市丸の雑記帳

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第一章 それは恐喝から始まった

2008-06-28 23:50:52 | Weblog
 昭和五十年代のはじめ、学会に不穏な空気が漂ってきました。学会が恐喝にあったのです。誰が、何の目的で、そのような事をしているのか、全くわかりませんでした。
 やがてそれは末端の組織にまで及び、毎回の協議会に、写りの悪いコピー文書が配布され、全文読んで、全員に徹底するように、と言われました。誰かが読んで、その趣旨を伝えるのではだめだ、必ず全文読むように、だったと思います。
 文書の量は、小さな文字できっちり書かれ、B4でいつも数枚ありました。

 当時私は女子部の大B長(現・地区リーダー)をしていましたから、その文書を読む立場でした。
 ゆっくり読んでいたら、時間いっぱいかかって、後には何も話会う時間が取れなくなります。できる限り急いで読んで、本来の目的の話し合いに、少しでも時間を取りたくて、早口になっていたら、壮年部の人が「もっとゆっくり読んでもらわないと、意味が分からない」というようなことを言われました。
 それで少しだけスピードを落としましたが、内心思っていた事は、こんな物、早く読んだって、ゆっくり読んだって、意味なんかわかるものか。第一、読んでる本人がチンプンカンプンなんだから、と思っていました。

 確かに内容は支離滅裂でしたが、ただ一つ、妙に教学的な言葉を駆使して、一見まともそうに感じさせ、すべてを煙に巻くような、そんな感じがありました。
 当時私は教学部のそれなりの資格がありましたから、教学には大Bの中でも詳しい方でした。だからその文書の分かりにくさが、分かっていたのかもしれません。

 その頃支部内に、教学部教授はいませんでした。本部内に数名だったでしょうか。そんな状態の中での教学を駆使したお尋ね文書です。さらに、これを読んで、守るように、との指示もありました。

 解りにくい長文を、時間をかけて、一生懸命理解しようとしても、最初から極力”解りにくく”書かれた文書を、理解するのは困難でした。いくら守るように、と言われても、会場を出る時には、何も具体的な事は、頭に残っていません。
 こんなに私は頭が悪かったのか、とどうしようもないほどの疲労と虚しさだけを引きずって、協議会を終わっていたことだけは確かです。

 宗門関係者が、当時の事を【52年路線】と言っていたのか、と最近になって知りました。
 要は、学会員を惑わせ、師匠と会員の分断のために打ち出した、難癖お尋ね文書だった、と今なら解りますが、広宣流布を、ともに目指している、と思っていた宗門が、初めて学会の撹乱に動き始めた時だったのです。

 あの時、息のつまるような圧迫感と恐怖感が、日常までも支配していたのを思い出します。
 
 当時を経験した人なら、あの時の感覚は、お分かりいただけるものと思います。


 これは第一次宗門問題と言われるものの、私個人の印象を述べたもので、時系列的にはずれている分もあるかもしれません。
 しかし時系列的にずれているからと言って、あの時の感覚がずれているものではない、という確信はあります。

兄弟抄から

2008-06-21 08:12:41 | Weblog
 『されば法華経を信ずる人のをそるべきものは賊人強盗夜打ち虎狼師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり。(兄弟抄 1081頁)』

 悪知識を恐れよ、とは繰り返し御書に出てくる。では、この悪知識は、どのような形で法華経の行者を悩ましてくるのか。
 次下には、こう仰せである。少し長いけど、引用する。

