市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

御書に学ぶ 『宿命転換』

2007-01-30 11:03:57 | Weblog
 『幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍え奉らんことよ。      顕仏未来記  御書全集509頁』

 人は生まれながらにして、様々な宿業を持っている。ある人は裕福な家庭で、何の不自由もなく、幸せな一生を送り、ある人は苦難の連続の中で不遇な生涯を閉じる。
 その違いは、一体どこから来ているのだろうか、と考えた事があるだろうか。同じ人間に生まれながら、余りにも不公平である。
 天は人の上に人を作らず、と言った人がいるが、上下の差のありすぎではないか。

 私は子供の頃、兄弟の中で、一番親から駄目な者として扱われてきた。頭の良い長兄と比較され、良い子の次兄と比較され、いつも家の中の落ちこぼれだった。
 信心の面でも、私には我見が強い、として親からは認めてもらえなかった。

 だから、ではないが、自分の宿業を深く見つめ、何とかしたいという思いは家族の中で、一番強かった。自分だけの確信がほしくて、教学は頑張った方だと思う。
 後輩の育成にも、全力を注いだ。
 結果を以て、自分の信心を積み重ね、自分が幸せになるしか道はなかったからだ。
 そして入会から三十年が近くなった頃、大きな戦いの連続する中で、自分のことを考える余裕もなく駆け回っていく中、私は大きな功徳を受けた。
 自分の人生が大転換する体験をしたのだ。
 その内容については、いつかふれることもあるだろうが、ここでは、長くなりそうなので省略する。だが、それを一言で言うなら、私にとっての宿命の転換があったのだ。

 その後、冒頭の御書に出会って、私はこの信心が、文証で表されたことの、理論としての正しさを知り、さらにそれが現実の生活の中に証明される事を確信した。
 
 この命がどれほどの生死を繰り返してきたかは、分らないが、その間に溜め込んだ宿業が、どんなものであったとしても、必ず宿命を転換し、幸福の軌道に乗れることを実感したのだ。
 どんなにその戦いが苦しかったとしても、ただこの一生の内に、全てをいい方へ転換できる事のすばらしさは、体験したものにしか分らない醍醐味だろう。

 以来、私は決して不幸の淵に沈まなくなった。
 私が創価学会を辞めないのは、もう二度とあの不幸を味わいたくないからである。

独り言

2007-01-26 21:30:48 | Weblog
 学会によって、被害を受けた、と言う言葉は、ネット界隈で良く目にする。
 被害にあったのなら、具体的に、何時、どこで、誰が、何を、どうして、どうなったか、教えてほしい、と言ったら、何も出てこない。
 挙句の果てに、創価学会のことを、良く知らないのであれば、しかるべきサイトで調べる事をすすめる、とのたまう。

 結局、アンチは学会から、何かをされたと言いながら、具体的に、時と場所と人と、内容をきちんと述べることはできないのではないだろうか。
 
 学会の葬式で、学会員は香典を持って行く、と言う事が、まことしやかに囁かれているが、では何時誰が、香典を持って行ったのか、と問われたら、誰でも言っている、としか答が返って来ないのと一緒だ。
 本当に持って行った所なんて、誰も見ていない、しかしそうである筈だ。なぜなら、そう聞いた。
 誰から聞いたかと、こちらは聞いているのに、決まって返ってくる答は、皆言っている。
 
 詭弁の嘘八百。
 
 香典の件だけで言うのなら、我が家で三回、主人の家で二回、学会葬をしているが、ただの一回も、香典を持って行った人はいない。導師で来られた副会長までが、ポケットマネーで香典を置いていって下さったことはあるが。
 
 埒があかない。こんないい加減な事が根拠となって、学会は、ずっと悪口を言われ続けているのだ。
 それをネットをやっている若い世代までが、学会攻撃の材料にしているのだから、どうなっているのだ、と言いたい。

