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みなとぴあ(新潟市歴史博物館や旧新潟税関庁舎)はとてもオススメ!

2022年01月03日 01時00分00秒 | イベント・外出

 新潟市へ観光に行った際に「みなとぴあ」にある「旧新潟税関庁舎」や「新潟市歴史博物館」が綺麗で、分かりやすく歴史の勉強にもなり良かったので紹介したいと思います♪

 場所は新潟市の信濃川下流沿いにあり、JR新潟駅万代口からは観光循環バス(約40分)を利用すると、乗り換えもなく「歴史博物館前」というバス停で降りてすぐなので楽でだと思います。

 私の場合は後でこのブログでも紹介しますが、JR新潟駅近くでレンタサイクルを1日300円(別途登録料200円必要)で借りて行きました♪
 このレンタサイクルは9:30~19:00まで利用でき、新潟市内は坂もほとんどないので、市内観光に大活躍でとてもオススメでしたね。

 そのほか「みなとぴあ」は信濃川沿いで、水上バス乗降場も隣接であることから、水上バスを利用するのも気持ちよくて良いと思いました♪
 水上バスは以下に停まりますので、それぞれで観光するのも良いと思います♪

みなとぴあ(ここ)~朱鷺メッセ~萬代橋西詰め~万代シティ~県庁前~ふるさと村

 ただこの日は、ふるさと村行きは9:53、11:53、13:53、15:53発の4本しかありませんでしたし、土日祝日は定期運行していますが平日は予約制なので注意が必要です。

 この「みなとぴあ」は、敷地から綺麗に整備されていて以下の6つで構成されています。

・旧新潟税関庁舎
・荷揚げ場
・石庫(いしぐら)
・博物館本館
・堀
・旧第四銀行住吉町支店

 荷揚げ場や石庫、堀は当時の状況を復元していて素晴らしいです♪
旧第四銀行住吉町支店は1927年(昭和2年)に建築されたものを移築したとのことでした。

 駐輪場に自転車を置いて、この日はビルの側面が工事中で近道できなかったことから、まずは旧新潟税関庁舎から入りました♪

↑旧新潟税関庁舎入口

 入って右側に「みなとぴあ」の利用案内がありました。
月曜や、休日の翌日は休館日なので注意が必要です。

開館時間:9:30~18:00(10月~3月は17:00まで)
休館日:月曜日、休日の翌日、年末年始

↑「みなとぴあ」利用案内

↑地図

 旧新潟税関庁舎は明治時代初期に建てられた古いものですが、修復もされたようでかなり綺麗でしたね。

↑旧新潟税関庁舎

 室内も素敵な椅子テーブルが置かれ、そして説明なども充実していました。

↑室内

↑廊下

廊下もかなり綺麗です。

 新潟開港から新潟築港の説明がありましたが、歴史の勉強を思い出しましたね(^_^)
1858年(安政5年)にイギリス・アメリカ・オランダ・ロシア・フランスの五カ国との間で修好通商条約が結ばれますが、その5港の開港地の1つが新潟でしたね。
ちなみに開港5港は、新潟の他に神奈川・函館・長崎・兵庫となります。

↑新潟開港から新潟築港の説明

 実際に新潟が開港したのはかなり遅れて約10年後の1869年(明治元年11月19日)とのことで、明治2年には後に税関となる運上所や灯台が建設されたようです。

 ただ新潟港は信濃川の河口港のため水深が浅く、大型船が入港できなかったので貿易は不振だったようです。そういえばブラタモリでも信濃川が運ぶ砂を定期的に取り除いているという説明がありましたね。
 そのため、近代港湾として新潟港が完成したのは開港から約57年も経った1926年(大正15年)3月とのことです。

↑新潟税関のあゆみ

 開港し外国との貿易が始まると関税業務が必要となるため、1869年(明治2年)に新潟運上所としてこの建物が建設され、その時に石庫や荷揚げ場、土蔵などの施設も整備されたようです。
 明治6年に新潟税関と名称が改められ、1966年(昭和41年)まで税関が新潟市内の「竜が島」へ移転するまで、約80年もの間、一度も火事や空襲にも遭うこともなくこの建物は利用されていたようです。
 従って開港5港のうち、今でも開港当時の税関の建物が残っているのはこの新潟だけで、そのため昭和44年には重要文化財に指定されたようです。

