苦い体験から案外素早い対応ができたのだと一国民の私は感じています。(日本の危機管理機能を充実させなければいけない現実にぶつかったからです)

今回の四川省の大地震を中国政府の上層部へ報告に時間がかかるのは、こんな小さな日本だって錯綜しきっていたのですから・・ありうることだと思います。

            まして、未曾有の大地震。

        相手の国の立場も考えてあげたいものです。

  パールバックの「大地」という分厚い本を読んだのは中3の頃でした。
「大地」というだけあり、本が厚いのも無理はないとも思いましたが。

        今、その本の重量感が少し甦ってきました。

     「マーマ」は「ママ」「パーパ」は「パパ」のことです。

  私たち日本人は、知らないうちに中国の父・母の言葉を使っていました。

 被災地では、信じられないほどこの言葉がうめき、泣き、叫んでいることでしょう。

          日本の救助隊を受け入れた中国。

            歴史的なことでしたね。

    地震をもたらした大地は、生も死も運んで来るのですね。


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四川省の大地震・大間原発の脅威

2008年05月15日 | 川柳

 中国四川省の大地震の被害のようす、信じられない悲惨さがテレビに映し出されています。
        中国では、異例の世界へのテレビ放映です。

     そこで、ふと自分自身の足元に目を落としてみました。

私たち日本人も、いつ天災があってもおかしくない世界有数の地震国に住んでおります。
          大 間 原 発・大 間 原 発

 函館のすぐお向かいに、青森の下北半島の大間が見えます。そこに原発が建とうとしています。それも活断層の上に立てようとしている原発です。

 函館の大森浜にある石川啄木公園からもながめることができます。ちなみに、啄木の像も、ヒロシマの平和公園の入り口の母子像も、北海道を代表する彫刻作家「本郷新先生」の作品です。生涯ヒューマニズムを追及された作家が石川啄木の像と海をはさんだ真向かいにまたも、被爆が恐ろしい原発が建とうとは・・。不思議な因果関係を感じます。

 長崎の平和の像が天上を指差しているのは、「原爆の恐ろしさを示しているのです。」
それでも、人間の飽くなき欲望は同じことを繰り返そうとしているのでしょうか・・。

広島の平和公園には「あやまちは二度と繰り返しませんから」と書いてあるではないですか!。(アメリカじゃないですよ・・日本が書いたから・・不思議ですね?)
 それでも2012年3月運転開始予定で世界でも初めての「原発実験炉」を創るというのです。
「フルMOX」という型で「プルトニウムとウランを混合して」燃やし「原子力発電」を作るというのです。(プルトニウムは茶さじ一杯50mプールにまぜて、コップ半分飲むと、皆ガンになると言われています。)温排水による海水の温度も一挙に上がります。

 もし、一番危険な事故になった場合、炉心の燃料棒のトラブルでその中の、中性子が飛び出して放射能にまみれたら、風向きが強風で函館を直撃したなら・・みな、被爆して生きていけません。
   
    チェルノブイリ事故より、四川省の被害より拡大するのです。

             あなたならどうします。

    日本国民。世界の市民にとっても、大間原発は・・大変深刻です!!
私たち、国民は「世界初の実験炉の被爆者には未来永劫なりたくありません」

      詳しくは、「大間原発訴訟の会をごらん下さい!!」

         もう一度大きな声で言いたいです。

大間原発の付近で地震があったなら、最悪の事故になったなら、20万人30万人とも推測不可能な死亡数となるでしょう。そんな脅威をはらんだ施設と向い合わせで私たちは暮らさなければなりません。そしてそこは、世界一危険な原発になることでしょう!!

          皆様のご理解を!お願いします。


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花のような心で・・・

2008年05月14日 | 川柳

         花のような心で、
           ライ麦のような根で、
               風のように生きれたら。

(たぶん・・パハップス、お釈迦様でもキリスト様でもI can not! でしょう!)

