市丸の雑記帳

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御書に学ぶ『病とは謗法なり』

2009-10-14 06:57:59 | Weblog
 『御義口伝に云く若人とは上仏果より下地獄の罪人まで之を摂す可きなり、病とは三毒の煩悩仏菩薩に於ても亦之れ有るなり、不老は釈尊不死は地涌の類たり、是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然らば病とは謗法なり、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。(御義口伝巻下 774頁)』

 『御義口伝』を最初に学んだのは、教授補の試験の時でした。
 まったく理解できませんでした。
 上級試験、と名前が変わって受けた時の範囲は、『百六箇抄』でした。
 結局『御義口伝』は理解しないまま、私は試験の機会を終わってしまったことになります。  
 しかしその後、何度も読み返すうちに、なんとなくですが、『御義口伝』の内容がわかるような気がしてきました。
 冒頭にあげた御文は、その中でも、私が御本尊様から、厳しく信心を教えられた一節と思っています。

 私はいわゆる「状況緘黙児」と今なら言われる子供でした。家から一歩出ると、なにも心が働かなくなるのがわかるのです。当然、普通にできることもできず、同じ年代の子供と、普通に遊ぶこともできませんでした。
 なぜそうなったか、今は分かっています。しかしそれはここで言うことではありません。結果として、私は幼少時から心の病を抱えていた、という事です。

 成人して、そのまま抑うつ状態になりました。しかしその病気が、心の病として世間に認識されるのは、そのずっと後のことで、私はただの怠け者、仮病、やる気がないだけ、等々さんざん言われました。
 自分でも、何とかしなければ、と思うのですが、どうしても、普通にできるはずの事が出来ないのです。仕事も、数年勤めると、疲れてしまって辞めざるを得ないようになるってしまっていました。
 そしてそのストレスは、当然のこととして内臓にまでおよび、十代から肩こり、むくみ等、体に変調をきたすようになっていました。
 つまり私は、普通に健康な生活を、全くしたことがなかったのです。

 母に仕事のできないことを詰められ、初めて腎臓に疾患のあることを言ったのは、うつも腎臓も、相当悪くなってからでした。顔色はどす黒く、全身のむくみは全く引くこともなく、朝起きた時、肩で息をするようになっていた、と思います。
 私から、体の具合が悪い、ということを聞いた母は、たった一言、突き放すように言いました。
 「誹法だ」

 のちに『御義口伝』を拝読し、冒頭の文に触れたのは、うつが治ってからでした。
 私のうつの治り方は、実際医学に従事している人にも理解できないかもしれません。ある夜の唱題中に、一瞬でうつが抜けた! とわかったのです。
 ちょっと劇的でした。
 後は、ただ感謝の唱題をしました。
 その後二十数年、どのような状況になろうとも、うつは出ません。
 当然、残りカスのような生命の癖は残っています。それがどのような物かも分かっています。しかし私のうつが治ってから、私の担当する組織が変わりました。
 その時の体験は、長くなりますので、今は割愛させていただきます。

 今、ネットである種の人たちが、うつ病を克服した人、あるいは戦って治そうとしている人たちに対して、揶揄とも取れないほどのひどい言葉で罵っているのを目にすることがあります。この人たちの周りに、あるいは身内に、心の病で苦しんでいる人はいないのでしょうか? その人は、その身内の人にも、同じ言葉をかけることができるのでしょうか?

 心の病も誹法であるのなら、それを懺悔し、命が変わり、宿命の転換がなされたら、絶対に治る病気である、と断言できます。
 他に例を探す必要はありません、私が証人です。

 それを、心の病を特別視し、克服し、あるいは克服しつつある人に向かって、治らない、治るはずがない、などというのは、それこそ謗法を積んでいることにならないでしょうか。
 言われている人の罪障を、肩代わりしてやる覚悟があるのならばともかく、もっと謙虚に、仏法の厳しさ、偉大さを、知るべきではないか、と思うのですが。
 そして、この心の病は、すべての人が、平等にかかる可能性を持っているのです。他人の病気を揶揄する前に、そのことを真剣に考える必要があるのではないか。
 そんな事を考えてしまいました。

