創価学会員の家に生まれ、信仰の厳しさも分からずに育った二世・三世の甘ちゃんが、よくいう言葉。
「知らないうちに、親に勝手に学会に入れられた」
この言葉の持つ、生命の法則を無視した内容には、辟易してしまう。
この世に新たな生命体として誕生する時、すべての生命は生まれる場所を自ら選んで来る、という。それは自らが積んだ業がそうさせるのであり、どんな親の下に生まれ、どんな育てられ方をし、どんな性格になっていくのか、すべては自分次第だというのが、仏法の教えだからである。
ここで勘違いをしてほしくないことが一つある。それは、必ずしも人間に生まれるとは限らない、ということであ。
人間に生まれるためには、人間に生まれるだけの業を持っていなければならない、という事だ。
そこで、最初の、親が勝手に学会に入れた、という問題に戻ってみよう。
生まれた家が創価学会だったから、勝手に入れられた、というのは、全くの詭弁としか言いようがない。学会員の家に生まれたこと自体、自らが望んで来た事なのだから、入れられたのではない。繰り返しになるが、自ら望んで入って来たのである。
もし、どうしても学会に入りたくないのなら、念仏の家にでも、真言の家にでも、キリスト教の家にでも生まれれば良かったのだ。そうすれば、自動的にその家の宗教に入ることになり、誰か創価学会員の友人が、話をしてくれない限り、創価学会と縁を持つこともないし、話を聞いても頑なに耳を塞いでいれば、それで一生終われるのだから、何の問題もないわけである。
しかしなぜか創価学会の家に生まれ、南無妙法蓮華経という題目を聞き、教学を学び、人の中へと入って行く事になってしまった。
それが嫌だというのなら、さっさと学会を辞め、自らの信念で生きていけば良い。憲法によって保障された信教の自由は、すべての人に保障されているからである。
しかし自ら望んで学会に入って来た人達にとって、創価学会は自らの運をかける最後の砦だった、ということもあるのだ。
そしてそんな人たちは、間違いなく自らの運を開いて行っているのだ。
ただ、強制的に創価学会に入れさせられた世代が、確かに存在する。親が創価学会に宗旨替えをした家庭の子供たちだ。特に十歳未満の子供にとって、訳もわからないうちに創価学会員にさせられたことになる。
私がその世代である。
抵抗する、とか反対するとか、そんな感覚は全く持つこともできないまま、創価学会員なって、南無妙法蓮華経と唱えることになってしまったのだ。
親は自ら望んで宗旨替えをしているから、必死だが、子供の立場では、何もわからない。ただ、やりなさい、と言われるのが嫌でたまらなかった。
結構抵抗していた事になるのだろう、二十歳過ぎてから、しばらくは全く勤行をしなくなって、親からは相当にひどいことも言われた。
しかし親は、子供に嫌われるようなことを言う必要などなかった、と間もなくわかった。やらなければならない状況になってしまって、勤行を欠かすなんてとんでもない、と体験的に私は言い続けている。
ただし、信教は自由である。何人にも強制はしない。
創価学会の信仰を強制するものがある、とすればそれは自らの幸せを求めてやまない生命だけだろう。
私は自らの人生をかけるに足るもの、として創価学会員であるし、これからも創価学会員であり続けるだろう。
『法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるはやすく持つはかたしさる間成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり(四条金吾殿御返事 1136頁)』
「知らないうちに、親に勝手に学会に入れられた」
この言葉の持つ、生命の法則を無視した内容には、辟易してしまう。
この世に新たな生命体として誕生する時、すべての生命は生まれる場所を自ら選んで来る、という。それは自らが積んだ業がそうさせるのであり、どんな親の下に生まれ、どんな育てられ方をし、どんな性格になっていくのか、すべては自分次第だというのが、仏法の教えだからである。
ここで勘違いをしてほしくないことが一つある。それは、必ずしも人間に生まれるとは限らない、ということであ。
人間に生まれるためには、人間に生まれるだけの業を持っていなければならない、という事だ。
そこで、最初の、親が勝手に学会に入れた、という問題に戻ってみよう。
生まれた家が創価学会だったから、勝手に入れられた、というのは、全くの詭弁としか言いようがない。学会員の家に生まれたこと自体、自らが望んで来た事なのだから、入れられたのではない。繰り返しになるが、自ら望んで入って来たのである。
もし、どうしても学会に入りたくないのなら、念仏の家にでも、真言の家にでも、キリスト教の家にでも生まれれば良かったのだ。そうすれば、自動的にその家の宗教に入ることになり、誰か創価学会員の友人が、話をしてくれない限り、創価学会と縁を持つこともないし、話を聞いても頑なに耳を塞いでいれば、それで一生終われるのだから、何の問題もないわけである。
しかしなぜか創価学会の家に生まれ、南無妙法蓮華経という題目を聞き、教学を学び、人の中へと入って行く事になってしまった。
それが嫌だというのなら、さっさと学会を辞め、自らの信念で生きていけば良い。憲法によって保障された信教の自由は、すべての人に保障されているからである。
しかし自ら望んで学会に入って来た人達にとって、創価学会は自らの運をかける最後の砦だった、ということもあるのだ。
そしてそんな人たちは、間違いなく自らの運を開いて行っているのだ。
ただ、強制的に創価学会に入れさせられた世代が、確かに存在する。親が創価学会に宗旨替えをした家庭の子供たちだ。特に十歳未満の子供にとって、訳もわからないうちに創価学会員にさせられたことになる。
私がその世代である。
抵抗する、とか反対するとか、そんな感覚は全く持つこともできないまま、創価学会員なって、南無妙法蓮華経と唱えることになってしまったのだ。
親は自ら望んで宗旨替えをしているから、必死だが、子供の立場では、何もわからない。ただ、やりなさい、と言われるのが嫌でたまらなかった。
結構抵抗していた事になるのだろう、二十歳過ぎてから、しばらくは全く勤行をしなくなって、親からは相当にひどいことも言われた。
しかし親は、子供に嫌われるようなことを言う必要などなかった、と間もなくわかった。やらなければならない状況になってしまって、勤行を欠かすなんてとんでもない、と体験的に私は言い続けている。
ただし、信教は自由である。何人にも強制はしない。
創価学会の信仰を強制するものがある、とすればそれは自らの幸せを求めてやまない生命だけだろう。
私は自らの人生をかけるに足るもの、として創価学会員であるし、これからも創価学会員であり続けるだろう。
『法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるはやすく持つはかたしさる間成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり(四条金吾殿御返事 1136頁)』