久々の内部アンチネタです。
「続・世の中はおかしなことばかり」と言うブログがあります。
この方は創価学会員です。
一読、嘘だ、と思われるでしょうが、まぎれもなく学会員です。
最初の頃は読みながら、いちいち腹を立てたりもしましたが、今ではそれもありません。このブログ主さんが、実生活でどんな状態なのか、分かってしまったからかもしれません。
詳しくは申しませんが、かつて内部アンチの総本家みたいになって、多くの同志(?)を集めていました。今はその面影はありませんが、それでも内部アンチの方達にとっては、カリスマ的存在を保っています。かろうじて、ではありますが。
そもそも内部アンチ、と言う存在は、どうやって生まれるものなのでしょうか?
と言う前に、この方達は、どうして学会に籍を置くようになったのでしょうか?
多くの場合が、親の代からの学会員、と言うことがあるでしょう。昭和三十年代、四十年代、幸せを求めて、死に物狂いで信心をしたであろう祖父母や両親たち。多少の行き過ぎがあったかもしれませんが、その思いにやましい所は有りませんでした。ただ、今の生活を何とかしたい、その一念だけで、祈り、動き、布教に全力を注いで行ったのです。
ところがその子供達は、親達が必死で築いた生活に感謝するどころか、ほったらかされた事を御本尊のせいにして、長じて学会を恨み、師匠を軽んずる様になってしまったのです。
こうした人たちは、家族とのしがらみで、学会を辞めるに辞められず、と言うような事を言います。
これは本音ではない、と私は思っています。この方達は思い込みが強く、辞めたらやばいのではないか、と自己暗示をかけてしまって、辞めるに辞められないだけなのではないか、と思うのです。
そしてもう一つ、辞めて自分だけで生きていく腹が、据わっていないだけなのではないでしょうか。
現に、勘当覚悟で御本尊を返却したツワモノがネット上にもいらっしゃいます。
ついで、自ら信心を求めながら、その実証を得る前に疑問を持ってしまって、その疑問が師匠や組織に向いて行ってしまった人達。
学会ではすべての祈りが叶う、と聞いたのに、自分の祈りは叶わなかった、この恨み、どうしてくれる、と言う類の人たちです。そのうちの大部分は、自分の宿業の重さに対して、信心した期間が短すぎた上に、祈りの密度が薄すぎただけなのではないでしょうか。
自分の願いが叶わなかったら、ひとりで身を引けばいいのに、それも出来ず、誰か幸せになりそうな人を、道連れに堕ちていけば恐くない、とばかりに、内部告発者ぶって学会の悪口を言っているサイトを探し回って、ほら、見て見て、とばかりにありもしない現実を吹聴して回るのです。
こんな人達は、学会の信心と言うものが、自分の信力、行力によってのみ、仏力、法力が現れる事が分からなかっただけなのです。
どちらにしても、学会が自分に合わないと思ったら、速やかに身を引くのが当然でしょう。
世間一般でも、師匠に疑問を持った者が、その場に居続けることは、ありえないし、重大な裏切り行為、とされてしまいます。存在そのものが不自然なのです。
自分の思いを捻じ曲げて、その組織に居る必要はありません。師匠を師匠と思えなくなったら、どうぞ速やかに、学会を立ち去っていただいて結構です。
そして、内部で悩みを抱えている方々、学会で得たノウハウを駆使して、自分の教団でも立ち上げて、自分に擦り寄って来た方たちを集めて、新しい道を開いて行ってください。
誰に責任を負わせる必要もなく、きわめて居心地が良いと思いますよ。
「続・世の中はおかしなことばかり」と言うブログがあります。
この方は創価学会員です。
一読、嘘だ、と思われるでしょうが、まぎれもなく学会員です。
最初の頃は読みながら、いちいち腹を立てたりもしましたが、今ではそれもありません。このブログ主さんが、実生活でどんな状態なのか、分かってしまったからかもしれません。
詳しくは申しませんが、かつて内部アンチの総本家みたいになって、多くの同志(?)を集めていました。今はその面影はありませんが、それでも内部アンチの方達にとっては、カリスマ的存在を保っています。かろうじて、ではありますが。
そもそも内部アンチ、と言う存在は、どうやって生まれるものなのでしょうか?
と言う前に、この方達は、どうして学会に籍を置くようになったのでしょうか?
多くの場合が、親の代からの学会員、と言うことがあるでしょう。昭和三十年代、四十年代、幸せを求めて、死に物狂いで信心をしたであろう祖父母や両親たち。多少の行き過ぎがあったかもしれませんが、その思いにやましい所は有りませんでした。ただ、今の生活を何とかしたい、その一念だけで、祈り、動き、布教に全力を注いで行ったのです。
ところがその子供達は、親達が必死で築いた生活に感謝するどころか、ほったらかされた事を御本尊のせいにして、長じて学会を恨み、師匠を軽んずる様になってしまったのです。
こうした人たちは、家族とのしがらみで、学会を辞めるに辞められず、と言うような事を言います。
これは本音ではない、と私は思っています。この方達は思い込みが強く、辞めたらやばいのではないか、と自己暗示をかけてしまって、辞めるに辞められないだけなのではないか、と思うのです。
そしてもう一つ、辞めて自分だけで生きていく腹が、据わっていないだけなのではないでしょうか。
現に、勘当覚悟で御本尊を返却したツワモノがネット上にもいらっしゃいます。
ついで、自ら信心を求めながら、その実証を得る前に疑問を持ってしまって、その疑問が師匠や組織に向いて行ってしまった人達。
学会ではすべての祈りが叶う、と聞いたのに、自分の祈りは叶わなかった、この恨み、どうしてくれる、と言う類の人たちです。そのうちの大部分は、自分の宿業の重さに対して、信心した期間が短すぎた上に、祈りの密度が薄すぎただけなのではないでしょうか。
自分の願いが叶わなかったら、ひとりで身を引けばいいのに、それも出来ず、誰か幸せになりそうな人を、道連れに堕ちていけば恐くない、とばかりに、内部告発者ぶって学会の悪口を言っているサイトを探し回って、ほら、見て見て、とばかりにありもしない現実を吹聴して回るのです。
こんな人達は、学会の信心と言うものが、自分の信力、行力によってのみ、仏力、法力が現れる事が分からなかっただけなのです。
どちらにしても、学会が自分に合わないと思ったら、速やかに身を引くのが当然でしょう。
世間一般でも、師匠に疑問を持った者が、その場に居続けることは、ありえないし、重大な裏切り行為、とされてしまいます。存在そのものが不自然なのです。
自分の思いを捻じ曲げて、その組織に居る必要はありません。師匠を師匠と思えなくなったら、どうぞ速やかに、学会を立ち去っていただいて結構です。
そして、内部で悩みを抱えている方々、学会で得たノウハウを駆使して、自分の教団でも立ち上げて、自分に擦り寄って来た方たちを集めて、新しい道を開いて行ってください。
誰に責任を負わせる必要もなく、きわめて居心地が良いと思いますよ。