市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

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やってて良かった仏敵破折

2013-08-29 09:12:56 | Weblog
 当ブログを、一冊の本としてまとめてさせて頂いた話は、前回書きました。今回はその後日談です。

 先日福岡の文化会館から電話があって、先生からの伝言があります、との事でした。本を発送して3日目、まさかの連絡です。
 伝言の内容は『ありがとうございます。くれぐれもよろしくお伝えください』との事でした。

 実は郵便局から本を送ったのが19日だったのですが、その日に配達された『創価新報』に、昭和54年4月24日の事が載っていたのです。
 『忘れまじ4・24』
 本の中には「忘れまじ四月二十四日」と言う、丸かぶりのタイトルの記事がありました。しかもその中には、元九州の最高幹部の不用意な発言に依って、先生が勇退に追い込まれた、と言う記述もありました。
  
 八月は先生の入会の月です。そして始めて先生から、支部にメッセージを頂いた時でもあります。(昭和六十一年)
 僭越ながら、私たちにとっても記念の月です。
 その意義を込め、本の日付は「平成二十五年八月 日」とさせていただきました。

 実を言うと、『忘れまじ四月二十四日』の記事を書いたのは、ある内部アンチが、先生の勇退の時のお歌を引用して、自分の飾りに使った事への怒りが引き金だったのです。あまりにも先生を冒涜しながら先生を利用するその内部アンチに対して、その汚い手で、先生の命に触るな! との思いだけでした。
 その内部アンチは、昭和五十四年、先生の勇退の時に、あろうことか先生を疑って、生命次元で退転しながら、何故か名前だけは、未だに組織に残している、という筋金入りの獅子身中の虫です。
 しかも、頑張っている学会員に対して、「お前は退転者だ、似非創価だ」と逆宣伝をしてはばからない、あまりにも厚顔無恥な輩だったのです。

 今回本にする段階で、ブログではイニシャルにしていた名前の部分も、すべて本名に代えさせて頂きました。当然退転幹部の名前も、イニシャルではありません。
 弟子のひとりとして、長い信仰歴の中での思いの一部を、確かに師匠に届ける事が出来た、と言う事で今年の八月は、さらに特別なものとなったと思います。

 それにしても、やってて良かった仏敵破折。
 会員を苦しめた輩の事を、これからも語り続けていく事が、やはり少しだけ早く学会に縁した私の使命なのだ、と改めて決意した次第です。
 その思いも込めて、本のタイトルを『人として 語り部として』としたのですから。 
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夢叶う

2013-08-07 13:28:20 | Weblog
 『大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。(祈祷抄 1351頁)』

 中学二年で受けた任用試験の時の御書です。
 あの時、あんなに必死で暗記したのに、今見てみると、たったこれだけの範囲だったのだな、と何か不思議な気がします。
 どんな願いも叶うのが、この信心なんだ、どんな願いを持っても良いんだ、それが広宣流布に直結するものであれば、とその時教わりました。

 あれからどれだけの時を重ねたでしょう。今、ほとんど不可能だ、と思っていた夢が、一つ叶いました。

 私は子供の時、今は状況緘黙児と呼ばれる、心の病を持っていました。家では普通にしているのに、一歩外に出ると何もできない、と言うより、全く心が動かなくなってしまう病気です。当然普通に喋ることなど出来ませんでした。それが大きな戦いが連続する中で、奇跡的に全快。今では私がうつだった、と言っても、誰にも分かりません。
 
 うつ病だったからと言って、私は表現者でありたかったのかもしれません。必死で自分の思いを伝える手段を求めていました。その手段の一つが文章だったのです。
 若い頃は、新聞投稿を中心に、いくつか掲載されました。
 その頃から、いつか一冊ぐらいは本を出したい、と思っていました。しかし自費出版をするほどの財力は有りません。ネットを始めてブログを持つ事でも、自分の表現を満足させるには、ある意味十分な所がありました。

