市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

強制的な入会

2008-02-23 10:43:22 | Weblog
 創価学会員の家に生まれ、信仰の厳しさも分からずに育った二世・三世の甘ちゃんが、よくいう言葉。
 「知らないうちに、親に勝手に学会に入れられた」
 この言葉の持つ、生命の法則を無視した内容には、辟易してしまう。

 この世に新たな生命体として誕生する時、すべての生命は生まれる場所を自ら選んで来る、という。それは自らが積んだ業がそうさせるのであり、どんな親の下に生まれ、どんな育てられ方をし、どんな性格になっていくのか、すべては自分次第だというのが、仏法の教えだからである。
 ここで勘違いをしてほしくないことが一つある。それは、必ずしも人間に生まれるとは限らない、ということであ。
 人間に生まれるためには、人間に生まれるだけの業を持っていなければならない、という事だ。

 そこで、最初の、親が勝手に学会に入れた、という問題に戻ってみよう。
 生まれた家が創価学会だったから、勝手に入れられた、というのは、全くの詭弁としか言いようがない。学会員の家に生まれたこと自体、自らが望んで来た事なのだから、入れられたのではない。繰り返しになるが、自ら望んで入って来たのである。
 もし、どうしても学会に入りたくないのなら、念仏の家にでも、真言の家にでも、キリスト教の家にでも生まれれば良かったのだ。そうすれば、自動的にその家の宗教に入ることになり、誰か創価学会員の友人が、話をしてくれない限り、創価学会と縁を持つこともないし、話を聞いても頑なに耳を塞いでいれば、それで一生終われるのだから、何の問題もないわけである。
 しかしなぜか創価学会の家に生まれ、南無妙法蓮華経という題目を聞き、教学を学び、人の中へと入って行く事になってしまった。

 それが嫌だというのなら、さっさと学会を辞め、自らの信念で生きていけば良い。憲法によって保障された信教の自由は、すべての人に保障されているからである。

 しかし自ら望んで学会に入って来た人達にとって、創価学会は自らの運をかける最後の砦だった、ということもあるのだ。
 そしてそんな人たちは、間違いなく自らの運を開いて行っているのだ。

 ただ、強制的に創価学会に入れさせられた世代が、確かに存在する。親が創価学会に宗旨替えをした家庭の子供たちだ。特に十歳未満の子供にとって、訳もわからないうちに創価学会員にさせられたことになる。
 私がその世代である。
 抵抗する、とか反対するとか、そんな感覚は全く持つこともできないまま、創価学会員なって、南無妙法蓮華経と唱えることになってしまったのだ。

 親は自ら望んで宗旨替えをしているから、必死だが、子供の立場では、何もわからない。ただ、やりなさい、と言われるのが嫌でたまらなかった。
 結構抵抗していた事になるのだろう、二十歳過ぎてから、しばらくは全く勤行をしなくなって、親からは相当にひどいことも言われた。

 しかし親は、子供に嫌われるようなことを言う必要などなかった、と間もなくわかった。やらなければならない状況になってしまって、勤行を欠かすなんてとんでもない、と体験的に私は言い続けている。
 
 ただし、信教は自由である。何人にも強制はしない。
 創価学会の信仰を強制するものがある、とすればそれは自らの幸せを求めてやまない生命だけだろう。
 私は自らの人生をかけるに足るもの、として創価学会員であるし、これからも創価学会員であり続けるだろう。


 『法華経の文に難信難解と説き給ふは是なり、此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるはやすく持つはかたしさる間成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり(四条金吾殿御返事 1136頁)』
 

運の尽きる時

2008-02-09 07:55:37 | Weblog
 少し前、NHK教育テレビで、作家Mさんのロングインタビューを放送していました。
 Mさんは芥川賞作家。文筆の専門家をして、天才、百年残る作家、と言わしめるほどの人です。その文体は素直で、誰が読んでも分かりやすく、しかも味わい深いものがあります。確かに氏の言われるように、小学生でも読める文章、には違いありませんが、その奥にたどり着くには、どれほどの人生の深さが必要なのか、といつも考えさせられるのです。

 そのロングインタビューの三回目に、氏は実に興味深い事を言っていました。

 「人柄とか、人格に関係なく、ある時、人は地獄行きの軌道に乗る事がある。平たく言えば、『罰が当たった』と言うことかな」
 氏のお父上の生涯をさして言われた事でしょうが、あまりにも衝撃的な言葉でした。
 さらにインタビュアーの質問、
 「それは言葉に出来るものですか?」
 氏は、いとも簡単に答えられました。女房を不幸にした瞬間に、その軌道に乗った、と。
 「当たっているかどうかはともかく、因果と言うものがあるのなら、私はそう考えています」と……。

 氏の言葉そのままではありませんが、厳しい言葉だ、と思いました。

 人は人を不幸にした瞬間、自らの幸福の道を閉ざす。それが因果の理法であるのなら、何を以ってその判断をすればいいのか。
 重い課題です。

 多くの場合、人は努力と信念、と言います。良くならないのは努力が足りなかったからだ、強い信念を以ってすれば、成し遂げられないものはない。

 そうでしょうか。
 確かに努力と信念が大事であることは認めます。努力なくして物事を成就した人はいないでしょう。強い信念なくして,道を開いた人はいないでしょう。
 しかし誰よりも強い信念を持って、誰よりも努力をして、成功一歩手前まで行きながら、すべてを失った人を知っています。まるで努力をあざ笑うかのごとく、その人から、ことごとく運が逃げて行ってしまったのです。
 「それは本人が思っているだけで、努力が足りなかっただけだ」
 そう言うのは簡単でしょう。しかしその人は二十代前半でその部門で全国のほとんどトップになり、三十年近く前、年収一億も夢ではなくなっていたのです。
 そのすべてが、たった一つの圧力から崩れ去ってしまい、多額の借金を抱える事になってしまうのです。

 「努力と信念では、人生は語れない、つまるところ人生は『運』だ」
 その人は言います。だから今、その『運』をつける努力をしているのだ、と。
 『運』がなければ、何をしても空回りしてしまう、結局は究極の敗北の生涯になってしまう、と。
 「人生賭けてはずれくじを引き続ける、と言うことかな。それもたいした努力だけどね」

 「その『運』をつける方法は?」
 そう尋ねると、その人はこう答えるのです。

 「正しい『因果の理法の軌道』に乗ること。それ以外に『運』の良い人生を生きることは出来ないだろう」
 
 
 『今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ、此れをもつてをもうに今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずるもの法華経をかたきとする人の国は体にかげのそうがごとくわざわい来るべし、法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし。(十字御書 1492頁)』