爾前二種の失の一つが二乗の不作仏ですが、なぜこれがそんなにも重要なのでしょうか。
それは法華経方便品で『諸法実相』と言う法門が説かれ、十界互具が明らかになり、十界が互具している、と言う事が初めて説かれることにあります。
簡単なことです。すべての人に二乗の生命が存在し、その二乗が成仏しないのなら、一切の人が成仏と言う最高の幸福境涯へたどり着くことは不可能、と言うことになってしまうのです。
それまでの教えで、釈迦は、二乗に対して、散々な事を言います。
二乗を供養する者は地獄に堕ちる。二乗は仏種を炒失した者である。炒った種からは永久に芽が出ない様に、二乗の生命に仏種は永遠に生まれない。修行自体が無意味である。
声聞達よ、諸君は成仏しようと思って修行しているのかもしれないが、無駄だ無駄だ、やめちまえ、と師匠に言われた舎利弗は悲しみのあまり手にした鉢を落して呆然としてしまった、とあるぐらいです。他の声聞も同じです。師匠にそれまでの一切の修行が無駄だといわれて、号泣しました。
絶対に救われない、と絶望の底にいた二乗に対して、釈迦は『十如是』を説き、一切の衆生の生命には、本来仏界と言う生命が備わっているから、例え二乗であろうと、地獄の衆生であろうと、全員、成仏の可能性を持っているのだ、と説くのです。
そしてここで始めて、女性や悪人の成仏も説かれるのです。
爾前経では、実は女性の成仏も説かれていなかったのです。
爾前経、所謂権教を依経としている宗教の一切には、女性の成仏は説かれていません。この権教を依経としている宗教は、数多くあります。
繰り返します、その全てに、女性の成仏は説かれていないのです。
悪人も成仏できません。
そして頭の良い代表である二乗も。
一体爾前経では、誰が成仏出来ると言うのでしょう。こんなに成仏できない衆生がいたのでは、誰も成仏なんかできっこないではありませんか。
そうなのです、爾前経では、誰も成仏は出来ないのです。
『諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等』
これを聞いて、釈迦の言葉を疑うことなく信じた智慧第一の舎利弗は、即座に自らが成仏出来る可能性を持っていることを悟ります。
他の声聞たちは、さらにその後に説かれる喩話や因縁話などを聞くことにより、全員が悟りを得て、今度は喜びのあまりに号泣するのです。
『此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。 (開目抄 197頁)』
それは法華経方便品で『諸法実相』と言う法門が説かれ、十界互具が明らかになり、十界が互具している、と言う事が初めて説かれることにあります。
簡単なことです。すべての人に二乗の生命が存在し、その二乗が成仏しないのなら、一切の人が成仏と言う最高の幸福境涯へたどり着くことは不可能、と言うことになってしまうのです。
それまでの教えで、釈迦は、二乗に対して、散々な事を言います。
二乗を供養する者は地獄に堕ちる。二乗は仏種を炒失した者である。炒った種からは永久に芽が出ない様に、二乗の生命に仏種は永遠に生まれない。修行自体が無意味である。
声聞達よ、諸君は成仏しようと思って修行しているのかもしれないが、無駄だ無駄だ、やめちまえ、と師匠に言われた舎利弗は悲しみのあまり手にした鉢を落して呆然としてしまった、とあるぐらいです。他の声聞も同じです。師匠にそれまでの一切の修行が無駄だといわれて、号泣しました。
絶対に救われない、と絶望の底にいた二乗に対して、釈迦は『十如是』を説き、一切の衆生の生命には、本来仏界と言う生命が備わっているから、例え二乗であろうと、地獄の衆生であろうと、全員、成仏の可能性を持っているのだ、と説くのです。
そしてここで始めて、女性や悪人の成仏も説かれるのです。
爾前経では、実は女性の成仏も説かれていなかったのです。
爾前経、所謂権教を依経としている宗教の一切には、女性の成仏は説かれていません。この権教を依経としている宗教は、数多くあります。
繰り返します、その全てに、女性の成仏は説かれていないのです。
悪人も成仏できません。
そして頭の良い代表である二乗も。
一体爾前経では、誰が成仏出来ると言うのでしょう。こんなに成仏できない衆生がいたのでは、誰も成仏なんかできっこないではありませんか。
そうなのです、爾前経では、誰も成仏は出来ないのです。
『諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等』
これを聞いて、釈迦の言葉を疑うことなく信じた智慧第一の舎利弗は、即座に自らが成仏出来る可能性を持っていることを悟ります。
他の声聞たちは、さらにその後に説かれる喩話や因縁話などを聞くことにより、全員が悟りを得て、今度は喜びのあまりに号泣するのです。
『此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり。 (開目抄 197頁)』