 ところが、最近になって、ブログを本にしてみないか、という話があったのです。ブログの中からこれと思うものを選び、編集し、三百ページ以内にまとめられるなら、本にしてあげる、と言ってくださった方が現れたのです。
 ありがたい話でしたので、すぐにお受けしたものの、そしてすでに記事は有るものの、出来上がりを考えると、さてどうしたものか、とブログを眺め、考える日が続きました。ようやく目次を拾い出し、編集作業に入って、それから推敲して、相手方に原稿の形にして送れたのが、七月の半ばでした。

 その後、幾人もの人が、校正に携わってくださり、一冊の本として完成を見ました。
 二五一頁、紺表紙の本です。

 この本の後半は、第一次宗門問題と、仏敵破折が中心となっています。それが、本のタイトルとして使った「語り部」と言う言葉の意味でもあるのです。
 第一次宗門問題の発火点となったのは、九州の寺でした。その九州に住み、第一次宗門問題を、女子部の副部長として経験した者として、語り継いでいく義務がある、との発想から、一番力を入れたジャンルでもありました。

 ただ、今回の話を頂けた事も、私たち夫婦の宿命転換があってのことだったのか、とも思っています。とにかくここ数年、必死の祈りの連続でした。そして、大きく生命が変わった、と実感できた後に、まず生活に変化があり、この話をいただいたのです。
 ああ、宿命転換、境涯革命とは、こんな事を言うのか、と主人とも話していた中で、もう五十年にもなる「本を出せたら良いな」との願いも叶ったのです。

 功徳とは、冥益とは、こんな風にして訪れる物なのか、と今静かにその実感をかみしめています。まず自身が変わって、依正共に変わって、その変革できた功徳に、現実の形として表れて来る功徳、これが冥益なのだと。

 そして、具体的な形になるために、多くの方が尽力してくださいました。心から感謝いたします。

 それにしても、仏敵破折、続けてきて良かった、と心から思います。

 本当に、皆様、ありがとうございました。
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副をはずせば

2013-07-07 16:49:51 | Weblog
 御丁寧に、Fの、いわゆる大牟田発言について、その会合の名称を紹介してくださった方がいました。

「福岡県大牟田市で行われた臨時壮年部指導幹部会に於いて」
 
 当時Fは九州長。
 自分で九州内のどこで会合を持つかを決める権限ぐらいは有ったはずです。
 大牟田市は福岡県の筑後地区と呼ばれる地域でも外れの都市。熊本県との県境の町で、生活圏は福岡県よりもむしろ熊本県の北部と一緒です。
 昔は炭鉱の町として栄え、「月が出た出た月が出た」でおなじみの三池炭鉱のあった地域です。今でも隣の荒尾市には、万田抗として、その遺跡が残っていますが、今は昔の繁栄の面影はなく、地方都市そのままの町です。

 筑後地区の会合に、福岡地区や北九州地区、筑豊地区の者は参加しません。さらに、筑後地区の中心は、大牟田市ではありません。ずっと北部の久留米市です。さらに、九州創価学会発祥の地というなら、八女市になります。
 もしそれが重要な会合だとしたら、大牟田市とは、きわめて特殊な場所を選んだものだと思います。おそらくここに集まって来られるのは、福岡県南部の、さらに一部だろうと想像がつくからです。

 そこで九州長のFは、宗門批判をぶち上げます。

 昭和五十四年。
 五十二年路線に始まる宗門との微妙な時期、学会としては必死で僧俗和合を守っていた時。
 なぜこの時を選んで、Fは福岡県のはずれで、臨時に壮年部を集めて、宗門批判をしなければならなかったのでしょうか。

 当時、御講などであからさまに学会批判をする坊主はいました。週刊誌を教材に、先生の悪口を喚き立てる坊主もいました。宗門は、学会の失態を、当然狙っていました。その一触触発の中での九州の最高幹部の感情任せの、不用意な発言。