 しかし、アンチの理屈、読み物としては面白い。
 ここまでいわれのない悪口を言われた創価学会の強さが、かえって際立ってしまうから、皮肉なものだ。

 学会の本当の強さを教えてあげようか。
 虚像の世界を物ともせず、日夜自分と人の幸せのために、駆け回っている人が、体験に裏打ちされた現実を生きているのだ。
 今、この時の重要性が最優先するので、マインド・コントロールなんて、かかっている暇もない。

 第一、悪口に、学会員は慣れっこだ。
 
 蓮祖は仰せである。
 『愚人に誉めらるるは第一の恥なり』
 と。

教学談義 『仏』ということ

2007-01-25 09:21:33 | Weblog
 学会系、学会アンチ系の書き込みを見ていると、『仏』と言うものに対して、随分な解釈があるものだと思ってしまう。
 中には単純な無智からのものもあるが、個人の解釈を以て、意図的に捻じ曲げているものも、時には見かける。はなはだしいものになると、『仏』の境涯を、自身と同レベルで考えて、こんなもの、と分ったような事を仰る御仁もいる。

 御書には『三世を知るを聖人という』とある。過去・現在・未来の三世を見通して、初めて聖人、仏だと言うのだ。それを、たかが自分の一生さえも見えない凡人が、仏を自分のレベルに落しているところに、全ての間違いがある。
 
 仏、と認定できるのは、三千年を通して、私は四人しかいない、と解釈している。釈迦、天台大師、伝教大師、そして日蓮大聖人である。
 この四人に共通しているのは、人の幸不幸の根本を説き、複雑極まりない生命を、具体的に示した事にある。さらに、その不幸の原因を、生命次元で捉え、変革の方向を示し、すべての人が、実践できる形を作ったことにあるのだ。

 ところが、具体的な実践となると、釈迦の法華経や、天台大師、伝教大師の教義では、不可能なのが現実である。
 なぜか。この三人は、理論が中心で、実践の域までは達していないからだ。
 行ずる側に、善根が有って、初めて役に立つ教え、と言ったら良いだろうか。
 そうだろう、釈迦が悟りを開いたように、菩提樹の下で、座禅を組んで、自分の生命を見つめ、その本質に迫れるものが、いる筈がない。そこで悟りを開けたから、釈迦は仏なのだ。
 法華経の『諸法実相』と言う文から、生命を図解し、一念三千と説けるものなど、いる筈もない。それが出来たから、天台大師は像法時代の正師なのだ。
 
 しかしどんなに釈迦の悟りや、天台大師の一念三千が勝れていても(一念三千は図解してもらっても、理解できない者が多いのが現実だが)実践方法は分らない。ただ、なるほど、と納得するだけが手一杯である。

 しかし日蓮大聖人の仏法は、先の三人と根本的に違う。
 実践重視なのだ。
 生命の実相を説いた曼荼羅の前に但座し、南無妙法蓮華経と唱えるだけで、生命を奇麗に出来る。シンプル・イズ・ベストの教義なのだ。
 何故そこまで大聖人の仏法は分りやすいのか。
 答は簡単、そうしないと、末法の衆生に理解できないからだ。

 簡単なことを簡単に表現する事は、簡単である。
 難しい事を難しく表現するのも簡単と言えば簡単だ。
 簡単なことを難しく表現するのは、ひねくれ者の証拠である。
 難しい事を簡単に表現できて、初めて偉大なのだ。

 この難しい事の極致を誰でも実践できる、極端に分かりやすくしたのが、仏の智慧なのだ。
 仏が、最大の慈悲で、誰にでも分かりやすく説いてくださったのだから、実践するしかないではないか。

 仏の智慧、については、また触れていく事もあるかと思う。
 ただ私は、仏が解き明かしてくれた、幸せへの方程式を、分っても分らなくても、信じて歩んでいくだけである。
 

先の用心

2007-01-23 22:45:41 | Weblog
 今日、休日を利用して、いつも食べている卵を買いに行った。
 ちょっと遠いが、ここの卵を食べたら、他のものは食べたくなくなって、一時間以上かけて、二週間に一度、買いに通っている。