 そんな、筆文字を添えA4サイズの花手紙と函館レトロバスのちょろQを手土産にお渡しして、岩見沢豊中学校の美術部女子中学生の企業訪問に対応しながら午前中が過ぎました。

 ・・・どういうことかといいますと・・・
 ある日突然、この中学生の御担任の先生から会社に電話が入り、修学旅行のカリキュラムで社会見学の一環として生徒が自ら興味のある函館の企業を探し、担任に要望を相談し、担任が企業に依頼する独自の社会教育を以前からこの中学校では修学旅行で取り組んでいるというのです。

(教師、生徒、企業の教育だと捉えています。教師が生徒数の倍以上の企業に電話依頼するところから大きな学びがあると感じています。断られるのは半分とも伺っています。それを100パーセントにしなければいけないのも教師の試練でもあります、)

 依頼の電話で、快諾させていただきご本人から直接、中学生とは思えない立派な謝礼と、タイムスケジュールの確認と、企業訪問の目的と、方法の提示を後日電話をいただき・・まるで、コスタリカのこどもに大人が教育感化されているような感動を覚えていました。

 湯の川のホテルから自分でバスや徒歩で来社され、自己紹介に始まり当社の仕事のラインの説明をしてから、パソコンデザイン・製作過程を見学していただき「デザインというのは目に見えるものすべてに意味を求めて形(意匠)にすることですよ。」と、大きく仕事の意味を捉えていただこうとしました。

さすが美術部です。そこは頭で始めから理解していたのは察しがいいの一言です。

その後、30分で会社を後に、お得意様のスーパーさんへ見学に伺い、具体的な仕事の製品を入口で指差し「ここのスーパーさんのデザインの哲学はキッチンと言ってスーパーさんがひとつの台所のようなデザインで作られていますよ・・だからあちこちにタイルがほどこされていますから・・ご自分で見てきてください。当社の製品はあれこれあそこ・・」と誘導し、それからご自分の足でマイペースで見て来ていただきました。

  なにぶんにも中学生です。五感で感じることしか吸収できないはずです。

 その後、函館ベイエリアを中心に、公会堂、称名寺の土方歳三の位碑、外人墓地、高龍寺の素晴らしい仏閣の工芸品の数々をご覧頂いて・・「これも人間の考え抜いたデザインを形にしたもので、この一刀彫でできた「本殿の高龍寺」の名も看板の部類なのですよ」と・・見識を広げていただきました。

ほんとうはねー・・お寺や、教会の仕事をしたいのですよ・・後世に残るような仕事をね・・・。と、元中学生の純情可憐な私はポツリ・・。

 函館駅まで時間厳守で10分前に送り届け、「今日はわざわざ会社まで来ていただいてありがとうございます。担任の先生にもよろしくお伝えください」と言ってお互い「礼節」を持って・・バーイバイ!となりました。(これが本来の目的なのだと思います)

 岩見沢豊中学校の皆様がいずれ、また函館にご来館くださいますようにブログからこの取り組みをご声援させていただきます。

 今夕は青森泊の中学生ですが・・しんどい未来を背負った中学生に、道路公団がどうのこうの・・一般会計がどうのこうのって・・その筋の皆さまエブリバディー!ちょっと考えて下さいませませよ・・戦後復興で作った日本中の古い隋道(トンネル)や既存の道路も「メンテナンス」だけでもお金がかかりすぎるご時世に、少子化でお金がない国家に・・まだ、田中角栄的日本改造論の延長で道路族の雄叫びですかい?

 日本中の中学生に笑われちゃうなー・・!!

コスタリカのように、こどもが大人を選挙の投票所に連れて行く日も近いかな。

中学生は一番、敏感なお年頃で、元中の大人の皆様も「大人は汚い!大人はずるい!」と思っていたでしょう?

      中学生だったころの昔の原点を思い出してみませんか?

       花のような心で・・・いつか蓮華の花になる前に・・。
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元始紫式部は川柳人のようですよ!

2008年05月13日 | 川柳

                              

 「元始紫式部は川柳人だった」という、テーマで綴るとこのブログも格調高くなるでしょうか?やってみましょう!!

 滋賀県の瀬田の唐橋を抜け、源氏物語を構想したと言い伝えられる「花の石山寺」。20歳の私が紫式部の部屋の前に立ったときの身の震えはきっと、式部への淡いあこがれだったのかも知れません。

一千年もの時を超え、日本の女流文学の金字塔に立たれた・与謝野晶子・円地文子・瀬戸内寂聴・俵万智さんなども式部を描いています。

わたしは、余り式部ののことはわかりませんが・・なぜ?式部がこんなに長い物語を作り、40歳(はっきりわからない)そこそこで死んでしまったのか・・そこはかとなく寂しい気持ちと寿命の短さに無念な思いを抱いてしまいます。

