市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

あるブログの事

2007-10-30 09:12:23 | Weblog
 久々の内部アンチネタです。

 「続・世の中はおかしなことばかり」と言うブログがあります。          
 この方は創価学会員です。
 一読、嘘だ、と思われるでしょうが、まぎれもなく学会員です。
 最初の頃は読みながら、いちいち腹を立てたりもしましたが、今ではそれもありません。このブログ主さんが、実生活でどんな状態なのか、分かってしまったからかもしれません。
 詳しくは申しませんが、かつて内部アンチの総本家みたいになって、多くの同志(?)を集めていました。今はその面影はありませんが、それでも内部アンチの方達にとっては、カリスマ的存在を保っています。かろうじて、ではありますが。

 そもそも内部アンチ、と言う存在は、どうやって生まれるものなのでしょうか?
 と言う前に、この方達は、どうして学会に籍を置くようになったのでしょうか?

 多くの場合が、親の代からの学会員、と言うことがあるでしょう。昭和三十年代、四十年代、幸せを求めて、死に物狂いで信心をしたであろう祖父母や両親たち。多少の行き過ぎがあったかもしれませんが、その思いにやましい所は有りませんでした。ただ、今の生活を何とかしたい、その一念だけで、祈り、動き、布教に全力を注いで行ったのです。
 ところがその子供達は、親達が必死で築いた生活に感謝するどころか、ほったらかされた事を御本尊のせいにして、長じて学会を恨み、師匠を軽んずる様になってしまったのです。
 
 こうした人たちは、家族とのしがらみで、学会を辞めるに辞められず、と言うような事を言います。
 これは本音ではない、と私は思っています。この方達は思い込みが強く、辞めたらやばいのではないか、と自己暗示をかけてしまって、辞めるに辞められないだけなのではないか、と思うのです。
 そしてもう一つ、辞めて自分だけで生きていく腹が、据わっていないだけなのではないでしょうか。
 現に、勘当覚悟で御本尊を返却したツワモノがネット上にもいらっしゃいます。
 
 ついで、自ら信心を求めながら、その実証を得る前に疑問を持ってしまって、その疑問が師匠や組織に向いて行ってしまった人達。
 学会ではすべての祈りが叶う、と聞いたのに、自分の祈りは叶わなかった、この恨み、どうしてくれる、と言う類の人たちです。そのうちの大部分は、自分の宿業の重さに対して、信心した期間が短すぎた上に、祈りの密度が薄すぎただけなのではないでしょうか。
 自分の願いが叶わなかったら、ひとりで身を引けばいいのに、それも出来ず、誰か幸せになりそうな人を、道連れに堕ちていけば恐くない、とばかりに、内部告発者ぶって学会の悪口を言っているサイトを探し回って、ほら、見て見て、とばかりにありもしない現実を吹聴して回るのです。
 こんな人達は、学会の信心と言うものが、自分の信力、行力によってのみ、仏力、法力が現れる事が分からなかっただけなのです。

 どちらにしても、学会が自分に合わないと思ったら、速やかに身を引くのが当然でしょう。
 世間一般でも、師匠に疑問を持った者が、その場に居続けることは、ありえないし、重大な裏切り行為、とされてしまいます。存在そのものが不自然なのです。
 自分の思いを捻じ曲げて、その組織に居る必要はありません。師匠を師匠と思えなくなったら、どうぞ速やかに、学会を立ち去っていただいて結構です。

 そして、内部で悩みを抱えている方々、学会で得たノウハウを駆使して、自分の教団でも立ち上げて、自分に擦り寄って来た方たちを集めて、新しい道を開いて行ってください。
 誰に責任を負わせる必要もなく、きわめて居心地が良いと思いますよ。

後書の中の人物 「三位房」

2007-10-20 06:35:33 | Weblog
 『問う、権教邪宗の証文は如何。既に真言教の大日覚王の秘法は即身成仏の奥蔵なり。故に上下一同に是の法に帰し、天下悉く大法を仰ぐ。海内を静め、天下を治むる事、偏に真言の力なり。権教邪法と云う事如何。
           ──(中略)──
 如来の金言経文を尋ぬ可し。証文無くんば、何と云うとも法華誹謗の罪過を免れず。此の事当家の肝心なり、返す返す忘失する事勿れ。(読み易いように句読点、改行を加えました)』  

 『真言見聞 (143頁)』にある文の抜粋です。
 前段の質問、誰だと思いますか? 大聖人様と法論している真言師の言葉のように見えるでしょう。ところがさにあらず。意外にもこれは、三位房の質問なんです。
 現在で言うならば、教学部長待遇だった三位房が、自分が法論して突っ込まれた事を、大聖人様に尋ねているのでしょうが、真言宗を持ち上げて、法華経を馬鹿にしているように見えませんか。
 三位房にしてみれば、当然の疑問を大聖人様に質問したつもりなのでしょうが、見事に三位房の命の奥を表してしまっているのです。

 三位房は教学研鑽のために、京に上った経験を持っています。その時真言師と法論をしたのでしょう。また大聖人様から『田舎法師にもあらず京法師にもにず(法門申さるべき様の事 1268頁)』と指摘されたように、京の雅に影響を受けて、鎌倉人でも京人でもない、中途半端なおのぼりさんになって鎌倉へ帰って来た模様です。
 多分、京の僧等のまったりしたふぜいが、なんとも心地よくて、ただ信仰一点張りの大聖人様が、どうにもみすぼらしく、この人の弟子である事が、恥ずかしくなってしまったのかもしれません。
 大聖人様を師匠と思えなくなった、その瞬間に、三位房は大聖人様の説かれた法そのものにも疑問を感じてしまったのでしょう。