 最近では、卵屋の店頭に、近くの人が作った野菜や果物も売っていて、ついでに買って来る事もある。部分に、虫食いがあったりすると、これは安全だ、と嬉しくなってしまうが、長持ちしない事もあるので、帰ってからの下処理は、次の日ぐらいに片付けないといけない。

 この卵屋さん、山間地を利用して、相当数の鶏を飼っている。相手が生き物だから、休日を取るのも大変だと言う事だった。知り合いに掛け合って、餌やりだけでもやってもらわないと、365日、全く休めなくなってしまうので、近所の人との付き合いも大事にしているとの事だ。

 つい先日、宮崎県で、毒性の強い鳥インフルエンザが見つかったが、ここの鶏舎でも、ひやひやものだったと言う。
 数年前、鳥インフルエンザが流行った事があるが、この鶏舎と、その周辺は、運良く無事だった。それでも心配で、鶏舎全体に網を二重にかけ、野鳥の一羽も寄せ付けない体制を取り、趣味で飼っていたウコッケイも処分した。とにかく、個人として、打てる手は全部打って、相当な出費だったという。
 「うちの卵を楽しみにしている人がいる限り、それに応えていかないと」
 と言われるが、その労力には頭が下がる。
 その後暫く鳥インフルエンザの問題はなく、一見無駄骨だったようだったが、今度の事で、手を抜かなくて良かった、と言ってあった。

 先々の用心、とは良く言われるが、果たして無駄を承知で、先の用心を出来る人が、どれだけいるのだろうか。この人は、もし鶏を失ったら、生活の基盤がなくなってしまうので、それだけの事をしないと、と言う事だったが、喉元過ぎて、手を打たなかったか、打っても中途半端だった人もいるかもしれない。
 そして事が起きてまたあわてる。
 過ぎてまた忘れる。
 その繰り返しが多いのではないだろうか。

 今日も食卓に、新鮮な卵が並んだ。
 必死に鶏を守り、卵を待っている客の安全を守ってくれた養鶏場の人に、感謝の思いを以て、おいしい卵料理を口にしている。

ネットの愚論の実態

2007-01-20 12:14:15 | Weblog
 アンチ、と言うのもどうかというほどの、創価学会に対する悪意に満ちたネットがある。名誉会長の人格を落すのが目的のようだが、なんと、そこに知っている人の名前を見つけた。
 T婦人部長。
 美人で、気さく。声の大きい人に、悪意の人はいない、と言われるが、なるほど、と思わせる人である。

 この人が、女子部時代、先生のお手つきだった、と言う記事だったが、実は、この婦人部長は、独身時代、学会員ではなかったのだ。。
 結婚して学会に入られたが、それまでは、別の宗教に属していた。確かに、昭和20年代、一体何人、地方に学会員がいたというのだろう。

 ご主人であるT氏は、牧口先生の折伏により、創価教育学会に入られた人で、戦中、軍部の弾圧も受けられている。
 しかし東京からは、はるかに遠い地域での信心である。T婦人部長にしても、新婚旅行で宗教の事を知り、帰ったら別れようと決めていたが、姑の礼儀正しさに言い出せず、信仰をする羽目になって、いつの間にか、学会にどっぷりと浸かってしまった人である。
 さらに言うなら、婦人部長の入会当時の会長は、戸田先生だった。
 よって、この記事は、時代相違もはなはだしい、と言うことになる。

 このご夫婦は、共に、実に謙虚な方である。会員をとても大事にされる。
 地元会館の落成の時、婦人部長と話す機会があったが、話しかけてこられたのは婦人部長の方からだった。記念写真も、後ろの隅っこにいたのを、自分の横に引っ張られた。
 