↑擬洋風建築の旧新潟税関庁舎

 旧新潟税関庁舎は鎖国が終わってすぐの明治の初めに建築されたので、当時の職人が洋風の建物を見よう見まねで造ったとのことで、こうした擬洋風建築は古いことからあまり残っておらず、以前このブログでも紹介した山形市の旧山形城跡の霞城公園にある旧済生館本館(現山形市郷土館、旧山形県立病院)が擬洋風建築のようです。

 それから、旧新潟税関庁舎には、昭和の初め頃まで使用された玄米と籾殻の選別に使った唐箕(とうみ)等がありましたね♪
当時は税関でも利用されていたのでしょうか。

↑唐箕

↑昔の道具

 そして博物館本館へ向かいました♪
 かなり立派な素晴らしい建物で、外観は1911年(明治44年)建築の2代目新潟市庁舎のデザインを取り入れているとのことです。

↑博物館本館

 館内に入ると、特別展は無料で「新潟のくらしと年中行事」が開催されていました♪

↑特別展

 そして入館料300円を支払って常設展に入ります♪

 まず新潟市の成り立ちの説明がありましたね。
 
 367kmと日本一の長さを誇る信濃川と、その東へ約10kmの所に全国10位の210kmの長さを誇る阿賀野川があり、それらの川が運んでくる大量の土砂が新潟市の台地を造っていて、かつては多数の潟や河川による水面が広がっていたようです。
 そのため人々は砂丘や自然堤防などのわずかな高まりに集落を構えたようです。
現在では土地改良により潟はなくなりその景観も一変してしまっていますね。

↑低湿地と砂丘の新潟

博物館内はとても綺麗でしたね♪

↑博物館内

 鎌倉・室町時代には、信濃川右岸には蒲原(かんばら)津、阿賀野川右岸には沼垂(ぬったり)津という湊があり日本各地や中国の陶器が運ばれて商業が盛んだったようです。

↑日本海交流と蒲原・沼垂

 そんな中、次第に力を失っていった蒲原津と入れ替わるように信濃川の対岸に新しい湊町ができたのですが、それが新潟とのことです。
新しく潟に町が出来たので、新潟なんですね!なるほど!
 あの戦国武将で有名な上杉謙信は越後各地の兵力をこの新潟に集め、軍事的にも経済的にも発展したようです。

↑新潟の登場

 そして砂丘上にあった新潟町は、江戸時代の1655年(明暦元年)に中州へ移転し、堀と通りが町造りの軸となったようで、当時はかなりの水郷だったようです。

↑中州へ移転

 それから湊を訪れる回船が新潟に繁栄をもたらしたようです。

↑新潟町の商業

 特に江戸時代後期から明治時代にかけて、日本海の湊から湊へ貨物を運んで行き来した和船を北前船と呼ばれていたようです。
大阪から見て新潟の辺りは北なので北前船です。

↑北前船

 そして新潟湊の商圏と商品の説明があり興味深かったですね♪
 やはり米どころである新潟は、越後諸藩の年貢米などが新潟に運ばれ・保管され、新潟湊から江戸・大阪、北海道に運ばれたようです。
 また、新潟に集まった木材は漆器・下駄・建具などに姿を変えて北海道は運ばれ、大阪や瀬戸内から新潟へ運ばれた塩や古着などは越後や信濃、会津に運ばれたようです。

↑新潟湊の商圏と商品の説明

地図を見ると佐渡との交易も盛んだったようですね。

↑新潟近辺の航路

↑西日本の航路

 そのほか、当時は畳・銅釜・ろうそく・シャケ・梨・生魚・干鰯(肥料)・昆布・酒なども交易されていたようです。


↑交易の商品

 それから、新潟開港の説明も改めてありました♪
開港5港は、新潟の他に神奈川・函館・長崎・兵庫でしたね。

↑新潟開港

 外国としては新潟港は水深が浅い上に、冬は風波が強く危険なので、他の港を開港して欲しかったようです。


↑延期された新潟開港

 そして新政府は、新潟を開港場にふさわしい、外国人に見られても恥ずかしくない西欧化した町にしようと考え、風紀・衛生状態の良い町にするため強引な製作で開化を進めていたとは知りませんでしたね。