 信心に疑問を持つ、とはそう言う事ではないでしょうか。自分では、アンチや他宗の者に振り回されているつもりは無いのに、そのきらびやかな外見に惑わされ、粗末とも言える質実剛健な暮らしが、なんとも薄汚く、つまらない物に見え、師匠さえもが、外見どおりの劣った存在であるかのごとく勘違いをしてしまう。そしてそれを、当然の疑問で、不信なんかではないと思っている。誰が聞いても、そうだよね、おかしいね、と同調してしまう事でしょう。
 
 しかしそこに不信の芽は芽生え、知らぬ間に大きく育っていってしまうのです。
 
 三位房の失敗は、真言にも筋が通っているのではないか、と考える以前に、京の暮らしを鎌倉のそれよりも上だ、と思ったことにあったのではないでしょうか。その上等な暮らしをしている者たちが信じているものであるのなら、もしかしたら少しは正しい面も持っているのではないのか。
 それが冒頭の質問になったのだとしたら、真言を破折するために大聖人様にその意味をお尋ねしたのではなく、本当に分からなくなってしまっていたのかもしれません。
 それが後に大聖人様に敵対し、攻撃側に回ってしまう因となって行くのです。
 それほど、不信は恐ろしいのです。

 しかしそれぐらいの不信や疑問は、誰にでも、いつでも起こりえるものだと思います。
 特に信心していない人の方が、はるかに立派に見えてしまったり、何時までたっても功徳が出ないと嘆いてばかりいたら、自分の命の中にある御本尊拒否の命が、どこまでも幅を利かせてしまうかもしれないのです。

 一度湧いた疑問、不信を払拭する為には、相当な覚悟の祈りが必要です。生命は限りなく十界の下へ下へと行こうとする傾向を持っており、疑いの心は風船のようにどんどん大きくなっていく傾向を持つのです。

 これは現代にも通じるでしょう。御本尊様を真っ直ぐに見なかったり、人の言に振り回されたり、功徳ちょうだいが通じなかったり、活動が重荷になったりした時に、人はもっともらしい理由をつけて、信仰の対象そのものに疑いを持ってしまうようです。

 もし、疑問が出てきたら、すぐに信頼できる人に相談をし、納得行くまで話し合うことが大事になるでしょう。さらにその上で、不信を晴らすまでの祈りをすることが大事でしょう。
 
 信心と言うものは、決して分かったつもりにならないことが大事なのではないでしょうか。どこまでも素直に、どこまでも謙虚に、求め切って行くことです。
 鎌倉時代にも、途中で大聖人様の言われる事が信じられなくなって、離れて行った人はいます。
 これらを反面教師に、生涯信心を間違わない事が、幸せの軌道を外れない、唯一の道ではないでしょうか。

御書の中の人物 「妙一尼」

2007-10-08 12:30:12 | Weblog
 学会員なら、誰でも一度は目にしている、それほど有名なお手紙をいただいた女性がいます。
 妙一尼。

 『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかずみず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候。(妙一尼御前御消息 1253頁)』

 この妙一尼は、どんな人だったのでしょうか。
 大聖人様に『かれたる朽木のやうなるとしより尼(同頁)』と言われたような人です、決してふくよかで、見目麗しい人ではなかったのだろうと思います。
 さらに先の戦で家族の中から男性の死者を出し、まだ働き手にもならないような子供を抱えて、途方にくれていたのでしょう

 以前参加していた掲示板で、この二人の関係は、母親だったのか、祖母だったのか、と言う議論がありました。一応の解釈としては母親と言うことになっていますが、先の記述から見ると、祖母だったのではないか、と言う意見で、その方が流れとしては実感があるのではないか、と言うことだったのです。
 私もその意見に賛成でした。

 しかし世の中には、親子でもずっと歳の離れた同士はいるものです。例えば知っている人の中に、兄弟ふたりで二十歳ほど年齢差のある人がいました。どう見ても下の子は母親といると孫にしか見えないし、兄といると親子に見えるのです。
 また母親も、年がいって子供を生んだからか、急に老けてしまい、実年齢よりも上に見られるようになっていました。
 こんな関係だったら『としより尼』と言われた妙一尼が、祖母ではなく、母親だった事も十分に考えられるわけです。

 で、読み書きも不自由する女性が、家督を継ぐには幼すぎる子供を抱えて、さあどうしたものか、不安に駆られていたのでしょう。亡き夫の形見と言えば、幼子と南無妙法蓮華経と言う新興宗教のお題目だけ。
 見かねて誰かが、大聖人様に指導を仰いだのかもしれません。
 妙一尼と言う、やせっぽの人が、行く末案じております。どうしたものでしよう。どう信心を続けるように教えていったものでしょうか、とでも大聖人様にお手紙を書いたのでしょうか。
 本人が書いたとは思えないのです。御書本文を読んでいただければ分かりますが、くどいほどに当たり前の事が、重ねて書いてあります。これは耳から聞いても心に残るように、繰り返し同じ意味の事を書かれているのだと思うからです。

 返ってきた言葉は『冬は必ず春となる』でした。
 
 妙一尼は、何度も何度もその言葉をかみ締める様に自分に言い聞かせ、信心だけは貫いて行ったのでしょう。
 その闇が深かった分、後世の人たちにも、苦しいとき、行き詰った時の光明になる、簡潔でしかも核心をついた言葉となったのかもしれません。

 そしてここにも、紛れもなく御本仏を動かした信徒がいたのだと思います。
 先人達の純真な信仰に、ただ、感謝有るのみです。