 これを、Fの計算ずくの発言だった、と考えたらどうでしょうか。
 Fが、自分の発言を、先生の失態として宗門に影響を与える、と考えていたとしたら。

 Fには、これ以上は無い、というほどの不遜な発言があります。

 「俺は今は副会長だが、俺から副を取ったらどうなると思っているんだ(趣意)」

 そしてこのFの大牟田発言の後、一切の責任を取って、先生は会長を辞任する事になりました。さらに、聖教新聞から先生が消えました。

 しかし、広宣流布に命を賭けた先生の動きは、いかなる魔も封じる事が出来ず、広布の旗は、更に強く打ち振られる事になるのです。

 一方、「俺から副を取ったらどうなるか」と豪語していたFは、望み通り「副」が取れ、ただの人になってしまいました。その後幾度も先生からチャンスを与えられたにもかかわらず、宗門へ走って、自分が副会長時代に吹きまくっていた法螺を基に、先生と学会への攻撃を始めたのです。その法螺の数々は、今でも学会攻撃の時に出て来るほどです。

 九州の同志は、何度もFが出席する会合に参加しました。その中で、誰にも言えない嫌な思いをした人もいます。そんな人たちは今でも、Fの事を破折し続けています。
 学会を辞めて行った者から、酷い言葉を投げかけられた人もいます。それでも、必死で学会を守り通した先輩達がいるのです。

 第一次宗門問題と言われた歴史の、重要な場面を担ったFの、発言と還着於本人の顛末、と言う事でしょうか。

以上は、あの異常事態を思い出しての、私の感想です。
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五百塵点劫

2013-06-09 09:28:07 | Weblog
 『此の四菩薩こそ五百塵点劫より已来教主釈尊の御弟子として初発心より又他仏につかずして二門をもふまざる人人なりと見えて候。(呵責謗法滅罪抄 1128頁 )』

 「五百塵点劫」と検索すると、十六か所ヒットしました。
 御書全編拝読していた時、もっと多いような気がしていたのは、この言葉の持つインパクトだったのでしょうか。

 二十代の時の教授昇格試験の勉強会の時の担当者の言葉が、本気で五百塵点劫、と言う事を考え始めた時だったようにも思います。(上級試験ではありません、その前の教授昇格試験です)
 
 教えてくれたのは、中学生の頃から知っている壮年部の人でした。
 十名ほどの勉強会。その中で私は最年少。ほとんどが壮年部・婦人部の幹部でした。
 担当した人も、前回の試験で教授になったばかりで、かなり教える事に苦労していたのではないか、と思われました。その真剣さに、こちらも引っ張られて勉強したようなものです。
 でも、初めての『御義口伝』
 理解が付いていきません。

 母はその時教授昇格試験二回目で、私より理解が進んでいました。
 「ここはどう解釈するのですか?」
 なんて事を平気で質問しているのです。
 担当者の正面に座っていた私に、担当の人は必然的に答を言う形になります。
 「どう? 分かった?」
 聞かれて私が言った事は「質問が分かりません」でした。我ながら情けない勉強会でしたが、当時まだ二十五~六歳、今考えても、苦笑いとともに、仕方なかったよね、と言う思いが浮かびます。

 その中で、担当者が自分の受験の時の体験を話しだしたのです。
 五百塵点劫とは、と言う事でした。

 五百塵点劫が分からず、なんとしても分かりたい、との思いで、勉強しては題目。題目を上げてはまた教材と取り組む、と言う事を繰り返したそうです。
 そんな事を何回繰り返したのかも分からないほどになった時、突然これだ、という思いに至ったそうです。
 
 「不思議だよね、それまで分からなかった御文が、すらすら読めるようになったから」
 
 私は当然その時、五百塵点劫とはこうでこうで、と説明がある者と思って、身構えました。
 ところが、「分かった」と言う言葉以上の説明は全くないまま、次の段階へ進んで行ったのです。
 正直、肩透かしを食ったみたいでした。

