市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

数次の人との対話

2008-04-26 08:10:32 | Weblog
(^o^)(^o^)(^o^)(^o^) 投稿者:73 投稿日:2008年 3月29日(土)00時33分59秒

何度も返答している。
この御文は
「一代聖教(=釈尊五十年の説法=法華経28品=三大秘法(本尊・題目・戒壇)
 は相伝によらなければ理解することは難しい」。
(^o^)(^o^)(^o^)(^o^)


 ブログの更新が遅れてしまって、申し訳ありません。
 ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、今、某板にて、数字をHNにした方と、対話をいたしております。
 そのきっかけになったのが、冒頭の、その方の投稿でした。

 最初は学会員のやま○○さんと、数字の人のやり取りだったのですが、あまりに不思議な数式を見つけてしまって、その説明をお願いしたことが、そもそものきっかけでした。それからかれこれ一カ月、持論を曲げずに押し通す根性には、笑えます。
 挙句、「権実相対=権実対等」と言うところまで説明は進んでまいりました。しかも、新宗教の立ち上げだ、と数人に言われ、「ではどういう名称なのだ」と言ってきましたから、その方の数字にちなんで「チンジャラ経」と名付けてあげました。ついでに権実対等の題目として「南無タイシホーレンダブツ」などはいかがなものか、と提案をしております。

 『爾前の経経実ならば法華経は大妄語法華経実ならば爾前の諸経は大虚誑罪なり。(法華経題目抄945頁)』

 『日蓮大聖人御書全集』には、『法華経』という文字が、一ページから1599ページまでの間に、実に1789回も使われています。(満月城岡山ネット御書語句検索による)御書全集は1600ページですから、ほとんどのページに「法華経」と言う文字があることになります。
 なぜ大聖人は、ここまで「法華経」にこだわられたのでしょうか。
 それは当時の日本国内の仏教事情によるものといえましょう。

 鎌倉時代、巷には念仏、真言、禅、律と言った宗教がはびこっていました。釈迦四十二年間に説かれた、いわゆる権経が元になった宗教です。大聖人はこんな時代、苦悩にあえぐ一切衆生を救わんと、『南無妙法蓮華経』と唱えられたのです。
 しかし、深く権経に染まった衆生に、簡単に受け入れられるはずもなく、種々の法難にあわれたのです。
 民衆に誹謗させて、地獄に落とすのが仏の目的ではありません。大聖人は、深く権経にとらわれた衆生の生命を、まずそこから引き離し、正しい方向に向かわせる必要があって、法華経、という言葉を使われたのではないでしょうか。
 釈迦が、四十二年間にも亘って、衆生の機根を整えたと同じ方法をとって、末法の衆生の機根を整えられていったのだと思います。

 しかし、大聖人は、決して釈迦の法華経を宣揚するのが目的ではありませんでした。

 『又日蓮が弟子等の中になかなか法門しりたりげに候人人はあしく候げに候、南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心人の中の神のごとし、此れにものをならぶればきさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし、わざはひのみなもとなり、正法像法には此の法門をひろめず余経を失わじがためなり、今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候もわたくしの計にはあらず、釈迦多宝十方の諸仏地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへばゆゆしきひが事なり。(上野殿御返事 1546頁)』

 今、末法も進んで、いちいち法華経、という言葉を使わなくとも、南無妙法蓮華経で通じるようになりました。
 出家に教えを乞わなくても、誰でも教義を学べる時代になりました。

 数字の人の言う事は、己義ではあるのでしょうが、やはり出家を特別に扱うところから出たひずみが、根本にあるのかもしれません。

 数字の人、自らが打ち立てた教義の正当性を主張する姿勢を、取り消すことはないでしょうが、いい笑い者になっている事にも、案外気が付いているのではないでしょうか。

退転者の僻みブログでしょうか?

2008-04-05 21:58:06 | Weblog
 『釈迦仏多宝仏十方の諸仏菩薩虚空にして二仏うなづき合い、定めさせ給いしは別の事には非ず、唯ひとへに末法の令法久住の故なり、既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来に奉り給いし時、妙法蓮華経の旛をさし顕し、釈迦多宝の二仏大将としてさだめ給いし事あにいつはりなるべきや、併ら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。(諸法実相抄 1360頁)』

 仏とは、なんとありがたいものか、と思った御書の一節です。
 仏とは、昼夜を分かたず、衆生を自らと同じ境涯にすることを念じているのに、衆生の方で、それを嫌だ、と言っている。衆生とはなんて身勝手なものなのだろう、と思った文でもありました。

 さらに、自分の低い境涯で、仏の御談合を作り上げたブログを見つけるに至っては、何をかいわんやです。

 「創価学会に悩む全ての人へ」と言うブログがあります。退転者のカリスマ的存在の人のブログです。
 内容は、学会に対しての反感に満ち溢れ、自らの退転を正当化し、他人にも退転を進めています。
 最近の記事では、釈迦と日蓮と戸田小聖(戸田城聖ではなく小聖としているところが、このブログ主の境涯)の霊界における三聖会談の5で、最終回、となっています。当然1から4までもあって、特別ゲストとして、阿弥陀まで登場させて、この三聖人に生前の"反省"をさせているのです。

 アンチと言われる人たちの文章を読んでいて、いつも思う事があります。それは、仏を自分のレベルにまで引き落として論じている、と言う事です。自分が解らないことを、解った人たちがいた、と言う事が理解できないのだろう、と思います。
 解らないなら解らないままでいいのです。それを、解らないのに解ったようにして、一切衆生を幸福へ導こうとしている仏までも、解らなかったはずだ、とするところに問題があるのです。
 そして、このブログ主に引かれて、現実、退転の道に入ってしまった人たちもいるようです。

 私たちが言うところの成仏とは、自らが開いて行くものです。開拓が困難を極めるように、また自らの生命の開拓も、困難を極めます。しかし決してあきらめずに、信心を持続していけば、必ず何らかの実証があるのです。それが分かるから、私たちは創価学会を辞めることなく、ここまで来たのです。

 しかし続けられなくなった人たちも、確かにいます。自らの、生命と言う荒野の開拓をあきらめ、再び無明の闇へと沈むことを選んだ人たちです。そしてそれらの人たちは、退転と言う、自らの生命に対する裏切りを正当化するために、必死に学会に対して悪態をつき続けなければならなくなるのです。
 自分だけでは飽き足らず、仲間を作って、裏切りを正当化し続けなければならない不幸を、しかし本人だけは、絶対にわからないのでしよう。

 学会員は、蟻の一歩ずつでも、幸せへと向かっていきます。その途中に、どれほどの困難があったとしても、確たる希望の灯を目指して、今、目の前の問題を、一つずつクリアしていけば、いつか絶対的幸福の境涯へとたどり着けることを知っています。
 

 自分の満足のために、学会の悪口を言い続け、人の幸せの道を塞いでいることにも思い至らない輩には、次の御書の一節を差し上げたいと思います。

 『当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染(かりそめ)にも毀るは糞犬(やせいぬ)が師子王をほへ癡猿(こざる)が帝釈を笑ふに似たり。 (善無畏三蔵抄 890頁)』