秋冬は十二単衣に身を包み、夏の暑い盛りも5・6枚も着物を重ね(夏の京都は暑いですから・・)
髪はおすべらかしで伸ばし・・お手入れ大変でしたでしょう。コピーもない時代ですから和紙に草書体で間違わずに一字一字を書き込んで行く、薄暗い蜀台で・・月の明かり、星の明かりの下で綴ったのでありましょうか長編大作。

式部は生みの母に早く死なれ、たった一人の姉も若き頃に失い、学者の血を受け継ぐ才女としての学問、躾を受け、20歳も年上の男性からから求愛され結婚。子供をひとりもうけすぐ、夫君に他界されました。そのたったひとりのいとおしいこどもさえ置いて、一条天皇の中宮彰子に仕えたといいます。

物書きより、先に和歌の歌人として名声があったことが・・ちょっとキーポイントです。
源氏物語には800句近い和歌が詠まれているといいます。その登場人物は400名と書いてありました。

光の源氏の君が・・続々と差し出す恋歌(贈答歌)には続々不特定多数の女性の返歌があり。宮中における光の源氏の仕事の一環とさえ思えてきます。

そんな源氏もいつまでも若くはない・・不特定多数の女性も年老いて行く。

そこを、その本人、主人公になり切って和歌を作るのだから、男性、女性の深層心理さえも架空の性格を投影して年代も考慮して和歌を創るのですから、いかに人物評価能力も才長けていたかがしれようというものです。

(五七五の句を創るにも、難儀している我胸中は季節は春とて、花と散るらん、ひよこが生まれる前からコケコッコーです。)


式部の人物描写も然ることながら、ひとりひとりの年齢体験も重ね合わせ、その人物になりきって和歌を生み出す作業は、物語の展開を進めるよりもはるかに時間がかかることくらいは歌人、柳人なら察しがつくことでしょう。

いろいろな文学がありますが・・万葉集も、古今和歌集も、小説も、短歌も、俳句も、元を正せばそのおおよそは・・「言葉の表現」と括ることもできましょう。

紫式部が後世にまで残しておきたかったのは、男と女の物語だったのでしょうか?
中宮彰子の男性、性教育として描かれた映画もありました。

当の本人しかその真意は決定、断定できるはずも無いわけです。

けれども、書くという行為はある意味常習性になっていくこともブログを創っていく上で何となく解りかけてきました。

 紫式部自身の表現者としての大作を今もって超える人無き現世にあって思うことは、式部自身たくさんの身にかかる死に遭遇し、死という運命には無力な人間であることの自覚が式部を奮い立たせた原動力となって自分の生きた証の結実が

「源氏物語」。

男と女のモチーフが後世まで残せることくらいは、万葉集で実証済みではなかったでしょうか。

古今東西、あらゆる文学者(女性)は文中の空蝉に式部を投影したといわれてきました。

が、これからも、まだまだいろんな解釈がなされて行くでしょうね・・抑圧された宮中の中で彼女の女性としての精神解放の書であることだけは、まちがいないと思いますが

 物語の女性たちの悲喜こもごも、「光の源氏」は美男子で地位は高いわけですが
あくまでも、一貴族の長編ロマンです。

 和歌という三十一文字の世界で疑似体験を壮絶に成し遂げた紫式部。

      川柳は人間の心模様を森羅万象にのせて諷詠するものです。

        紫式部様・・元始あなたは川柳人でありました。

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今よりも若い日はない・・森編

2008年05月13日 | 川柳

        今よりも若い日はない 食談議


 昨日は友人6名と北海道茅部郡森町という、大沼国定公園(千の風生誕地から15分八雲より)へ、お花見と会食を兼ねとっても楽しいひと時を過ごしてきました。海の幸がおいしい中華料理に舌鼓。

 その会の名前も「今より若い時はないんでない会」という、姥桜のように生きたい6人組が自然の美しさと、おいしい料理を作ってくれるお店で会食会談に花を咲かせました。

天からの恵みとはよく言いますが、「人間関係」も天からの恵みがあるようです。

ボスは作らない。自然体を大事にする。自己実現能力と仏心のすぐれた友人たちとの会話はつかぬ間の非日常だと・・Yさんの弁。

茶道の先生、お寺の住職の妻、生家がお寺、経営者などの構成で話題は信じられないほど地球を一回りします。

お寺の各流派のお話。茶道のお話。ハングル語を習っているお話。美術品・骨董品のお話。お料理のお話。旅行のお話。日本文化。韓国文化。中国文化。趣味のお話。経済。保母のお話。どこまでも話題が際限ないのが素晴らしい。女性では珍しいユーモアと隠れた教養が自然と流れ出す・・心豊かなすばらしき仲間たちです。(合言葉は100歳になっても今より若い日はない!)