 と同時に、この人に理解できたことだから、自分も分かりたい、と猛烈に思いました。

 その後どれぐらいたった頃でしょうか、突然私にもそれが理解できる時が訪れました。
 ああ、これか、と思いました。
 
 その後、数回の御書全編拝読と相まって、教学は日常の道理となりました。
 全く難解ではなくなったのです。

 そして今、あの時、自分の知った五百塵点劫を、具体的に語らなかった担当者の気持ちも分かります。語らなかった事が親切だった事も分かります。
 試験のためだったら、教科書通りを、とりあえずは覚えて、戦い、祈るなかで知って行け、と言う事だったのです。

 ほとんどの人が、自分の悟りの形を語る事はないでしょう。
 しかし分かっている人は多いだろうし、分かった人同士だったら、おそらくすぐに分かりあえるでしょう。
 そこに、無駄口や詭弁などは、入り込む余地はないのです。
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師弟一体

2013-05-19 16:47:47 | Weblog
 ネットで、獅子身中の虫の総大将を気取っているO氏は、時々まともな事を言っているようです。
 それが
 「池田先生が~~~!! と大上段に振りかぶっている幹部は、信用ならない」
 と言う事です。

 確かに会合等で、訳も分からず先生が~~! とまくし立てる幹部は、どこかしらける時もあります。皆そんな事は分かっているから、あんた自身の言葉で、もっと冷静に先生を語れよ、と言いたくなるのです。
 誰だって、先生の事は知りたいし、先生の話が出ると、背筋が伸びるのも確かです。
だけど、決して信仰は、師匠の追っかけではないし、大きな会合で、中心を務める幹部だったら、もっと自分の言葉を持っているだろう、と思ってしまうのです。

 こんな変な事を言うのも、昔、O氏が言っている、「先生が~~~!!」のそのままの幹部がいたからです。

 北九州の、ある外部の大きな会場を借りての総会。
 その日は先生が来られる予定になっていました。しかし事前に幹部の人には連絡が入っていたみたいで、私の斜め前の席にいた壮年部の人が、小さな声で言いました。
 「今日、先生は来られないよ。東京を動けない事情ができたらしい」
 それが、先生のお母さまが亡くなったと言う事だったのです。

 その日の最高幹部として登壇したのは、福島九州長(当時)でした。
 福島は、まるで自分の身内が亡くなったかのように、嘆き悲しんで、先生が~~~!! 先生のお母さまが~~!! とぶちあげます。
 もっとも、先生の事を話す時、涙を流さんばかりに「先生、御尊敬申し上げています!!」と言っていたので、それも特別ではなかったのでしようが、その後先生の名代として参加された、まだ当時2~30代だった池田副理事長の冷静な対応と、あまりに際立っていたのが、印象的でした。

 その後、福島は、あきれたスタンドプレーで学会を離脱。先生の敵にまわってしまうのです。
 九州の至る所に痕跡を残し、至る所で先生を叫びながら、先生が最も大切にされていた同志を裏切り、師匠を追い落とすきっかけを作った福島源次郎、
 さらに宗門と結託して、最後まで学会に迷惑をかけた獅子身中の虫を、絶対に許してはならないのだと、何度も何度も確認している次第です。

 そして、あくまでも福島と師弟一体を貫くOさん。どちらを向くにしても、いい加減立場をはっきりしたらいかがですか?
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忘れまじ4月24日

2013-05-13 10:51:17 | Weblog
  あまりにも
  悔しき この日を忘れまじ 
  
  夕闇せまりて
  一人 歩むを



 勇退後の先生のお歌です。

 あの、突然の勇退報道の、どれぐらい前だったでしょうか、こんな事を聞きました。

 「九州長が寺の坊主の事を批判したそうだ。夜な夜な鬘かぶって、赤いスポーツカーで、繁華街へ繰り出している、とか何とか」
 
 私達が所属していた寺院の住職は、まだまともな様子だったので、へー、そんなのもいるの、ぐらいの感想しか、その時は持ちませんでした。

 しかしその、当時の九州長Fの発言は、やがて大問題となり、本性を表した宗門は、待ってましたとばかり創価学会切り崩しにかかって来たのです。
 
 理不尽ではあっても、攻撃一方の宗門は勢いがありました。
 対して、創価学会の会長として、池田先生は僧俗和合を、懸命に守ろうとしていた時期です。
 あまりにも形成は不利でした。

