市丸の雑記帳

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人と法の関係

2009-04-26 17:29:07 | Weblog
 昨年頃より『人と法』の事が話題になっているようですね。
 今日はそのことについて、少し懇談的に話して行きたいと思います。

 『人法勝劣』と言う言葉があります。これは釈迦仏法の事を言う言葉で、人と法に勝劣がある事を言います。当然法が優れ、人が劣っている事を表している言葉です。
 御存知のように、仏は頭のてっぺんから足の裏に至るまで、特別な相を持っています。三十二相八十種好、と言う言葉で表現される、仏の凡夫に対しての優れた特殊性の事ですね。
 では、なぜ釈迦はこれほどまでに身を飾らなければならなかったのでしょうか。簡単な事です、自らが説いた法に対して、あまりにも人が劣っていたからです。

 釈迦仏法では、すべての仏が、仏になった根本の法によって、五百塵点劫と言うはるかな昔、釈迦自身が仏になったという『久遠実成』が説かれます。これが釈迦仏法の限界なのです。
 釈迦は、自らが成仏した根本の法を説く資格がありません。それを『妙法蓮華経如来寿量本大十六』において『如来秘密神通之力』と言って、その文の底に秘しているのです。

 釈迦は、三十歳で菩提樹の下に端坐して悟りを開いてから、延々四十二年間、爾前経を説きます。ここではいろんな立場の人が、成仏できないとされています。まず女性、二乗、悪人、一闡提。まるで成仏できる人などいない、と言わんばかりです。
 それが法華経に至って、十界互具が説かれ、すべての人に成仏の可能性が示されるのです。あの、勤行で三回言うところですね。あれを聞いて舎利仏は、これで成仏できると悟り、感涙にむせんだと言われます。十如是だけでそれが分かるなんて、さすが知恵第一です、頭の作りが違います。
 十界互具なんて、皆知ってるよ、なんて言わないでください、当時は天地がひっくり返るほどの教えだったのですから。
 
 学会の教学試験を最初に受ける時、まず十界論を学ぶでしょう。ついでに十界互具、場合によっては任用試験で一念三千まで、当たり前に学んでいると思います。
 しかし釈迦仏法では、法華経に至るまで、十界はパラパラに説かれ、九界の衆生は絶対仏界に至る事はなかったのです。
 それでも、はるかに法は優れ、人は劣っていたのです。
 
 対して日蓮大聖人の仏法は『人法一箇』です。
 説かれる法と説く人が、同等なのです。
 だから日蓮大聖人は、何も飾ることなく、凡夫の姿のまま、究極の法を説かれ、自らの実践を通して、成仏の姿を示されるのです。
 『開目抄』を拝して行くと、あえて凡夫としての姿を示し、なぜ諸難が競うのか、なぜ諸天の守りがないのか、疑い、悩む姿を示し、そのすべてを突き抜けて、久遠元初の御本仏である確信を示して行かれるのです。

 余談ですが、創価学会の信心とは、どこまですごいのか、と思うことの多いこのごろです。一生かかっても、私の頭では、仏と仏の説かれた法のすごさは、分かることはできないでしょう。それを、分かったような気になった時、慢心の罠に陥ってしまうのだろうと思います。
 
 そしてその仏の教えを、分かりやすく解説してくれる師匠の存在、身を以ってその凄さを体験で示したくれる先輩諸氏に、感謝の思いを忘れずに行きたいと思います。 

本迹の相違

2009-04-17 00:13:17 | Weblog
 『此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり、しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし。(開目抄上 197頁)』

 釈迦が出家して、菩提樹の下に端坐して悟りを開いてから、延々四二年間もかけて説いた経々を、権経とも爾前経とも言います。
 この爾前経には、大きく二つの欠点があります。一つには、十界それぞれの間に差があって、絶対にそれは越えられず、成仏といっても名前だけあって、実のないものになってしまう、という事です。
 二つには、三十歳で悟りを得た釈迦が説いた教えであるために、成仏のための方法が明かされず、したがって、誰も成仏はできない、という事です。

 爾前経では、多くの衆生が成仏できません。まず二乗、そして女性、悪人。その他にもいろんな理由を付けて、まるで誰一人成仏などできないことを証明でもするかのような気がしてしまうほど、様々な人たちが成仏できない事を教えています。
 それも仕方がないのです。十界それぞれに壁があって、九界の衆生は、絶対に仏界には行けないのですから。

 それを、まず法華経に入って、十界互具・百界千如・一念三千が明かされることによって、すべての衆生の成仏の因が明かされるのです。それまで、絶対に成仏はできない、と散々仏から罵られてきた舎利仏は、「方便品第二」で十如是が明かされると、感涙にむせんだ、と言います。

 しかし十如是が説かれ、すべての衆生に成仏の可能性が明かされたと言っても、それはまだ名のみ有って実のないものでした。どうして成仏できるのか、その肝心な部分が、迹門ではまだ明かされていなかったからです。
 それが「本門如来寿量品第十六」に来て、初めて久遠実成が明かされるのです。それによって、一切衆生は、仏と等しくなる方法が、具体的に示されます。

 ここではそれが目的ではありませんので、その内容については深くは触れません。しかし「本門」と「迹門」とでは、絵に描いた餅と、搗いたばかりの温かくて柔らかい餅ぐらいの差があるのです。それほどまでに「本門」と「迹門」は違うのです。

 任用試験の時、五重の相対を学び、最も理解しにくかったのが、この「本迹相対」でした。教えていても、ここが一番分かっていない、という事が感じ取れました。それは同じ釈迦の法華経の中での相対だからかもしれません。
 しかし理屈で成仏を説くのと、自らの体験を持って示すのと、その差は歴然です。「迹」に対して、いかに「本」が優れているのか。それは「迹門」を、まだ権経と変わらないとするほどの違いなのです。

 しかしこの「迹門」と「本門」の差も、日蓮大聖人の説かれた、南無妙法蓮華経に対すれば、ほとんど差はなくなってしまいます。
 
 それは「種脱相対」になってきますので、今回はこれまでとしましょう。