若緑色の「御黄衣ざくら」や「関山ざくら」や「しだれざくら」の前で写真をとっても「今より若い時はないから・・とりましょう・・」と、まるで10代の気持ちでかかわりあえる。こころを豊かに積み重ねるすてきな女性達。(こころの醜い人はノーサンキューです。)

「きっと、私たちが出会うように天がしてくれたのねー・・」とSちゃんは言う。

「ところで・・聞いて・・Sちゃんが去年ねー・・豪華客船飛鳥に乗ったのよ(笑)」私

「エー・・乗ったの・・すごーい・・!」Uさん

「私なんか飛鳥を見たくて5枚もはがきを出して、整理券ももらえなかったのに・・この人は大阪まで飛鳥に乗って飛行機で帰ってくるんだから・・帰ってきたらお土産話待ってるよーって言って電話をしたら関空から帰る所だったのよ・・もう笑っちゃうんだから・・」私

「へー大阪まで乗れたんだー・・」Yさん

「飛鳥に乗ったまでは良かったけれど、船酔いしちゃって・・」Sちゃん

「エー・・あんな大きい船でえ・・」Uさん

「たまたま海が荒れてて・・船酔いするとは自分でも思わなかったの・・それで具合が悪くて、寝てばかりいて何も見ていないの・・」Sちゃん

「だから・・電話で・・どうだった・・って聞いたらSチャンが・・どうって・・見れなかったよ・・って、言うでしょう・・変だなーと思ったら船酔いしに大阪まで行っちゃったんだねー・・この人は・・」私

わたしの憧れの豪華客船クルーズ2泊3日にチャレンジした彼女でしたが、「飛鳥」の思い出は辛い「船酔い」の思い出だそうです。

以前も日本舞踊でがんばりすぎて、「腰壊すから・・気をつけなー・・」て言って心配していたら、案の定「腰を壊して」日本舞踊ができなくなった彼女。

10年前に甲状腺ホルモンの難病にかかり、辛い日々を過ごし、「医者をあてにしない!主治医は自分になる」と言って、体質改善、ストレスのある生活を改善して自然食だけを口にして病院の先生も「いつ直るかはわかりませんねー・・」のどん底から這い上がって健康を取り戻した彼女。

その大変さを知っているだけに、「飛鳥」乗船は、「見送りに行くよ・・」と言う気持ちになってしまいました。そしてまた、無事に帰ってこれたかナーという心配もあります。

今より若い時はない日々を、ゆったり風のようにさやかに生きて行きたいものです。

今回セッティングしていただいたMさんのアトリエ風客間で二次会、そしてみんなに森のイカメシとお手製のきゅうりの漬物をお土産にいただきました。

利害を超えて、みんなが各自に魅力を感じているから・・おいしい人の味も楽しめます。

     今より若い日はない・・みなさんもいかがですか・・!

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世界中敵になっても母がいる

2008年05月12日 | 川柳

          世界中敵になっても母がいる

 スゴイ句ですね。自分で作ってびっくりしています。こんな母になれるまでが母修行なのではないでしょうか。

「母の日」の昨日は、日本中でカーネーションのプレゼントに笑顔が咲きほころんだことでしょう。
 私はと言えば、母からカーネーション禁止条例が出ていて今年は、父の日も母の日も一緒に平等に、父母が毎日出かける桔梗温泉の「温泉チケット」をプレゼントしました。

 これは思いの外好評で、やはり高貴高齢者には「人生の疲れを癒す温泉回数券」はエドはるみ的ぐーう!!でした。

 なぜカーネーションを母の日に贈るのかと検索しましたら「十字架にかけられたキリストを見送った聖母マリアが落とした涙の後に生じた花」という言い伝えがあるそうです。

 フランスでは好きな人にピンクのカーネーションを送ることはタブーと聞いていましたが・・これで了解、なるほど・・だから母の日はカーネーションだったのですね。

 母のカーネーション、もう要らない宣言は一応母に敬意を証して送り続けた私のでしたが、ご本人いわく「今までカーネーションの散ったあとの鉢の始末が毎年あるから・・いらないからね。」で、チョン。それを承知で「湯の花に姿を変えた温泉チケット」5・11