 そして、池田先生の会長勇退、名誉会長就任、第四代会長に北条氏が就きます。
 
 池田先生が会長を勇退される、などと、誰も考えてはいませんでした。

 平成十六年四月二十一日の随筆「人間世紀の光」には、その時の心情をつづられた一文があります。先生は、九州の同志の事を、こんなにも深く理解してくださっていたのか、と感動と感謝の念でいっぱいになる随筆です。
 その一節を紹介します。


 ひたすら広宣流布に奮闘してきた、健気にして真面目な同志が、どけほど、いじめられ、裏切られ、苦しめられた事か!
 共に頑張ろうと手を取り合った翌日に、同じ相手が、恩深き学会に対して、悪口雑言の限りを尽くして去っていった。畜生の如き裏切りの罵倒に対して、その無念さは、血の涙が出るほどであった。
 「断じて、これらの悪を打倒して見せる」と、決意を固めた。
 この宗門事件の渦中、私が会長辞任に至ったのも、九州を担当していた見栄っ張りの最高幹部の不用意な発言が、直接の引き金となった。

       ―――『完勝の旗 先駆の九州』221ページより引用―――


 今、先生の勇退の日を知らない人達も多くなってきました。
 そんな人たちに、あの時の悔しさ辛さを、語り継いでいくのは、私達の使命、と痛感すせずにはいられません。
 そして、幹部と言うその立場を利用して、多くの学会員を苦しめた輩のことも、語り継いでいく使命があるのだ、と。

 春から初夏。
 この、一斉に華やぎ、生命の伸びゆく季節に、色彩を失い、吹き荒れるブリザードに飲み込まれるような日々を送った時があった。

 昭和五十四年四月二十四日。

 未来永劫、忘れてはいけないのだ、と改めて思います。
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対話

2013-02-22 09:44:01 | Weblog
 過日、入会十数年の、七十年配の婦人と話す機会がありました。
 彼女は大変な働き者で、必死に頑張って今日を迎えられたのですが、その人生は、決して幸せと言えるものではありませんでした。
 具体的な内容は割愛いたしますが、まず的確な指導を聞く機会がなかったようで、題目がなぜ必要なのかさえ分かっていない状況だったのです。

 「働かなければならなかった」
  暗いうちから、食事もそこそこに、努力して努力して、たどり着いた孤独な生活。
 何をどう伝えたら、この人が希望を持って明日へ向かえるのか。もう本人に向かい合っているのです。考える暇はありません。 

 「大変なのは、お互いですよ」
 対話はそこから始まります。

 実は私達夫婦には、信心して行く上で、とても強い味方があります。
 それは、様々な不幸を経験して来た、と言う事です。
 身の病は言うに及ばず、心の病、家庭不和、貧乏に失業。
 そのどれをも、題目一本で乗り越えるしかない現実。

 大変だ、と思った事はあります。
 もう駄目だ、と思った事も数知れません。
 
 しかし、そのたびに、ここまでて来て、後戻りはできない、とまた仏壇の前に座る日々。
 策も努力も信念も、宿命の前には何の役にも立ちません。
 
 その日々の中で、身で読む事のできた御文があります。

 『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。(兄弟抄 1087頁)』

 三十数年前、上級試験の面接。
 「『兄弟抄』には何が書いてありますか?」との問いに、その御文として答えた一節でした。
 
 「最近つくづく思うんですよ、題目は嘘つかないって」
 そして、なぜ題目が必要なのか、易しい言葉で、ゆっくりと説明します。
 相手は未教学部員です。難しい言葉は通用しません。
 でも、教学の論点は、決して外す事はしません。ただの茶飲み話になってはいけないからです。