 確かに年をとられても、魅力的な人である。そして強烈な個性の人であり、どこまでも真っ直ぐな人である。
 こんな人の事さえも、悪口の材料にするのだから、他の記事もおして知るべし。全て眉唾物だと言われても仕方があるまい。
 そこまでして、学会のイメージを落さないと、一時は属していた組織を裏切った理由付けが出来ないのだろう。

 ネットで、どんなに学会のことをまくし立てても、実態はこの程度のものだという事だ。知らない人はごまかせても、知っている人には噴飯物でしかない。

主人に聞きました

2007-01-18 23:45:24 | Weblog
 主人は二十代半ばで、創価学会に入会しました。
 それまで、創価学会の事は、何も知らなかったといいます。
 昭和50年代も半ばを過ぎていたのに、まるで学会の事を知らなかった事の方が、不思議なぐらいなのですが、本当に知らなかったし、誰も教えて(折伏して)くれなかったのです。

 私の家は昭和30年代初めの頃の入会ですので、親は大変な迫害にあっていたのですが、私は子供だったので、深くは分りませんでした。でも、学会と言うだけで、変な差別を受けている、と言う事はなんとなく感じていたように思います。
 でも、長く学会員でいると、それが当たり前になって、特に学会員である事を意識なんかしませんでした。

 主人は、そうではないようです。
 自分の意思で、全てを覚悟して創価学会という、宗教を選んだのですから、その決意たるや、相当なものだったのです。

 東京から兄弟が、家にご本尊様を持って帰ってきた事には、何の抵抗もありませんでした。知らないのですから、当然と言えば当然です。
 兄弟は、家が大変、と言う事で東京から呼び戻されたのですが、もっと家が大変になれば良いと祈っていたそうです。そうすれば、嫌でも学会に入らざるを得なくなるだろうからです。
 兄弟の祈りどおり、にっちもさっちも行かなくなって、とうとう主人は学会に入る決意をするのですが、どこから湧き上がってくるか、訳の分らない、ものすごい抵抗を感じたと言います。
 入会に対しては、承諾して、決意したのに、得体の知れない抵抗感に悩んだと言います。

 正しい宗教に対して、過去にやってきた間違った宗教の抵抗であり、仏法で言うところの『魔』の通力、といったら良いものでしょうか。ものすごい胸騒ぎや、不安感と言ったものが、体中で暴れまくるのです。
 
 その時主人は、もしかしたらこの宗教は、大当たりかもしれない、と感じたそうです。この抵抗感は、自分を不幸につなぎとめていたものから、解き放たれようとする者に対しての、軋轢なのではないか、と。
 人生を変えてしまうかもしれない期待と恐怖。

 それを突き破って、創価学会へ入会したのは、こんなドツボ人生はもう沢山だ、という、強い思いからだったのです。

 以来四半世紀、ようやく主人はこの選択が間違っていなかった、と確信できるようになったといいます。

御書に学ぶ 『法華経の題目』

2007-01-16 11:05:05 | Weblog
 『問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし。
                  本尊問答抄 365頁』
 
 御書十大部の一つ、本尊問答抄の冒頭の文である。

 本尊雑乱の中で、衆生に善根も無くなった末法、一体何を以て根本尊敬の対象とすれば、人は幸せになれるものなのか。それを日蓮大聖人は、法華経の題目を以て、と仰せである。
 では、法華経の題目とは、一体何か。
 誰が説いたものを指すのか。

 一般に、仏教は釈迦が説いた、と言われているから、諸説あげる者もいる様だが、私はこの説に従っていく。
 
 釈迦五十年の説法のうち、最後の八年で説いたものを法華経と言うが、この題号は何か。多くの人が、南無妙法蓮華経だと、勘違いをしているようだ。
 釈迦は、妙法蓮華経と言ったが、南無妙法蓮華経とは言っていないのだ。
 そして、ここで言う法華経の題目とは、南無妙法蓮華経を指しているのである。

 仏法は、説いた人と、説かれた法と、説いた場所が一体となって、初めて法である。
 そしてその法に依って、功徳を受ける時代も決まっているのだ。
 そこには伝説や言い伝えなどと言った、原因と結果を無視したものは存在しない、厳しい検証がなされている。