忘れてはいけない事だから

2009-10-09 08:20:24 | Weblog
 皆さんが忘れる前にアップしておきたいと思います。 
 
 かつて、九州にFと言う幹部がいました。
 九州のトップの役を担っていました。
 一見、二枚目でした。

 Fとは、大きな会合でしかあったことがありません。しかし九州のトップ幹部が入る、という事で、女子部総会でも、幹部会でも、みんな時間をやりくりして、必死で駆けつけていました。
 なぜなら、Fが入ると、先生の話が聞けるからです。

 当時、先生の話は、幹部の口を通してしか聞くことはできませんでした。今みたいに、全国をつないで本部幹部会の中継なんて、考えられない時代だったのです。だから、Fを通して、先生の事を聞くために、会合に参加していたのです。

 Fは何時も先生の事を話す時、口角泡を飛ばし、泣かんばかりに感情こめて話しました。
 情熱をこめて、先生を讃え、先生の手駒になって戦え、と檄を飛ばしました。
 具体的な言葉は、忘れてしまいましたが、とにかく自分一人になっても、自分一人だけでも、というようなことは、いつも言っていました。その言葉で、現に立ち上がった人もいます。私が女子部幹部会に強引に誘い出し、いやいや参加してFの話に立ち上がったHさんは、後に圏主任部長にまでなりました。

 Fは題目を上げよ、とも言いました。自分の体験を通して、訴えました。
 ある年、一日一万遍の題目を一年間あげ通そうと決意し、最初は順調に上がっていたが、だんだんと上げられなくなって、とうとう行き詰り、十月頃だったか、三日程仕事を休んで、題目を上げ続け、そして追い付いた、みたいな話をしたことがあります。
 すごい人だ、とその時は思いました。題目に対する執念を見た思いで、尊敬しました。
 しかし、後、自分でも一年間、一日一万遍の題目を決意してあげてみるようになると、一度上げられなくなった題目と言うものは、絶対に取り戻せないことが分かりました。題目と言うものは、どうしても上げられなくなった時には、取り戻すのではなく、仕切り直しをして、新たに決意するしかないのです。
 あの話は、会合用の誇大宣伝だったのではないか、と思うようになりました。

 Fに、O市発言と言うものがあります。
 宗門が学会の、とりわけ先生の指導に難癖をつけ、僧俗和合を乱す、と言ってきた頃、Fが「池田先生本仏論」や「人間革命は現代の御書論」をぶち上げ、さらに坊主を揶揄して宗門の神経を逆なでし、ついには先生を会長勇退にまで追い込んだ、問題の発言です。

 先生はすべての責任を取る形で、昭和五十四年四月二十四日、第四代会長を北条浩氏に譲り、名誉会長に退きました。

 Fは、先生勇退の責任を取る形で、学会の一切の任を離れ、暫くはおとなしくしていました。
 私たちは、Fが信心をさらに磨き、再び私たちの前に現れるのだろう、と思っていました。

 ところが次にFが私たちの前に現れたのは、学会と先生を攻撃する側の先頭に立ってでした。祭り上げられたのか、自分で音頭取りになったのか、それは分かりませんが、Fは、学会にとって、最も厄介な存在となって帰って来たのです。

 この変わり身の早さ。
 たぶん、無理して師匠をヨイショしていたのが、重くなって耐えられなくなって、放り出して、敵に寝返った、腰抜け武将と同じ心理だったのでしょうね。

 学会で幹部になり、自分をつくろう為に先生をヨイショし、その限界点を超すとさっさと離反して、今度は攻撃側に回る。
 これは後になって分かった事ですが、反逆者の常套手段だったのです。古くは戸田先生の時代の、会長になりそこなった輩から、最近ではネット界隈の、信心あるように見せたいアンチまで、相も変らぬ虚飾の連鎖。

 内部アンチ、と言われる種族の、先生の扱いは、たった二種類しかありません。
 「ヨイショ」か「軽蔑」か。
 しかしその根は、どちらも一緒です。

 なぜなら、どちらも、いつかは反逆者、の軌道に乗ってしまっているのですから。

 反逆して行く見本として、どちらにしても忘れられない人ではありますが。