 五分も話していたら、相手の眼の色が変わってきます。生き生きとして来るのです。表情も若くなってきます。 
 短時間では、本当に原則しか伝える事はできませんが、それでもその人の命が変わって来るのが分かるのです。
 一緒に対話をしている主人が、注意深くその人を観察して、理解できているかどうか確認をしています。うまく話が伝わっていなかったら、あとで、何が適切でなかったかの反省材料にするためです。

 後日、その人が、
 「やっと題目の大事さが分かった」
 と言っていた、と聞きました。
 「だから題目を上げろと言ってたでしょう」
 という近所の婦人部の人に対して、その人は言ったそうです。
 「だけどアンタ、なぜ題目が必要かは、教えてくれなかったじゃないの」

 今、教学を話している男子部も、≪なぜ≫を聞きたいと言います。
 彼もまた未教学部員です。難しい表現は通じません。
 しかし対話をして行く時、前向きになっていく生命を感じます。

 「絶対任用試験に合格する」
 今の彼の当面の目標です。

 対話。
 
 決してやさしい事ではありません。
 でも、人材育成は、対話からしか進まないのです。

 ひとたび学会の庭に集った人達を、更に深い信心へと進めていく努力は、少しだけ早く信心を始めた私共の使命なのだと、これからも心して行きたいと決意した次第でした。
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切り文

2013-01-24 10:08:58 | Weblog
 某掲示板で、あたかも「すべての爾前・権教は法華経に通ず」と、大聖人の御文にあるかのような書き込みがありました。御書全集377ページの冒頭から九行までの、長い引用です。
 これだけ長く引用すれば、得意の切り文とは言われまい、という魂胆が見え見えの書き込みですが、実はこれがものすごい、誤解をさせたい切り文の典型なのです。

 某掲示板では、あえて切り捨てた、次下の文を引用し、書き込み主さんが、如何に衆生を惑わそうとしていたかの証明にしたいと思います。

  
 『今云う此の義は、与えて云う時はさも有る可きかと覚れども、奪つて云う時は随分堕地獄の義にて有るなり。
 其の故は、縦ひ一人、此くの如く意得、何れをも持ち唱るとても、万人、此の心根を得ざる時は、只例の偏見偏情にて、持ち唱えれば、一人成仏するとも、万人は皆地獄に堕す可き邪見の悪義なり。
 爾前に立てる所の法門の名言と、其の法門の内に談ずる所の道理の所詮とは、皆是偏見偏情によりて、入邪見稠林(ちゅうりん)若有若無等の権教なり。
 然れば此等の名言を以て持ち唱へ、此等の所詮の理を観ずれば、偏に心得たるも心得ざるも、皆大地獄に堕つべし。心得たりとて唱へ持ちたらん者は、牛蹄に大海を納めたる者の如し。是僻見の者なり。何ぞ三悪道を免がれん。
 又心得ざる者の唱へ持たんは、本迷惑の者なれば、邪見・権教の執心によつて無間大城に入らん事疑い無き者なり。
 開会の後も麤教(そきょう)とて嫌い捨てし悪法をば、名言をも其の所詮の極理をも唱へ持つて交ゆべからずと見えて候。
 弘決に云く「相待絶待倶に須く悪を離るべし。円に著する尚悪なり況や復余をや」云云、(諸宗問答抄 377頁)(読みやすいように、句読点、改行を加えました)』

 
 通解の必要もないでしょう。
 それをかの書き込み主さんは、この破折の文をごっそり抜いて、あたかも爾前・権教も法華経に等し、の文証にしようとしたのです。
 昔懐かし映画評論家の言葉を借りれば、
 「恐ろしいですねぇ、こわいですねぇ、卑怯ですねぇ、姑息ですねぇ。
 ハイ、こんな我見に騙されないようにしたいですね」
 とでもなりますか。

