市丸の雑記帳

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御書の拝し方

2007-07-08 11:30:02 | Weblog
 法華講の方が管理人をしてある掲示板を覗いてみて、同じ御書を読んでいるのに、学会の教学と、宗門の教学では、何かが違っている、と感じました。

 御書を拝読する時、時代背景や対告衆を考えるのは、当たり前すぎるぐらい当たり前の前提です。それを、いちいち考えなければ御書が読めない、とする法華講の言い分は、読んだことがないのに、読んだように見せる為のカッコつけ、箔付けの言い分以外、何もありません。

 しかし時代背景等に囚われていては。御書は現代に生きている我々の血肉とはなりません。
 創価学会代二代会長戸田城聖先生の仰られたように、『その通りでございます』と拝する謙虚さが必要なのです。
 御書に書かれていることを、大聖人のお言葉として、そのまま信じて拝する、そうすることによって、御書は自身の生命の変革をも成し遂げる一書となってくるのです。
 その拝読の仕方が出来て、初めて御書は人生の指南書となりうるのです。

 ある御抄を拝読した時の体験です。

 その御書は、大変有名なもので、それまで何回も拝していました。その形は、一節の時もあったし、全文の時もありました。
 いつもすらすらと読んでいました。

 御書全編拝読を決めて、何回目の時だったでしょう、その御書の一節に、目が止まってしまいました。それは私の一凶をずばり衝くものだったのです。
 私は何度もその部分を目で追い、声に出して読みました。そこから一寸も進めなくなったのです。

 実はその日の拝読予定は、いつものペースなら、後一~二ページは行くつもりでした。しかしもう、その日、それ以上読み進める事は出来なくなってしまったのです。
 以来、その御書は私にとって大聖人様から直接頂いたお手紙となりました。
 と同時に、御書全体が、大聖人様の直接のお言葉となったのです。

 何かあったら、御書に還るのが、信心の基本です。それを忘れた時、信心は止まってしまいます。また、御書に我見を入れて読んだ時、大聖人様を御本仏と取れなくなってしまいます。
 素直に、一心に、ただそのままに拝し、しかし御書の講義になると自在に、琴線に触れるものとして行くことが、私は御書を拝読できた事になるのではないか、と思っています。

 長野法論以後、法華講の方が、何をどう言っても、この拝読の仕方を知らない事を白状しているだけなので、むしろ哀れだとさえ思ってしまうのです。

 学会員でよかった。
 改めて実感している今日この頃です。