『御義口伝に云く若人とは上仏果より下地獄の罪人まで之を摂す可きなり、病とは三毒の煩悩仏菩薩に於ても亦之れ有るなり、不老は釈尊不死は地涌の類たり、是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然らば病とは謗法なり、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。(御義口伝巻下 774頁)』
『御義口伝』を最初に学んだのは、教授補の試験の時でした。
まったく理解できませんでした。
上級試験、と名前が変わって受けた時の範囲は、『百六箇抄』でした。
結局『御義口伝』は理解しないまま、私は試験の機会を終わってしまったことになります。
しかしその後、何度も読み返すうちに、なんとなくですが、『御義口伝』の内容がわかるような気がしてきました。
冒頭にあげた御文は、その中でも、私が御本尊様から、厳しく信心を教えられた一節と思っています。
私はいわゆる「状況緘黙児」と今なら言われる子供でした。家から一歩出ると、なにも心が働かなくなるのがわかるのです。当然、普通にできることもできず、同じ年代の子供と、普通に遊ぶこともできませんでした。
なぜそうなったか、今は分かっています。しかしそれはここで言うことではありません。結果として、私は幼少時から心の病を抱えていた、という事です。
成人して、そのまま抑うつ状態になりました。しかしその病気が、心の病として世間に認識されるのは、そのずっと後のことで、私はただの怠け者、仮病、やる気がないだけ、等々さんざん言われました。
自分でも、何とかしなければ、と思うのですが、どうしても、普通にできるはずの事が出来ないのです。仕事も、数年勤めると、疲れてしまって辞めざるを得ないようになるってしまっていました。
そしてそのストレスは、当然のこととして内臓にまでおよび、十代から肩こり、むくみ等、体に変調をきたすようになっていました。
つまり私は、普通に健康な生活を、全くしたことがなかったのです。
母に仕事のできないことを詰められ、初めて腎臓に疾患のあることを言ったのは、うつも腎臓も、相当悪くなってからでした。顔色はどす黒く、全身のむくみは全く引くこともなく、朝起きた時、肩で息をするようになっていた、と思います。
私から、体の具合が悪い、ということを聞いた母は、たった一言、突き放すように言いました。
「誹法だ」
のちに『御義口伝』を拝読し、冒頭の文に触れたのは、うつが治ってからでした。
私のうつの治り方は、実際医学に従事している人にも理解できないかもしれません。ある夜の唱題中に、一瞬でうつが抜けた! とわかったのです。
ちょっと劇的でした。
後は、ただ感謝の唱題をしました。
その後二十数年、どのような状況になろうとも、うつは出ません。
当然、残りカスのような生命の癖は残っています。それがどのような物かも分かっています。しかし私のうつが治ってから、私の担当する組織が変わりました。
その時の体験は、長くなりますので、今は割愛させていただきます。
今、ネットである種の人たちが、うつ病を克服した人、あるいは戦って治そうとしている人たちに対して、揶揄とも取れないほどのひどい言葉で罵っているのを目にすることがあります。この人たちの周りに、あるいは身内に、心の病で苦しんでいる人はいないのでしょうか? その人は、その身内の人にも、同じ言葉をかけることができるのでしょうか?
心の病も誹法であるのなら、それを懺悔し、命が変わり、宿命の転換がなされたら、絶対に治る病気である、と断言できます。
他に例を探す必要はありません、私が証人です。
それを、心の病を特別視し、克服し、あるいは克服しつつある人に向かって、治らない、治るはずがない、などというのは、それこそ謗法を積んでいることにならないでしょうか。
言われている人の罪障を、肩代わりしてやる覚悟があるのならばともかく、もっと謙虚に、仏法の厳しさ、偉大さを、知るべきではないか、と思うのですが。
そして、この心の病は、すべての人が、平等にかかる可能性を持っているのです。他人の病気を揶揄する前に、そのことを真剣に考える必要があるのではないか。
そんな事を考えてしまいました。
『御義口伝』を最初に学んだのは、教授補の試験の時でした。
まったく理解できませんでした。
上級試験、と名前が変わって受けた時の範囲は、『百六箇抄』でした。
結局『御義口伝』は理解しないまま、私は試験の機会を終わってしまったことになります。
しかしその後、何度も読み返すうちに、なんとなくですが、『御義口伝』の内容がわかるような気がしてきました。
冒頭にあげた御文は、その中でも、私が御本尊様から、厳しく信心を教えられた一節と思っています。
私はいわゆる「状況緘黙児」と今なら言われる子供でした。家から一歩出ると、なにも心が働かなくなるのがわかるのです。当然、普通にできることもできず、同じ年代の子供と、普通に遊ぶこともできませんでした。
なぜそうなったか、今は分かっています。しかしそれはここで言うことではありません。結果として、私は幼少時から心の病を抱えていた、という事です。
成人して、そのまま抑うつ状態になりました。しかしその病気が、心の病として世間に認識されるのは、そのずっと後のことで、私はただの怠け者、仮病、やる気がないだけ、等々さんざん言われました。
自分でも、何とかしなければ、と思うのですが、どうしても、普通にできるはずの事が出来ないのです。仕事も、数年勤めると、疲れてしまって辞めざるを得ないようになるってしまっていました。
そしてそのストレスは、当然のこととして内臓にまでおよび、十代から肩こり、むくみ等、体に変調をきたすようになっていました。
つまり私は、普通に健康な生活を、全くしたことがなかったのです。
母に仕事のできないことを詰められ、初めて腎臓に疾患のあることを言ったのは、うつも腎臓も、相当悪くなってからでした。顔色はどす黒く、全身のむくみは全く引くこともなく、朝起きた時、肩で息をするようになっていた、と思います。
私から、体の具合が悪い、ということを聞いた母は、たった一言、突き放すように言いました。
「誹法だ」
のちに『御義口伝』を拝読し、冒頭の文に触れたのは、うつが治ってからでした。
私のうつの治り方は、実際医学に従事している人にも理解できないかもしれません。ある夜の唱題中に、一瞬でうつが抜けた! とわかったのです。
ちょっと劇的でした。
後は、ただ感謝の唱題をしました。
その後二十数年、どのような状況になろうとも、うつは出ません。
当然、残りカスのような生命の癖は残っています。それがどのような物かも分かっています。しかし私のうつが治ってから、私の担当する組織が変わりました。
その時の体験は、長くなりますので、今は割愛させていただきます。
今、ネットである種の人たちが、うつ病を克服した人、あるいは戦って治そうとしている人たちに対して、揶揄とも取れないほどのひどい言葉で罵っているのを目にすることがあります。この人たちの周りに、あるいは身内に、心の病で苦しんでいる人はいないのでしょうか? その人は、その身内の人にも、同じ言葉をかけることができるのでしょうか?
心の病も誹法であるのなら、それを懺悔し、命が変わり、宿命の転換がなされたら、絶対に治る病気である、と断言できます。
他に例を探す必要はありません、私が証人です。
それを、心の病を特別視し、克服し、あるいは克服しつつある人に向かって、治らない、治るはずがない、などというのは、それこそ謗法を積んでいることにならないでしょうか。
言われている人の罪障を、肩代わりしてやる覚悟があるのならばともかく、もっと謙虚に、仏法の厳しさ、偉大さを、知るべきではないか、と思うのですが。
そして、この心の病は、すべての人が、平等にかかる可能性を持っているのです。他人の病気を揶揄する前に、そのことを真剣に考える必要があるのではないか。
そんな事を考えてしまいました。