過日、入会十数年の、七十年配の婦人と話す機会がありました。
彼女は大変な働き者で、必死に頑張って今日を迎えられたのですが、その人生は、決して幸せと言えるものではありませんでした。
具体的な内容は割愛いたしますが、まず的確な指導を聞く機会がなかったようで、題目がなぜ必要なのかさえ分かっていない状況だったのです。
「働かなければならなかった」
暗いうちから、食事もそこそこに、努力して努力して、たどり着いた孤独な生活。
何をどう伝えたら、この人が希望を持って明日へ向かえるのか。もう本人に向かい合っているのです。考える暇はありません。
「大変なのは、お互いですよ」
対話はそこから始まります。
実は私達夫婦には、信心して行く上で、とても強い味方があります。
それは、様々な不幸を経験して来た、と言う事です。
身の病は言うに及ばず、心の病、家庭不和、貧乏に失業。
そのどれをも、題目一本で乗り越えるしかない現実。
大変だ、と思った事はあります。
もう駄目だ、と思った事も数知れません。
しかし、そのたびに、ここまでて来て、後戻りはできない、とまた仏壇の前に座る日々。
策も努力も信念も、宿命の前には何の役にも立ちません。
その日々の中で、身で読む事のできた御文があります。
『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。(兄弟抄 1087頁)』
三十数年前、上級試験の面接。
「『兄弟抄』には何が書いてありますか?」との問いに、その御文として答えた一節でした。
「最近つくづく思うんですよ、題目は嘘つかないって」
そして、なぜ題目が必要なのか、易しい言葉で、ゆっくりと説明します。
相手は未教学部員です。難しい言葉は通用しません。
でも、教学の論点は、決して外す事はしません。ただの茶飲み話になってはいけないからです。
五分も話していたら、相手の眼の色が変わってきます。生き生きとして来るのです。表情も若くなってきます。
短時間では、本当に原則しか伝える事はできませんが、それでもその人の命が変わって来るのが分かるのです。
一緒に対話をしている主人が、注意深くその人を観察して、理解できているかどうか確認をしています。うまく話が伝わっていなかったら、あとで、何が適切でなかったかの反省材料にするためです。
後日、その人が、
「やっと題目の大事さが分かった」
と言っていた、と聞きました。
「だから題目を上げろと言ってたでしょう」
という近所の婦人部の人に対して、その人は言ったそうです。
「だけどアンタ、なぜ題目が必要かは、教えてくれなかったじゃないの」
今、教学を話している男子部も、≪なぜ≫を聞きたいと言います。
彼もまた未教学部員です。難しい表現は通じません。
しかし対話をして行く時、前向きになっていく生命を感じます。
「絶対任用試験に合格する」
今の彼の当面の目標です。
対話。
決してやさしい事ではありません。
でも、人材育成は、対話からしか進まないのです。
ひとたび学会の庭に集った人達を、更に深い信心へと進めていく努力は、少しだけ早く信心を始めた私共の使命なのだと、これからも心して行きたいと決意した次第でした。
彼女は大変な働き者で、必死に頑張って今日を迎えられたのですが、その人生は、決して幸せと言えるものではありませんでした。
具体的な内容は割愛いたしますが、まず的確な指導を聞く機会がなかったようで、題目がなぜ必要なのかさえ分かっていない状況だったのです。
「働かなければならなかった」
暗いうちから、食事もそこそこに、努力して努力して、たどり着いた孤独な生活。
何をどう伝えたら、この人が希望を持って明日へ向かえるのか。もう本人に向かい合っているのです。考える暇はありません。
「大変なのは、お互いですよ」
対話はそこから始まります。
実は私達夫婦には、信心して行く上で、とても強い味方があります。
それは、様々な不幸を経験して来た、と言う事です。
身の病は言うに及ばず、心の病、家庭不和、貧乏に失業。
そのどれをも、題目一本で乗り越えるしかない現実。
大変だ、と思った事はあります。
もう駄目だ、と思った事も数知れません。
しかし、そのたびに、ここまでて来て、後戻りはできない、とまた仏壇の前に座る日々。
策も努力も信念も、宿命の前には何の役にも立ちません。
その日々の中で、身で読む事のできた御文があります。
『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。(兄弟抄 1087頁)』
三十数年前、上級試験の面接。
「『兄弟抄』には何が書いてありますか?」との問いに、その御文として答えた一節でした。
「最近つくづく思うんですよ、題目は嘘つかないって」
そして、なぜ題目が必要なのか、易しい言葉で、ゆっくりと説明します。
相手は未教学部員です。難しい言葉は通用しません。
でも、教学の論点は、決して外す事はしません。ただの茶飲み話になってはいけないからです。
五分も話していたら、相手の眼の色が変わってきます。生き生きとして来るのです。表情も若くなってきます。
短時間では、本当に原則しか伝える事はできませんが、それでもその人の命が変わって来るのが分かるのです。
一緒に対話をしている主人が、注意深くその人を観察して、理解できているかどうか確認をしています。うまく話が伝わっていなかったら、あとで、何が適切でなかったかの反省材料にするためです。
後日、その人が、
「やっと題目の大事さが分かった」
と言っていた、と聞きました。
「だから題目を上げろと言ってたでしょう」
という近所の婦人部の人に対して、その人は言ったそうです。
「だけどアンタ、なぜ題目が必要かは、教えてくれなかったじゃないの」
今、教学を話している男子部も、≪なぜ≫を聞きたいと言います。
彼もまた未教学部員です。難しい表現は通じません。
しかし対話をして行く時、前向きになっていく生命を感じます。
「絶対任用試験に合格する」
今の彼の当面の目標です。
対話。
決してやさしい事ではありません。
でも、人材育成は、対話からしか進まないのです。
ひとたび学会の庭に集った人達を、更に深い信心へと進めていく努力は、少しだけ早く信心を始めた私共の使命なのだと、これからも心して行きたいと決意した次第でした。
いつも拝見しております。男子部のsabuと申します。
テーマとは関係ないですが、
一つ質問があります。
それはヨガや瞑想というのは、謗法になるのか否かということです。教学にお詳しいようなので、ぜひ知りたいのです。
禅はヨガが源流というか、その流れを汲むといいますし。。
たとえば健康増進を目的に、ヨガ教室に通うとします。健康面だけのメリットがほしくて通う場合でも、知らず知らずのうちに、その思想の影響を受けてしまうのでしょうか?
