昨年頃より『人と法』の事が話題になっているようですね。
今日はそのことについて、少し懇談的に話して行きたいと思います。
『人法勝劣』と言う言葉があります。これは釈迦仏法の事を言う言葉で、人と法に勝劣がある事を言います。当然法が優れ、人が劣っている事を表している言葉です。
御存知のように、仏は頭のてっぺんから足の裏に至るまで、特別な相を持っています。三十二相八十種好、と言う言葉で表現される、仏の凡夫に対しての優れた特殊性の事ですね。
では、なぜ釈迦はこれほどまでに身を飾らなければならなかったのでしょうか。簡単な事です、自らが説いた法に対して、あまりにも人が劣っていたからです。
釈迦仏法では、すべての仏が、仏になった根本の法によって、五百塵点劫と言うはるかな昔、釈迦自身が仏になったという『久遠実成』が説かれます。これが釈迦仏法の限界なのです。
釈迦は、自らが成仏した根本の法を説く資格がありません。それを『妙法蓮華経如来寿量本大十六』において『如来秘密神通之力』と言って、その文の底に秘しているのです。
釈迦は、三十歳で菩提樹の下に端坐して悟りを開いてから、延々四十二年間、爾前経を説きます。ここではいろんな立場の人が、成仏できないとされています。まず女性、二乗、悪人、一闡提。まるで成仏できる人などいない、と言わんばかりです。
それが法華経に至って、十界互具が説かれ、すべての人に成仏の可能性が示されるのです。あの、勤行で三回言うところですね。あれを聞いて舎利仏は、これで成仏できると悟り、感涙にむせんだと言われます。十如是だけでそれが分かるなんて、さすが知恵第一です、頭の作りが違います。
十界互具なんて、皆知ってるよ、なんて言わないでください、当時は天地がひっくり返るほどの教えだったのですから。
学会の教学試験を最初に受ける時、まず十界論を学ぶでしょう。ついでに十界互具、場合によっては任用試験で一念三千まで、当たり前に学んでいると思います。
しかし釈迦仏法では、法華経に至るまで、十界はパラパラに説かれ、九界の衆生は絶対仏界に至る事はなかったのです。
それでも、はるかに法は優れ、人は劣っていたのです。
対して日蓮大聖人の仏法は『人法一箇』です。
説かれる法と説く人が、同等なのです。
だから日蓮大聖人は、何も飾ることなく、凡夫の姿のまま、究極の法を説かれ、自らの実践を通して、成仏の姿を示されるのです。
『開目抄』を拝して行くと、あえて凡夫としての姿を示し、なぜ諸難が競うのか、なぜ諸天の守りがないのか、疑い、悩む姿を示し、そのすべてを突き抜けて、久遠元初の御本仏である確信を示して行かれるのです。
余談ですが、創価学会の信心とは、どこまですごいのか、と思うことの多いこのごろです。一生かかっても、私の頭では、仏と仏の説かれた法のすごさは、分かることはできないでしょう。それを、分かったような気になった時、慢心の罠に陥ってしまうのだろうと思います。
そしてその仏の教えを、分かりやすく解説してくれる師匠の存在、身を以ってその凄さを体験で示したくれる先輩諸氏に、感謝の思いを忘れずに行きたいと思います。
今日はそのことについて、少し懇談的に話して行きたいと思います。
『人法勝劣』と言う言葉があります。これは釈迦仏法の事を言う言葉で、人と法に勝劣がある事を言います。当然法が優れ、人が劣っている事を表している言葉です。
御存知のように、仏は頭のてっぺんから足の裏に至るまで、特別な相を持っています。三十二相八十種好、と言う言葉で表現される、仏の凡夫に対しての優れた特殊性の事ですね。
では、なぜ釈迦はこれほどまでに身を飾らなければならなかったのでしょうか。簡単な事です、自らが説いた法に対して、あまりにも人が劣っていたからです。
釈迦仏法では、すべての仏が、仏になった根本の法によって、五百塵点劫と言うはるかな昔、釈迦自身が仏になったという『久遠実成』が説かれます。これが釈迦仏法の限界なのです。
釈迦は、自らが成仏した根本の法を説く資格がありません。それを『妙法蓮華経如来寿量本大十六』において『如来秘密神通之力』と言って、その文の底に秘しているのです。
釈迦は、三十歳で菩提樹の下に端坐して悟りを開いてから、延々四十二年間、爾前経を説きます。ここではいろんな立場の人が、成仏できないとされています。まず女性、二乗、悪人、一闡提。まるで成仏できる人などいない、と言わんばかりです。
それが法華経に至って、十界互具が説かれ、すべての人に成仏の可能性が示されるのです。あの、勤行で三回言うところですね。あれを聞いて舎利仏は、これで成仏できると悟り、感涙にむせんだと言われます。十如是だけでそれが分かるなんて、さすが知恵第一です、頭の作りが違います。
十界互具なんて、皆知ってるよ、なんて言わないでください、当時は天地がひっくり返るほどの教えだったのですから。
学会の教学試験を最初に受ける時、まず十界論を学ぶでしょう。ついでに十界互具、場合によっては任用試験で一念三千まで、当たり前に学んでいると思います。
しかし釈迦仏法では、法華経に至るまで、十界はパラパラに説かれ、九界の衆生は絶対仏界に至る事はなかったのです。
それでも、はるかに法は優れ、人は劣っていたのです。
対して日蓮大聖人の仏法は『人法一箇』です。
説かれる法と説く人が、同等なのです。
だから日蓮大聖人は、何も飾ることなく、凡夫の姿のまま、究極の法を説かれ、自らの実践を通して、成仏の姿を示されるのです。
『開目抄』を拝して行くと、あえて凡夫としての姿を示し、なぜ諸難が競うのか、なぜ諸天の守りがないのか、疑い、悩む姿を示し、そのすべてを突き抜けて、久遠元初の御本仏である確信を示して行かれるのです。
余談ですが、創価学会の信心とは、どこまですごいのか、と思うことの多いこのごろです。一生かかっても、私の頭では、仏と仏の説かれた法のすごさは、分かることはできないでしょう。それを、分かったような気になった時、慢心の罠に陥ってしまうのだろうと思います。
そしてその仏の教えを、分かりやすく解説してくれる師匠の存在、身を以ってその凄さを体験で示したくれる先輩諸氏に、感謝の思いを忘れずに行きたいと思います。