その弐、とでもしておきますか。
前回は六界論と言う、本来は仏法にはない教義でしたが、今回は、これも御書はおろか仏法にはない「同苦の念仏」と言う教義です。
この教義の提唱者が、高等仏法を知らない人であるのだったら、何も反論する必要はありません、ただ「《無知》だったんだ!」で終わりです。しかしどうもそうではなく、いっぱしの学問をやった人のようなので、少し破折いたしたいと思います。
そもそも念仏とはいかなる宗教なのか。
念仏と言う、厭世思想に、同苦、つまり他人に寄り添うだけの生命があるものか、そこから考える必要があるのではないでしょうか。
さらに、同苦と言う感情を持ち、その行動を取る、という事が、どう言う境涯を必要とするのかも考える必要があるでしょう。
《同苦》とは、その文字が示す通り、他人の苦しみと同じ思いに至り、そこに止まらず、相手を自らと同じ境涯に引き上げていく行為です。自らが低い境涯に止まっていては、絶対に不可能な事だと言えるでしょう。
「この世は苦しみに満ちた世界であるから、諦めなさい。死ねば西方十万億土と言う世界で、阿弥陀様が待っておられます。それを信じなさい」
これが念仏の思想です。
これを信じたならば、一刻も早く阿弥陀様の待つ西方極楽世界に行きたくなるのが当然ではないでしょうか。
念仏で同苦したなら、共にあの世へ旅立ちましょう、となってしまわないか、と言いたくなりませんか?
おそらくですが「同苦の念仏」などと言うふざけた教義を発信なさった方は、念仏をやった事がないのだと思います。
多くの日本人が、創価学会にたどりつく前は念仏でした。念仏で日頃を過ごし、何か困った事があれば真言の祈祷を受けに行く、それが標準の宗教観だったはずです。
家の宗教が念仏なのに、なぜ、事あれば真言の祈祷師の所へ行くのか。
二十代半ばまで、そのような暮らしをして来た主人は言います。
「念仏では駄目なんだ」
念仏の家に生まれたから、とりあえずの宗教は念仏だったと言っても信仰気はなく、親に言われ、しぶしぶ盆と正月ぐらいは仏壇の前に座っていただけでも、やはり念仏の害毒は命に食い込んでいた、と知ったのは、創価学会に入り、本格的な宿命転換の闘いを始めてからだった、と言います。
主人は、まれに見る精神力の持ち主です。その主人をしても、念仏は命を食い破って、本来の輝きを曇らせていた、というのです。
念仏は、一切の命の活動を制止して行きます。
見ざる、言わざる、聞かざる。
長いものには巻かれろ。
出る杭は打たれる。
寄らば大樹の陰。
念仏は、絶対に成仏が叶わない宗教と言えるでしょう。
もっと言えば、間違いなく無間地獄が確定している宗教なのです。
大聖人は、この、生命破壊の宗教を徹底的に破折されます。もっとも有名な一節としては『立正安国論』の次の文を上げる事が出来るでしょう。
『如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。(立正安国論 24頁)』
念仏の肯定は、大聖人を否定する事に他ならないのです。
利口そうに「同苦の念仏」などと言って、宗教だったら心がけひとつで、正しくもなる、みたいな言い方は、人を惑わす悪鬼のささやきにしか思えません。
ゆめゆめ、こんな邪義には惑わされる事のないように、御書を心肝に染めて、あくまでも大聖人の仏法の信者らしくいきたいものです。
前回は六界論と言う、本来は仏法にはない教義でしたが、今回は、これも御書はおろか仏法にはない「同苦の念仏」と言う教義です。
この教義の提唱者が、高等仏法を知らない人であるのだったら、何も反論する必要はありません、ただ「《無知》だったんだ!」で終わりです。しかしどうもそうではなく、いっぱしの学問をやった人のようなので、少し破折いたしたいと思います。
そもそも念仏とはいかなる宗教なのか。
念仏と言う、厭世思想に、同苦、つまり他人に寄り添うだけの生命があるものか、そこから考える必要があるのではないでしょうか。
さらに、同苦と言う感情を持ち、その行動を取る、という事が、どう言う境涯を必要とするのかも考える必要があるでしょう。
《同苦》とは、その文字が示す通り、他人の苦しみと同じ思いに至り、そこに止まらず、相手を自らと同じ境涯に引き上げていく行為です。自らが低い境涯に止まっていては、絶対に不可能な事だと言えるでしょう。
「この世は苦しみに満ちた世界であるから、諦めなさい。死ねば西方十万億土と言う世界で、阿弥陀様が待っておられます。それを信じなさい」
これが念仏の思想です。
これを信じたならば、一刻も早く阿弥陀様の待つ西方極楽世界に行きたくなるのが当然ではないでしょうか。
念仏で同苦したなら、共にあの世へ旅立ちましょう、となってしまわないか、と言いたくなりませんか?
おそらくですが「同苦の念仏」などと言うふざけた教義を発信なさった方は、念仏をやった事がないのだと思います。
多くの日本人が、創価学会にたどりつく前は念仏でした。念仏で日頃を過ごし、何か困った事があれば真言の祈祷を受けに行く、それが標準の宗教観だったはずです。
家の宗教が念仏なのに、なぜ、事あれば真言の祈祷師の所へ行くのか。
二十代半ばまで、そのような暮らしをして来た主人は言います。
「念仏では駄目なんだ」
念仏の家に生まれたから、とりあえずの宗教は念仏だったと言っても信仰気はなく、親に言われ、しぶしぶ盆と正月ぐらいは仏壇の前に座っていただけでも、やはり念仏の害毒は命に食い込んでいた、と知ったのは、創価学会に入り、本格的な宿命転換の闘いを始めてからだった、と言います。
主人は、まれに見る精神力の持ち主です。その主人をしても、念仏は命を食い破って、本来の輝きを曇らせていた、というのです。
念仏は、一切の命の活動を制止して行きます。
見ざる、言わざる、聞かざる。
長いものには巻かれろ。
出る杭は打たれる。
寄らば大樹の陰。
念仏は、絶対に成仏が叶わない宗教と言えるでしょう。
もっと言えば、間違いなく無間地獄が確定している宗教なのです。
大聖人は、この、生命破壊の宗教を徹底的に破折されます。もっとも有名な一節としては『立正安国論』の次の文を上げる事が出来るでしょう。
『如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。(立正安国論 24頁)』
念仏の肯定は、大聖人を否定する事に他ならないのです。
利口そうに「同苦の念仏」などと言って、宗教だったら心がけひとつで、正しくもなる、みたいな言い方は、人を惑わす悪鬼のささやきにしか思えません。
ゆめゆめ、こんな邪義には惑わされる事のないように、御書を心肝に染めて、あくまでも大聖人の仏法の信者らしくいきたいものです。