 主人は二十代半ばで創価学会にめぐり合った。
 それまで、地蔵を拝んでみた。念仏も拝んでもた。各所祈祷師の所へも行った。
 何も良い事は無かった。心身ともに、堕ちて行く自分の姿だけが分っていた。
 学会の話を聞いて、これしかない、と思って入会した。
 博打だった。自分に運があるのなら、最後に掴んだものぐらい、正しいはずだ、との勝手な思い込みだった。

 御書を学ぶ中で、この一節を知って、本尊の間違いの恐ろしさが、実に沁みて分った、と主人は言う。
 本尊とは、我が命を預けるものであり、我が命そのものであるが故に、決して選び間違えてはならないのだ。
 そして、今この時、自分の命を預け得る宗教は、法華経の題目、即ち、日蓮大聖人の説かれた、南無妙法蓮華経しかないのだ。
 どうこう言う人は言っても良い。
 ただ、私も主人も、自分の身で体験し、自分の命で実感した事なのだ。
 だから、創価学会にめぐり合えた事に、限りない感謝があるのみである。

アンチと言う種族

2007-01-12 10:41:21 | Weblog
 この世には、アンチと言われる人達が居る。何にアンチかは、色々だが、概して嫌っているはずの組織なり団体に対して、所属員よりも詳しいというのが、実態のようだ。
 それはそうだろう。評論家気取りで、裏側を見ていると言いながら、実は根も葉もない悪口が大部分を占めているのだから。

 アンチにとっては、その団体のイメージを落すのが目的なのだから、真実よりも風聞、まともな報道よりもスキャンダルが好きなのは当然といえば、当然なのだ。
 確かに読み物としては面白い。アンチの心理も、うかがい知る事が出来て、、シンパの言う事より、参考にはなる、かも知れない。

 譬えば、私の知っている人に、プロ野球ファンで、アンチ○○がいる。そのチームが、どんな負け方をするかが見たくて、毎日テレビにかじりついている。
 嫌いだ、と言いながら、そのチームの事を、詳しい事詳しい事、控え選手の成績まで、そらんじているほどだ。そこまで行かないチョイアンチの私などは、嫌いなら見なきゃあ良いのに、と思ってしまうのだが、本物のアンチは、そうは行かないらしい。

 つまり、本物のアンチという種族は、その団体が存在しなければ、その当人の存在価値もなくなってしまうものらしいのだ。

 そうかもしれない。ネットで色々言っているアンチは、確かに嫌っているはずの団体に寄生して生きているのだ。

 つまり、究極の依存症なのだ。

 違うというのなら、アンチを気取っている人達は、一度、第三者の目で、自分の書き込みを読んでみると良い。依存の度合いが分るだろう。
 その依存から開放されるには、毛嫌いから理解へと考えを転換する事だ。それだけで、自分を縛っている見えない網から解き放たれるかもしれない。
 そして、嫌いな団体に対しては、近か付かないことである。

 それが出来ないから、アンチなのかもしれないが。

教学談義

2007-01-10 12:21:25 | Weblog
『一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。
                          開目抄 189頁』

 一念三千とは、生命の図式である。
 一瞬の生命の中に、三千の働きが含まれている、という、教学の基本である。

 しかし今はそのことではなく、この『文の底』という事に限って考えてみたい。

 『文の底』
 日寛上人は『文の底に秘し沈め給えり』と読まれた。
 つまり一念三千の法門は、釈迦五十年の説法の中には、但法華経、法華経の中には但本門寿量品の文の底に秘し沈められている、と言うのだ。
 
 二十歳の頃、教学の試験を受けた時、担当だった人が言った。
「教学の何が難しいの? あなたの命のことを言っているだけじゃない。信じてしまえば、何も難解な事なんてないのよ」
 分らないから信じた。そうだと決めて勉強した。
 そしたら本当に教学としてでなく、実際の生活の中に、体験として実感できた。
 教学の面白さと深さが分った時だった。