 そういえばこの新潟市歴史博物館見学の後に、自転車でホテルイタリア軒のマルコポーロに行き洋食ランチを楽しみましたが、そのお店は明治7年創業の日本初のイタリア人による洋食のお店とのことでしたね。
新政府の西欧化の一環だったのでしょうか。
 ホテルイタリア軒のマルコポーロは伝統のデミグラスソースも頂けとても良かったので、後日このブログでも紹介しますので、ぜひご覧ください♪

 また新潟は北越戊辰戦争の戦いの場でもあったようです。
 新潟には米沢藩を中心とした同盟軍が駐屯し、それに対して新政府軍は船で太夫浜に上陸して阿賀野川を渡って沼垂まで進軍し、そして新発田藩の新政府軍への寝返りもあり、信濃川を渡って激しい戦闘のうえ新潟を占領し、同盟軍は越後から撤退したようです。

↑新潟の文明開化や北越戊辰戦争

 それから1931年(昭和6年)に上越線が開通し、東京から新潟への交通の便が良くなったようです。
ちょうどその頃に満州事変が起こり、翌年に満州国が建国され、新潟港から満州国を警備する軍隊が出発したようです。
 また東京からは上越線で新潟へ来て、新潟港から北朝鮮への航路を使うルートが満州国の首都である新京を結ぶ最短路であると当時は盛んに宣伝されたようです。
 それから政府は新潟と大陸を結ぶ航路を幹線航路に位置づけ、満洲との貿易によって新潟港の輸出入は増大し繁栄したようです。
 また新潟港は満洲移民団の出発港でもあったんですね。

↑大陸への玄関 新潟

↑当時の船の就航のポスター

↑当時の日満等の連絡航路

 なお新潟港の対外貿易は不振であったので、貿易品の中心は借用したロシア領でのサケ・マスなどを獲る北洋漁業で、明治後期から大正期にかけて新潟市の漁業経営者は船と漁夫をロシア領へ送り出し、新潟港には年に1,000万尾前後もの水揚げがあったようです。
 ただ昭和になると拠点となる港も北海道へ移り新潟の北洋漁業は衰退したとは知りませんでした。

↑北洋漁業の繁栄

 それから第二次世界大戦末期には日本各地では中小都市までが大空襲を受けていましたが、新潟は原子爆弾投下予定地であったため大空襲はなかったようです。
 そのため広島・長崎に原爆が落とされた後は、人々は新潟が原爆投下予定地だと悟り、新潟県知事が昭和20年8月10日に市民に疎開を命じ、8月15日には新潟市にはほとんど人がいない状態で敗戦を迎えたとは知りませんでしたね。

↑原子爆弾と新潟

 命令書では、広島、小倉、新潟、長崎が原爆投下予定地だったことが分かります。

↑新潟を原子爆弾投下地とした命令書

 新潟県知事による緊急疎開布告は昭和20年8月10日の日付となっており、それによると広島で原爆が落とされたことが書かれていますが、8月9日の長崎についてはまだ書かれていませんね。
 この疎開措置は「この新型爆弾は我が国の未被害都市としてわずかに残った重要都市である新潟市に対する爆撃に近く使用せられる公算極めて大きいのである」「疎開は肩スカシを喰わせんとするものである」という表現は興味深いです。
 また新潟市内の建物疎開は一時中止とは、人が疎開するのだから当然ですね。
 当時、大空襲がなかった小倉や京都にもこの緊急疎開布告があったのか調べてみると、どうやら疎開布告があったのは新潟だけだったようです。

↑新潟県知事布告による疎開命令

 戦争中は新潟市には大空襲はなかったので、新潟港は物資荷揚げのできる貴重な港として繁忙を極めたようですが、戦争末期は機雷封鎖されて港の機能は失われ、また艦載機による攻撃は受けていたようです。

↑戦時下の新潟

 それから、改めて新潟は水が豊かで美田が広がっているということが分かりましたね。
さすが米どころです!
動力排水機が深田の水位を劇的に下げたようです♪

↑広がる美田

 また新潟市は中国の西安と空路で結ばれたことから、博物館同士でも友好を深めているとは素晴らしいですね。
 そのためその西安市の兵馬俑(将軍俑)レプリカがありました♪

↑西安市の兵馬俑(将軍俑)レプリカ

↑新潟・西安の友好の軌跡

 みなとぴあ(新潟市歴史博物館や旧新潟税関庁舎)は、新潟市の歴史や新潟税関の歴史などを分かりやすい説明で楽しく学べとてもオススメです!

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