 鎌倉時代、確かに「真言や念仏等をやったとしても、仏教を修行すると言う心は一つだから、法華経を修行するのと一緒ではないか」という思想があったような記述もありますが、それも大聖人はきっぱりと否定、破折されています。

 上記の、某掲示板の書き込み主さんは、必死になって大聖人を否定したいのだと思いますが、図らずも御書に暗いと言う事を自ら告白されただけのようです。

 ああそうそう、昔、友人が折伏していた人物に、御書を一生懸命勉強して「宗教家になりたい」と言っているのがいました。「教祖になりたいんだ」との事でしたが、御書を我見で読んでしまうと、やはり行きつく先は、そうなってしまうのでしょうか。
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念仏無間

2012-08-07 08:13:52 | Weblog
 『念仏は無間地獄の業因なり、法華経は成仏得道の直路なり。
 早く浄土宗を捨て、法華経を持ち、生死を離れ菩提を得可き事、法華経第二譬喩品に云く「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん、一劫を具足して劫尽きなば更生れん、是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。(念仏無間地獄抄 97頁)』(読みやすいように句読点。改行を加えました)

 念仏は、権力側の施策として、一般民衆に浸透させた、と言もわれます。生命力や抵抗力を奪う念仏は、権力者にとって、操りやすい民衆を作るから、という理屈からかもしれません。
 確かに念仏は、諦めを説きます。この世は穢土だから諦めなさい、死んだら西方十万億土と言う所に行けますよ、それを楽しみにするのです。というのが念仏思想です。
 
 元々宗教とは、、一たび信じたら疑問を持たないように出来ていますから、一般民衆が諦めの思想を信じ、何とかしようなどとと思わない様になっていく念仏思想=浄土思想は、権力者側には非常に都合が良かったものと思われます。
 さらに言えば、念仏は向上心を奪います。結果、どんなに努力しても報われない、ドツボ人生まっしぐら、となってしまうのです。

 ここで、私の知っている、元念仏信者だった人の体験を見てみたい思います。

 Aさん。
 若い頃から努力と信念は人一倍。継いだ家業を飛躍的に開き、その道の革命児、と言われるほどの実績を上げました。事実、その人の開いた道は、今もその業界の中心的な方向になっています。
 ところがその道を開いた当人は認められないばかりか、存在すらも忘れられ、ドツボ人生まっしぐら、なのです。ネット風にいえば、その世界から一発削除、という事でしょうか。

 Bさん。
 信仰心の篤さは人一倍。家では念仏三昧、月まいりでは真言まっしぐら。念仏信者では良くあるパターンの人でした。
 その結果、一家は悲惨と言うしかないほどの状態に陥ってしまったりです。こんな所にいたのでは、自分は駄目になると考えた長男は、仕事を理由に家を離れ、妻と娘は病気で入退院を繰り返しました。
 手広く農業をやっていたその人は、家の仕事と農業の一切を、一人でこなす羽目になってしまい、全く休む間がなくなってしまいました。
 それでも、病気の妻と娘のために、念仏の信仰を途切れさせる事はなかったのです。
 「何故そうなってまで念仏を続けたのですか?」
 尋ねた私にその人は言いました。
 「それが当たり前だと、諦めていた」

 禅や真言もミックスされており、そうなったのが念仏だけとは言いませんが、これが念仏中心でやって来た人の末路なのです。

 
 鎌倉時代、念仏の哀音の響きは人を不幸にする、として追放の宣旨を受けていますが、どっこい、しぶとく生き延びて、今も悲惨な人を作り続けているのです。いったん成立した宗教とは、正邪に依らず、生き続けていくものであり、それが間違っていたら、不幸な人を作り続けていくものなのです。