 毎日勤行している寿量品の文の底には、確かに一念三千の法門が秘沈されており、それはそのまま我々の生命を表現している事が、実感できたのだ。
 理屈ではなかった。無理して納得したわけでもなかった。
 それは元々あるもの、だったのだ。

 信心とは、文字通り、信じる心である。
 しかし信じることからさらに広がって、無限大の可能性を見せてくれるものである。
 そしてここで最も大事な事が、何を信じるか、と言う事なのだ。
 
 『いわしの頭も信心から』と言う言葉があるが、これは宗教観のいい加減さが生んだ言葉である。宗教とは、実は何を信じるかが一番大事なのだ。
 
 私は創価学会を、自分の生涯の宗教として選んだ。
 違う宗教を選んだ人もいるだろう。
 結果はすぐに出るものではない。
 極端な話、一生かけて証明していくものである。

 一生は無理だと言うのなら、最低二十年以上,真剣にその宗教をやった人を見ることである。
 真言でもキリスト教でも、宗教をやっている人は、みんなその宗派を代表して、実験証明をしているのだから、概ね結果が出ているはずだ。

 ここで、私の体験から一言だけ言わせてもらえれば、言葉で説明はできるが、実感して、体験していかないと、法華経の中に秘沈されている文の底の法門というものは、絶対に分らない、と言うことである。

 分った時の醍醐味の、言葉としての表現は、やはり不可能かもしれない。

御書に学ぶ 男の仕業、女の力

2007-01-07 15:11:46 | Weblog
『やのはしる事は弓のちからくものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり、いまときどの(富木殿)のこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり          
              日蓮大聖人御書全集 975頁』

 一月度の婦人部グループ学習の参考の御書である。
 当たり前のことを当たり前に書かれた、それでいて、とてつもなく重要な御文である、と思う。

 女子部の頃、年配の婦人部の人に言われた事がある。
「あなたは随分なかかぁでんかになるんでしょうね」
 意味が分らなかった。
 自分では決してそんなつもりはなかったのに、嫌な思いだけが残った。

 結婚して、主人にその事を話すと、信心も古く、教学も上の方、組織活動も先頭切って、指導力もそこそこ、そうした総合的な評価で、どんな男子部でも負かすだろう、と言うイメージだったのではないか、と言われた。
 
 実際家庭に入ってみると、確かに私は家庭的ではないと思う。
 しかし一つだけ、絶対に守っている事がある。
 主人に対する尊敬と感謝を忘れないようにする事だ。

 私の願いの一つは、一家和楽の達成だった。
 学会の五指針の最初の項目も一家和楽の信心、である。
 この一家和楽の信心の達成には、亭主関白もかかぁでんかも必要ない。
 互いが信じあい、尊敬しあうだけである。
 
 男と女は体力も違うし、資質も違う。その違いを認めた上で、助け合っていくことが大事なのではないだろうか。
 そしてそれを、大いに言葉に出して、確認していくことである。以心伝心なんてものは、思い込みの勘違い、すれ違いの元である。
 外での嫌な事は家の中で癒されれば良い。
 家の中が安穏でなくて、何が幸せなものか、と決めて、大いに本音で語り合うことだ、と私は思っている。

 しかしその時に気を付けたい事は、当たり前だが、相手に対する個人攻撃は絶対にしないことである。 
 
 わずかなことに気を付けて行けば、強い弓によって放たれた矢のように、男は力を発揮する。
 女は、矢が戻ってきた時、しっかりケアをして、さらに力を蓄えさせることだ。
 その方法は各家庭によって違うだろうが、少なくとも、喧嘩などでエネルギーを使う事ではないと思う。
 
 ちなみに、主人は入会も遅く、教学の資格も下だ。
 しかし人間的なエネルギーと人生経験に於いて、私は遠く及ばないと認めている。

 結構バランスの取れた夫婦、と自負しているのだが。