 『此の世界は第六天の魔王の所領なり、一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり。六道の中に二十五有と申すろうをかまへて、一切衆生を入るるのみならず、妻子と申すほだしをうち、父母主君と申すあみをそらにはり、貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす。
 但あくのさかなのみをすすめて、三悪道の大地に伏臥せしむ。たまたま善の心あれば障碍をなす。
 法華経を信ずる人をば、いかにもして悪へ堕さんとをもうに、叶わざれば、やうやくすかさんがために、相似せる華厳経へをとしつ、杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり。
 又般若経へすかしをとす悪友は、嘉祥・僧詮等是なり。又深密経へすかしをとす悪友は、玄奘・慈恩是なり。又大日経へすかしをとす悪友は、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証是なり。又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり。
 此は第六天の魔王が智者の身に入つて、善人をたぼらかすなり。法華経第五の巻に「悪鬼其の身に入る」と説かれて候は是なり。(句読点、改行を加えた)』

 鎌倉時代当時だから、邪僧の名が並んでいるが、では現代に置き換えた場合、この悪知識は一体誰になるのか。
 職場の先輩、親兄弟、親類縁者、上司、恋人、配偶者。さまざまな人が、手を変え、品を変えて悪知識になってくるかもしれない。

 しかし学会員は、外部の力には強い。それらを悪知識だ、仏道修行を妨げる魔だ、と見破るのは簡単だろう。恐るべきものは、もっと身近な者が、悪知識になってくることである。
 それは信頼している同志、という事もあるだろう。先輩が悪知識になる場合もある。
 また、最も恐れなければならないのは、自分自身が、多くの人の悪知識になる場合もある、ということだ。そうなった時は、素直に同志の言葉を聞き、反省し、自らを省みる謙虚さがなかったら、法華経を信じながら、無間地獄に落ちてしまうことだってありうるのではないだろうか。

 御書は道理である。であるがゆえに、時を超え、時代を超えて真実である。
 そして、その時その時に、信心の迷いを打ち破ってくれる利剣でもある。

 迷った時、判断が難しい場面に出合った時、何を信ずればいいか、と言ったら、御書であり、学会の流れである。
 自分が悪知識になって、同志を惑わせ、不幸の道に落とさないためには、常に御書根本、大聖人直結、という事を、忘れてはならないだろう。

 それでも迷った時、ありがたいのは同志の存在であるはずだ。間違いを指摘してくれる友を善知識と頼み、素直に反省し、考えを改める勇気を持ちたい。反省し、改める者を、誰も責めはしないはずだ。
 
 誰でも悪知識にも善知識にもなりうる。
 常に善知識であってくれる同志をこそ、大切にしていきたいものである。

こんな人もいます

2008-06-10 06:59:50 | Weblog
 古参の内部アンチのブログです。

   http://star.ap.teacup.com/polaris-vega/

 この人は、自分がアンチだという自覚もないのかもしれません。つまり、学会を代表している自覚なのです。そして、この程度の低い文章を、歯を食いしばって書いているのだそうです。

 コメントも、トラックバックも受け付けていません。つまり反対意見を聞けないのです。

 この人の最大の問題は、得体のしれない情報を鵜呑みにして、さらに我見を織り交ぜて文章を仕上げ、あたかもそれが公平な内容であるかのように装っていることです。

 学会に籍を置きながら、日顕の事には敬称をつけ、先生の事はアンチが言う悪口で書いています。この一点だけでも、すでに学会員としての感覚はないのに、いまだに学会を代表しているような書き方をするのは、読んでいて滑稽であるし、この人のバランス感覚の悪さを感じます。

 よそ様のブログの事だから、どうでもいいのですが、ここまで良い面のない物は、他ではあまり見ないような気がします。
 
 もしかしたら、彼女は、ここもチェック中なのかもしれません。

 彼女は、同じタイトルで、数回場所を変えています。コメントも禁止にしているのに、なんで場所を変更しなければならないのか、その意味もわかりませんし、場所を変える時、必ずその引っ越し先を表示していて、何か状況が変わる、と思っているのか、それも面白いことです。
 そして引っ越す度に、内容はあくどいものになってきています。

 今回は、このブログを、皆様に知ってもらいたい、という目的だけですので、私の記事にも、何の内容もありません。

 どうぞ、○っちさんの渾身のブログ、御一読ください。