 現代は基本的人権によって、信教の自由は保障されていますから、何を信じようとその人の勝手ですが。
 だからこそ、宗教の正邪を見抜く知恵が大事になるのでしょうが、これが難しいのです。

 ただ、これだけは言えるようです。
 念仏をやった人は、非常に題目を唱えるのが困難である、と。

 そして――どんなに強信者であっても、その宗教で成仏は可能ですか?
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ネットに拾った奇妙な教義

2012-06-07 07:46:47 | Weblog
 その弐、とでもしておきますか。

 前回は六界論と言う、本来は仏法にはない教義でしたが、今回は、これも御書はおろか仏法にはない「同苦の念仏」と言う教義です。
 この教義の提唱者が、高等仏法を知らない人であるのだったら、何も反論する必要はありません、ただ「《無知》だったんだ!」で終わりです。しかしどうもそうではなく、いっぱしの学問をやった人のようなので、少し破折いたしたいと思います。

 そもそも念仏とはいかなる宗教なのか。
 念仏と言う、厭世思想に、同苦、つまり他人に寄り添うだけの生命があるものか、そこから考える必要があるのではないでしょうか。
 さらに、同苦と言う感情を持ち、その行動を取る、という事が、どう言う境涯を必要とするのかも考える必要があるでしょう。

 《同苦》とは、その文字が示す通り、他人の苦しみと同じ思いに至り、そこに止まらず、相手を自らと同じ境涯に引き上げていく行為です。自らが低い境涯に止まっていては、絶対に不可能な事だと言えるでしょう。
 「この世は苦しみに満ちた世界であるから、諦めなさい。死ねば西方十万億土と言う世界で、阿弥陀様が待っておられます。それを信じなさい」
 これが念仏の思想です。
 これを信じたならば、一刻も早く阿弥陀様の待つ西方極楽世界に行きたくなるのが当然ではないでしょうか。
 念仏で同苦したなら、共にあの世へ旅立ちましょう、となってしまわないか、と言いたくなりませんか?

 おそらくですが「同苦の念仏」などと言うふざけた教義を発信なさった方は、念仏をやった事がないのだと思います。
 多くの日本人が、創価学会にたどりつく前は念仏でした。念仏で日頃を過ごし、何か困った事があれば真言の祈祷を受けに行く、それが標準の宗教観だったはずです。

 家の宗教が念仏なのに、なぜ、事あれば真言の祈祷師の所へ行くのか。
 二十代半ばまで、そのような暮らしをして来た主人は言います。
 「念仏では駄目なんだ」
 念仏の家に生まれたから、とりあえずの宗教は念仏だったと言っても信仰気はなく、親に言われ、しぶしぶ盆と正月ぐらいは仏壇の前に座っていただけでも、やはり念仏の害毒は命に食い込んでいた、と知ったのは、創価学会に入り、本格的な宿命転換の闘いを始めてからだった、と言います。
 主人は、まれに見る精神力の持ち主です。その主人をしても、念仏は命を食い破って、本来の輝きを曇らせていた、というのです。
 
 念仏は、一切の命の活動を制止して行きます。
 見ざる、言わざる、聞かざる。
 長いものには巻かれろ。
 出る杭は打たれる。
 寄らば大樹の陰。

 念仏は、絶対に成仏が叶わない宗教と言えるでしょう。
 もっと言えば、間違いなく無間地獄が確定している宗教なのです。

 大聖人は、この、生命破壊の宗教を徹底的に破折されます。もっとも有名な一節としては『立正安国論』の次の文を上げる事が出来るでしょう。

 『如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。(立正安国論 24頁)』

 念仏の肯定は、大聖人を否定する事に他ならないのです。

 利口そうに「同苦の念仏」などと言って、宗教だったら心がけひとつで、正しくもなる、みたいな言い方は、人を惑わす悪鬼のささやきにしか思えません。
 ゆめゆめ、こんな邪義には惑わされる事のないように、御書を心肝に染めて、あくまでも大聖人の仏法の信者らしくいきたいものです。
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