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ニッポンの孤児を育てたチャイニーズ

2008年05月26日 | 川柳

        ニッポンの孤児を育てたチャイニーズ

      四川省の大地震で孤児になられた多くのこどもたち。

     テレビ画面に映し出されるのをただ、見ているしかない私。

そして、私達は不幸な出来事を認知しながら、自分の幸せが何であるのかを教えられるのかも知れません。

       父母がいる、夫がいる、こどもがいて、孫がいる。

 当たり前と思っている光景が、一瞬のうちに「無明の光」となってしまったなら
なんとしよう・・。

 私は、一人娘に何度か言ったことのある、たったひとつの彼女への母としての贈り物があります。

 それは、「ママがねー・・今、戦争になって兵隊さんにママとあなた(娘)のうちどちらかひとりしか生きさせない・・と言われたら・・ママが死ぬからね・・」と仮想を話したことがあります。
娘は、「わたしは、その時にならなければわからない・・」という、正しい答えをしていました。

 そう・・「その時に、ならなければわからないはずです。」娘が賢い。

けれど、そういう事態になることがあってはならないから、時事の流れはきちんと見つめなければいけません。

こんな仮想のお話からこぼれる、お隣に住む、藤田のおばちゃんという優しくて心の広いご婦人がおります。

        もう、27年来お隣でお世話になっております。

 おばちゃんは、満州で終戦の一年前に父母を続けて病気で亡くされました。

満州を日本が統治して、満蒙政策という日本人に広い土地を与えて、移住する政策を斡旋され、そして、過酷な農地開墾の疲れがたかって父母が亡くなったのです。

  終戦になっても、父母のいない3人のこども達。満州におかれた日本孤児です。

 ソ連軍が満州を制圧に来た時に、このこども達はソ連軍の捕虜となりました。

            藤田のおばちゃんは言います。

その時に、自分達のことをいつも心配してくれたのは、ご近所に住む中国人だったと言います。
こどもを、日本に連れて逃げることは当時は大変過酷で難しかったといいます。

自分の子供を、本土に連れて行かれず、日本の兵隊さんが親に見せないように・・どれほど・・殺されたことでしょう・・。

  中国残留孤児は、中国人に育てられた、まぎれもない「恩恵」だと思います。
          それは、殺されずに済んだからです。

         そして、お隣の藤田のおばちゃんです。

10歳になった女の子は、頭を剃り、顔に泥を塗り男の子のように振舞いながらソ連の捕虜収容所に入れられたといいます。(そのようにしなければ女性が危ない)

  体中に、しらみがわくのでDDTをいつもふりかけられていたと言います。

これ以上は、書くのはやめますが、そんな思いをした日本人孤児が中国で生きてソ連の収容所から、生還して帰ってきた人がいるということの現実。

    あなたの、おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん。

           隣のおじいちゃん、おばあちゃん。

   日本のすみずみに、今なお戦争の傷が癒えずにいる人々の多さよ。

今の、日本の社会の乱れと、その内在されたトラウマの現象が違う形で噴出しているのかも知れません。      
            ところで、このおばちゃん。
今、中国の大地震のこども達のために「祈り」募金活動の先頭に立っていますよ。

(この事実を社会に残して知らせて欲しいというおばちゃんの意思で書かせていただきました。)

        物事は、今の事象で右往左往してはなりません。

       親子3代、4代で思考する日本人になりましょうね・・。

            困った時は、お互い様です。
      
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