同じく、瞑想とか武道における黙想も、なんだか抵抗があります。瞑想というと、どうしても座禅を連想してしまうからです。
でも目を閉じて、心を落ち着かせること自体は悪いことではないと思います。脳科学的にいうと、瞑想をするとアルファがが出ますし、副交感神経が優位になって血圧を下げる効果もあるようです。
純粋な健康法と、その奥にひそむ思想・・・その線引きが難しいです。
市丸さんや皆さんは、どのようにお考えですか?
謗法の線引きですか。
私が言っても、それは私の個人的見解であって、それがどうした、と言う以上のものはないと思います。
だから、申し訳ありませんが、こうだ、と言う事は、申し上げられません。
自分で線引きが出来ないなら、現場で尋ねられたりして、納得されたらいいと思いますが。
あくまでも、その線引きと言うのは、ご自分で考えられる事だと思います。
すみません、答にはなりませんね。
でも、そうとしか言いようがないと言うのが正直なところです。
>私が言っても、それは私の個人的見解であって、それがどうした、と言う以上のものはないと思います。
市丸さんは「個人的見解」はお持ちなのですね。
そういった「意見」を聴きたいのです。「市丸さんなら、どう考える?」ということです。そうしないと、何も進展しませんから。。
いろいろ意見を述べ合ってこそ、「対話」って成立しますよね?
>自分で線引きが出来ないなら、現場で尋ねられたりして、納得されたらいいと思いますが。
「現場」で聴きづらいからこそ、ここで質問したわけですが。。もし同じ組織にいたとして、そこで私が市丸さんに同じような質問しても、やはり「現場」に聞いて、と返すのでしょうか?
生意気言ってすみません。
しかし、それが正直な感想です。
意見をお持ちなようですから、それをお聞かせ願えれば幸いです。そうしないと対話が先に進みませんので。
それだけです。
その線引きは、現場で聞けないのだったら、自分で付けるしかないのではありませんか?
もしもあなたが、私の所属する組織にいるのだとしたら、言葉で納得するまで語り合いましょう。
それでも最後の結論を出すのはあなた自身ですよ。
それはお分かりでしょう。
現場で聞けない、と言うのは、ちょっと分かりませんね。
現場で聞けない事は、ネットで聞いても一緒ではないですか?
私は信心の基本を、現場においています。
また、基本的な事は、学会の見解に従っています。
ただ、私自身は昭和30年代に学会に縁しましたから、謗法に対しては、今の感覚からしたら、厳しい方かもしれない、と言う事だけは言えるのではないかと思います。
どうお尋ねになっても、ネットで答えられるのは、この程度です。
ごめんなさいね。
要は「私にはわからない」ということですよね。
別の人に訊いてみることにします。
ありがとうございました。
さようなら。。
謗法、と言うキーワードを持って来て、何を言いたかったのでしょうか?
ネットは文字の世界です。
文字の怖さは、読み手によって勝手に解釈され、尾ひれを付けて独り歩きをしてしまう事でしょうか。
ましてや、最初から答ありきの問い合わせは、
「お前には難しかったようだな、アバヨ」
で終るようです。
謗法=『誹謗正法』
これで答えが出ないようなら、やはりもっと現場で訓練を受けた方が良いでしょうね。
健闘を祈ります。
帰命しなければ、たとえ神社の鳥居をくぐったり、他宗の葬儀に参列したり、祭りで神輿を担いだり、ゴスペルを唄ったりしても、謗法にはならないのではないでしょうか。
ブログ主様、過去のブログ拝見させていただいております。
素晴らしい実践をされてる方のブログに出会え良かったと思っております。
今後のブログ更新を楽しみにさせていただいております。
素晴らしいブログを発見して嬉しく思います。
今後の更新を心待ちにしています☆
どうかよろしくお願いいたします^^