『念仏は無間地獄の業因なり、法華経は成仏得道の直路なり。
早く浄土宗を捨て、法華経を持ち、生死を離れ菩提を得可き事、法華経第二譬喩品に云く「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。(念仏無間地獄抄 97頁)』(読みやすいように句読点。改行を加えました)
念仏は、権力側の施策として、一般民衆に浸透させた、と言もわれます。生命力や抵抗力を奪う念仏は、権力者にとって、操りやすい民衆を作るから、という理屈からかもしれません。
確かに念仏は、諦めを説きます。この世は穢土だから諦めなさい、死んだら西方十万億土と言う所に行けますよ、それを楽しみにするのです。というのが念仏思想です。
元々宗教とは、、一たび信じたら疑問を持たないように出来ていますから、一般民衆が諦めの思想を信じ、何とかしようなどとと思わない様になっていく念仏思想=浄土思想は、権力者側には非常に都合が良かったものと思われます。
さらに言えば、念仏は向上心を奪います。結果、どんなに努力しても報われない、ドツボ人生まっしぐら、となってしまうのです。
ここで、私の知っている、元念仏信者だった人の体験を見てみたい思います。
Aさん。
若い頃から努力と信念は人一倍。継いだ家業を飛躍的に開き、その道の革命児、と言われるほどの実績を上げました。事実、その人の開いた道は、今もその業界の中心的な方向になっています。
ところがその道を開いた当人は認められないばかりか、存在すらも忘れられ、ドツボ人生まっしぐら、なのです。ネット風にいえば、その世界から一発削除、という事でしょうか。
Bさん。
信仰心の篤さは人一倍。家では念仏三昧、月まいりでは真言まっしぐら。念仏信者では良くあるパターンの人でした。
その結果、一家は悲惨と言うしかないほどの状態に陥ってしまったりです。こんな所にいたのでは、自分は駄目になると考えた長男は、仕事を理由に家を離れ、妻と娘は病気で入退院を繰り返しました。
手広く農業をやっていたその人は、家の仕事と農業の一切を、一人でこなす羽目になってしまい、全く休む間がなくなってしまいました。
それでも、病気の妻と娘のために、念仏の信仰を途切れさせる事はなかったのです。
「何故そうなってまで念仏を続けたのですか?」
尋ねた私にその人は言いました。
「それが当たり前だと、諦めていた」
禅や真言もミックスされており、そうなったのが念仏だけとは言いませんが、これが念仏中心でやって来た人の末路なのです。
鎌倉時代、念仏の哀音の響きは人を不幸にする、として追放の宣旨を受けていますが、どっこい、しぶとく生き延びて、今も悲惨な人を作り続けているのです。いったん成立した宗教とは、正邪に依らず、生き続けていくものであり、それが間違っていたら、不幸な人を作り続けていくものなのです。
現代は基本的人権によって、信教の自由は保障されていますから、何を信じようとその人の勝手ですが。
だからこそ、宗教の正邪を見抜く知恵が大事になるのでしょうが、これが難しいのです。
ただ、これだけは言えるようです。
念仏をやった人は、非常に題目を唱えるのが困難である、と。
そして――どんなに強信者であっても、その宗教で成仏は可能ですか?
早く浄土宗を捨て、法華経を持ち、生死を離れ菩提を得可き事、法華経第二譬喩品に云く「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。(念仏無間地獄抄 97頁)』(読みやすいように句読点。改行を加えました)
念仏は、権力側の施策として、一般民衆に浸透させた、と言もわれます。生命力や抵抗力を奪う念仏は、権力者にとって、操りやすい民衆を作るから、という理屈からかもしれません。
確かに念仏は、諦めを説きます。この世は穢土だから諦めなさい、死んだら西方十万億土と言う所に行けますよ、それを楽しみにするのです。というのが念仏思想です。
元々宗教とは、、一たび信じたら疑問を持たないように出来ていますから、一般民衆が諦めの思想を信じ、何とかしようなどとと思わない様になっていく念仏思想=浄土思想は、権力者側には非常に都合が良かったものと思われます。
さらに言えば、念仏は向上心を奪います。結果、どんなに努力しても報われない、ドツボ人生まっしぐら、となってしまうのです。
ここで、私の知っている、元念仏信者だった人の体験を見てみたい思います。
Aさん。
若い頃から努力と信念は人一倍。継いだ家業を飛躍的に開き、その道の革命児、と言われるほどの実績を上げました。事実、その人の開いた道は、今もその業界の中心的な方向になっています。
ところがその道を開いた当人は認められないばかりか、存在すらも忘れられ、ドツボ人生まっしぐら、なのです。ネット風にいえば、その世界から一発削除、という事でしょうか。
Bさん。
信仰心の篤さは人一倍。家では念仏三昧、月まいりでは真言まっしぐら。念仏信者では良くあるパターンの人でした。
その結果、一家は悲惨と言うしかないほどの状態に陥ってしまったりです。こんな所にいたのでは、自分は駄目になると考えた長男は、仕事を理由に家を離れ、妻と娘は病気で入退院を繰り返しました。
手広く農業をやっていたその人は、家の仕事と農業の一切を、一人でこなす羽目になってしまい、全く休む間がなくなってしまいました。
それでも、病気の妻と娘のために、念仏の信仰を途切れさせる事はなかったのです。
「何故そうなってまで念仏を続けたのですか?」
尋ねた私にその人は言いました。
「それが当たり前だと、諦めていた」
禅や真言もミックスされており、そうなったのが念仏だけとは言いませんが、これが念仏中心でやって来た人の末路なのです。
鎌倉時代、念仏の哀音の響きは人を不幸にする、として追放の宣旨を受けていますが、どっこい、しぶとく生き延びて、今も悲惨な人を作り続けているのです。いったん成立した宗教とは、正邪に依らず、生き続けていくものであり、それが間違っていたら、不幸な人を作り続けていくものなのです。
現代は基本的人権によって、信教の自由は保障されていますから、何を信じようとその人の勝手ですが。
だからこそ、宗教の正邪を見抜く知恵が大事になるのでしょうが、これが難しいのです。
ただ、これだけは言えるようです。
念仏をやった人は、非常に題目を唱えるのが困難である、と。
そして――どんなに強信者であっても、その宗教で成仏は可能ですか?