市丸の雑記帳

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『日如御前御返事』に学ぶ

2009-03-26 14:19:31 | Weblog
 『此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等衆生の、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる、胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり。之に依つて曼陀羅とは申すなり。
 曼陀羅と云うは天竺の名なり、此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり。
 此の御本尊も、只信心の二字にをさまれり、以信得入とは是なり。(日女御前御返事 1244頁』
 (読みやすいように、句読点、改行を加えました)


 私たちが信心をして、仏界を涌現するために大事な事が書いてある御文だ、と思います。しかもポイントは、たった一つしかありません。
 『法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる』と言う事です。

 大聖人は『法華経』と言う語を多用されます。1600ページ余りの御書の中に、実に1789か所もあるのです。
 そしてこの『法華経』と言う言葉は、実に様々な形で用いられているようです。
 たとえば、文字通り釈迦の法華経を指す場合。
 たとえば、大聖人の仏法を指す場合。
 たとえば、御本尊を当時の人に理解させるために使う場合。
 御書の拝読をしていて『法華経』と出て来た場合には、それが何を指して使われているのか、間違えずに読み解くことが、とても大事な事になるように思います。

 と言う事で、冒頭の文ですが、ここでは、間違いなく『御本尊』を指していると解釈できます。
 一切衆生には、仏界と言う尊極の生命が、確かに存在している。その仏界を涌現させることが、信心して行く上で、最も大事なことである。
 ではそのために、どうすればいいのか。
 その方法を、端的に表したものが、冒頭の御文ではないかと思います。
 
 自身の仏界を涌現させるのは、実に簡単な事なのです。
 『法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる』だけでいいのです。
 『法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる』時、己心中の仏界が、呼び呼ばれて現れて来るのです。

 そこで、冒頭の文を読み返してみると、その意味が分かってきます。
 一切衆生、では漠然としていますので、私を例にとって話せば分かりやすいでしょうか。
 私と言う個人が、創価学会に入って、大聖人御図顕の御本尊に向かって題目を唱えます。
 御本尊は十界を現しています。そして私の生命にも十界があります。
 御本尊は、仏界の中に十界を収めています。
 私の生命は十界の中に仏界も収まっているのです。
 この私の中にも収まっている仏界が、御本尊の中の仏界と境智冥合する瞬間が、たまーにあります。
 この、たま―に訪れる仏界涌現のために、日々怠らず御本尊に向かって、題目を唱えて行くことが、信心の基本なのだ、と私は理解して、勤行を持続しているのです。

 日々の勤行は、地道なものです。
 しかしそれで幸せになり、宿命転換ができるのなら、こんな有難い事はありません。だから、御本尊に感謝して、広宣流布のお手伝いを、自分の力に応じてさせていただく、それが日々の信仰活動なのだ、と思っています。
 仕事や、その他の理由で、活動ができない時は、その与えられた中で、信心の実証を示して行くことが活動だと感謝を忘れず、必ず広布の陣列に加わる事をお約束して、日々祈って行けばいいのだと、そう思っています。

 大聖人の仏法を信じているというのなら、大聖人の仰せのままに『法華経=御本尊』を持って、疑わず、間違わず、生涯不退転で行きたいものだ、とそう決意しています。