「毎月、父の日母の日があってもいいよ・・遠慮はしないから・・」父(ユーモア)
「なーんもいらないからね・・気持ちだけでいいからね・・」母(本気)

こんな父母の考え方の「格差」がここにある。
この格差は「生涯埋らない平行線」

 母のこのかたくなさ・・こどもに施すだけの人である。

最近は、ひ孫にまでたっぷり施して「我がこどものようにかいがいしい・・」

    その母性の強さは、聖母マリアもアーメンというでしょう。

       世界中敵になっても母がいる・・・実感句です。


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東アジアで思考する時代だね

2008年05月11日 | 川柳

                
 胡錦濤国家主席も帰国なさって、日本をコントロール化しているユダヤ系の商人の皆様は影で、福ちゃんに圧力をかけていないでしょうか?

 純ちゃん元首相のように、日本の国をアメリカに売っちゃったなんていうのも・・そうだなーと思う今日この頃。
純ちゃん劇場は一体何だったのでしょうか?・・物事は時が過ぎなけれは真意はわからないものです。

 ところで、香港が中国に返還される2年前、東京に住む中学校からの友人とその娘さん(美大生)と香港へ旅行に行った時のお話しです。(中国は小平時代です)

 小旅行とはいえ、香港はその当時は良い意味でも、悪い意味でも「エキサイティング」な印象がとても強く脳裏に残っていました。

ひと言で言うと「お金に夢中」が嫌というほど私にはうんざりした記憶ばかりです。

具体的に書いても面白くは無いので割愛しますが、日本の昔の「エコノミックアニマル」のような皮膚感覚が「香港の旅」だったと感じています。

 そんな中でも、教えられたことのひとつに「自分の国を自分で選択しようとしている家族」とお知り合いになりました。
ツアーの方の中に、その家族とお知り合いで夕食や一日観光などでお世話になりました。

 兄弟2人は香港で商売をされて、お父さんはシンガポールで商売、お母さんもタイで商売をされているということでした。
彼らの説明によれば「中国に香港が返還されて、中国本土と同じ生活を強いられた時のことを思って、父母が自分たち兄弟と家族の拠点を3ヶ国に分散して置いている」ということでした。

 その時の香港の情勢に相応して、家族のリスクマネージメントに家族で取り組んでいるということです。

イギリスの植民地で、アヘン戦争などもあり香港人が一生懸命寝ないで働いて日曜日は「競馬」で札束を降らせながら・・人々が賑わっている良くわからない・・香港ではありました。

 日本も、戦時中に満蒙政策で満州の広い畑地を持つ夢を見せられ移民したり、ブラジルへ移民したり・・ハワイなんかにも行ってご苦労されましたね。

香港の彼らも寝ないで働きながら、2DKで家族でひしめき合って、二年後の家族移住のためお金を掴むのに必死であったようです。

タクシーに乗れば、「これは日本製だよ・・まだ40万キロしか走っていないんだ」と耳にする。公園へ行けば日本の20年前くらいに観た遊休設備が日本のお下がりのように
たたずんでいる。

ぺニンシェラホテルで、ゆっくりイギリスのティータイムと弦楽器三重奏で疲れを癒したのは幸いでした。

となりのお席に偶然、作家の「平岩弓枝」さんがいらして、アレレという間に香港の旅は幕を閉じました。

 帰国して、その足で渋谷のスクランブル交差点で歩きながら感じたことは「日本人の歩くスピードがまるで死んで見えました」、エキサティングが感じなかったです。まるで。

そして、会社に帰り朝の私の第一声は「日本はアジア経済に負ける日をすぐ迎えるよ!」でした。
     
    香港はアジアのるつぼ・・旅は自分の未来の方向を予測させてくれます。

当時は「貧乏人は外国旅行を」「お金持ちは日本旅行を」と言われていた時代です。

 日本の若い皆さんには、暇とお金が許せばどんどん異国を見て、離れた目で日本の良さ悪さを感じていただきたいものです。

   そして、世界観・歴史観をもって生きて行っていただきたいものです。
             東アジアの国の一員として。

               今日は母の日です。
                  


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