市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

臨終正念

2008-03-19 07:33:29 | Weblog
 宿業に絡んで、コメントで臨終のことが話題になっているので、緊急的にアップします。

 宗教は、どういう教えを基にしているにせよ、人の生死を扱っているものです。
 その宗教の生死観が、そのままその宗教の主眼になっている、と言えるかもしれません。

 生死を、本にたとえた話を聞いたことがあります。
 キリスト教などでは、一生を「一冊の本」ととるそうです。読み終わって、本を閉じれば、それですべてが終わり。死を以って生命の終わり、とする教えです。
 対して、仏教では、厚い本の一ページを一生ととらえる、というのです。今世が終わっても、それは次の生への出発であって、生命は永遠に続いて行く、というのです。

 一生をどうとるかで、人生のとらえ方そのものが変わる、と言えるかもしれません。

 ここでは、その生死観を含め、宿命をどうとらえるか、今を、どう生きていけばいいのか、そんな問題を自由に議論していただければ、と思っています。 

 よろしくお願いいたします。

退転自慢の者たち

2008-03-18 07:26:40 | Weblog
 ここに参加してくださっている方もご存じの、宗門の掲示板に、頻繁に書き込みしている法華講の〇〇ちゃんなる人物は、自分で昭和52年の退転だ、と言っています。

 昭和52年に学会を辞め、宗門につくことが、どんなことか、学会員として、どういうことか、当時幹部だったというのなら、よくその意味が分かっているはずです。

 第一次宗門問題。

 どこから出てきたのか、気がつけば、末寺の僧侶の中に、明らかに学会に敵愾心を持つ者たちが出て来ていました。
 いつも行っていた古刹の寺院。
 住職は戦後、檀徒の人たちに、
 「大聖人の仏法を学びたかったら、法華講ではだめだ、創価学会に入れてもらって、そこで学びなさい。学会に大聖人の信心がある」
 そう言って、創価学会への入会を勧め、自らも僧俗和合に尽力された人でした。

 そんな住職のいる寺でさえ、若手の僧侶の中に、学会差別の態度が出てきたのです。

 宗門側の言う52年路線は、山崎某という、稀代の詐欺師が、親の七光りで教学部長にまでなった原島某を利用して、学会の足並みを乱し、学会員を完全に宗門の支配下において、その宗門も手玉にとり、一千万信徒団体を完全に牛耳ろう、とたくらんだ時であり、利用されているとも気付かず、一部若手僧侶が暴走を始めた時、と私は解釈しています。
 
 その、混乱のさなかに退転した法華講の〇〇ちゃんは、52年当時、女子部の幹部だった、と言っています。自己申告だから、正確なところはわかりませんが、そうだとしたら、ずいぶん腹黒い女子部がいたものです。
 家族と一緒に退転したのか、自分が先頭切って退転の狼煙を上げたのか、それはどちらでも構わないのです。ただ、学会が窮地に追い込まれるかもしれない、となった時、真っ先に学会を見限って、攻撃側に回った、この事実だけは、もう消しようはないのですから。

 あの、第一次宗門問題の時に退転できた者たちの特徴を言えば、次のどれかに当てはまるように思います。

 その一、題目をあげるより、活動で目立ちたがりだった。
 その二、役職への執着が強く、幹部になりたかった。
 その三、自分の意見が通らないと、腹が立って、怨嫉ばかり起こしていた。
 その四、金銭問題を起こしやすかった。
 その五、異性関係にだらしなかった。
 その六、願った通りの結果が出なかったことで、信心の意味が分からなくなった。

 その後の退転者にも共通することなのでしょうが、要するに、我見が強く、わがまま信心で、境涯が低かった、と言うことでょうか。
 別な角度からいえば、学会という、きわめて自由な組織にさえもいられなくなるほどの、鼻つまみ者だったと言えるかもしれません。
 確かに、第一次宗門問題の時だけでなく、第二次宗門問題の時や、その他何も関係ない時に退転した人のことを考えると、その人の周辺では、何か居心地の悪さを感じたことは確かなのです。

 法華講の〇〇ちゃんの書き込みは一貫しています。
 池田家の墓が大石寺にあるのをどう思うか。そして、「早く学会を辞めて法華講へ来ませ」
 
 なぜこうまで学会員に対して「法華講へ来ませ」と言い続けなければならないのでしょうか。そこには、本人にも分からない、退転への後悔があって、誰でも良い、自分の行為を正しいと言ってくれる人が現れるのを待っているのではないのでしょうか。
 絶対に本人は否定するでしょうが、私にはそう感じられてならないのです。無意識の奥の、その奥をのぞいてみたら、どす黒いまでの後悔が、渦巻いているのではないか、と。

 そして、あの板での法華講の方の書き込みを見るたびに、こう思うのです。

 学会員であってよかった。
 あの、波状攻撃のように押し寄せた、創価学会総体への難に巻き込まれず、創価学会員であり通して良かった、と。

 『いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給うべし、日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。 (諸法実相抄 1360頁)』