市丸の雑記帳

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難信難解

2011-07-13 20:41:12 | Weblog
 最近ネットで、面白い教義の展開を見ました。個人の妄想と言った方が当たっているかもしれませんが、人は人だからあくまでも人界が基本だ。そして仏界は歓喜で、歓喜は天界だから、あくまでも十界と言えど六道がすべてだ。それを、仏界などと言うものがあるかのように勘違いをしている者が、あまりにも多い、と言うのです。
 その方の発言の多くが、実に紛らわしく、どこまでが本音で、どこからが人を惑わすための発言なのか、定かではない事が多いのですが、どうやらこれは、本気で言っている模様なのです。  
 そこで、『十界』というキーワードで、御書検索をかけてみると、実に210もヒットしました。その中から、任意に一つを抜き出してみると、以下のような御文に当たりました。

 『第三に大小乗を定むることを明さば、問うて云く大小乗の差別如何、答えて云く常途の説の如くんば阿含部の諸経は小乗なり華厳・方等・般若・法華・涅槃等は大乗なり、或は六界を明すは小乗・十界を明すは大乗なり、其の外・法華経に対して実義を論ずる時・法華経より外の四十余年の諸大乗経は皆小乗にして法華経は大乗なり。(守護国家論 41頁)』

 この文を見る限りにおいては、小乗教と大乗教の差は何かと言うと『或は六界を明すは小乗・十界を明すは大乗なり』と言う事になります。
 さらに言えば、釈迦五十年の説法のうちの四十余年は小乗、と言い切り、最後の法華経のみを大乗、と仰せです。
 と言う事は、十界と言う教えは、法華経のみがたどり着いた生命の実相、と言う事になるのでしょうか。

 昔、ある宗教をやっている人が訪ねて来て、とうとうとその宗教の教義を語っていった事があります。
 「人の生命には七界があって、それは 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・仏と言うものです」
 ああ。この宗教では、理解不能な生命をすっ飛ばして信者に教えているのか、とその時思いました。基本は六道で、自分たちの宗教を特別に見せたいために、仏、というものをくっつけているだけなのだ、とすぐ分かったからです。こちらから、少し突っ込んだ質問をすると、今日は以前住んでいたこちらに来ただけで、急いで帰らなければならないから、と言って、自分の宗教のパンフレットだけを置いて、そそくさと帰って行ッてしまいました。
 彼女の信じていた宗教は、『人間革命』でおなじみのS教団でした。

 人は、自分の考えの及ばない教えに対しては、等しく畏敬の念を抱くもののようです。
 しかしその後の取り方に、やはり十界がある如く、それぞれの器に応じた取り方をしてしまうのでしょう。
 それでもほとんどの人は、教えられたままを信じ、なんとかその真実にたどりつきたい、と願うものですが、一部の人は、生命に巣食う元品の無明が強すぎて、仏の悟りとは全く違った方向で、独自の教義を編み出してしまうのかもしれません。しかも、その考えは今までになく斬新で、仏をも凌ぐ、と本人は思ってしまうもののようです。
「我悟れり!」
 傍から見ていると、実に滑稽極まりないのですが、そう叫びたい衝動にかられながら、どんどん仏法の本質からずれて行ってしまっているのではないでしょうか。

 冒頭に紹介した方も、そのうちのお一人だと思われます。
 日蓮大聖人の教義に触れたまでは良いのですが、どうしても理解できない部分が多すぎたのでしょう。
 しかし解らないとは言えなくて、おまけに、人に物事を尋ねるには年齢を重ねすぎて、頑固と我見との塊になってしまったと思われます。自分の理解できない教義などあってはならぬ、どんな教義も、自分の考えの範疇に納めて、これこそ真実だから「我もいたし、人をも教化候え」とばかり、ネットで発信しまくっているのでしょう。
 お歳を考えると、何とも滑稽ですが、多くのアンチたちと同じレベルです。
 しかし、きっと御本人は、大真面目のはずです。

 なぜこんな簡単な理屈が分からないんだ。
 なぜこんな分かりやすい教えを分かろうとしないんだ。
 なぜ多くの奴らは、俺の考えに反対して来るんだ。
 きっとあいつらは、エセ信者なんだ、ザマアミロ!!!

 こんな感じなのでしょうか。

 でも、ちょっと待ってください、御書には当たり前に十界・十界互具が説かれています。そうでなければ、九界の成仏は無い事も、仏界を開く事もない、とも言われています。
 と言う事は、仏界は仏界としてあるし、単なる認識の対象ではなく、明らかな生命の働きであるはずです。ただ、それを否定したり、六道に押し込めたりしてしまうやり方は、要するに、仏界どころか、四聖を理解する生命の幅は無いと言う、その方自身の力の限界を認めてしまった事になってしまうのではないでしょうか。
 まことに哀れ、としか言いようがありません。
 
 さらに、ネットで空理空論の教義を展開している方たちが、おそらくは知りえない事があります。それは、真面目に唱題に励み、御本尊を信じて疑わない多くの人が、体験的にこの仏界を覚知している、と言う事です。

 ネットで、人を誹謗し、我見を、さも真実であるかのごとく吹きまくるような人には、決して騙されない智恵をこそ、身につけて行かねば、と思ってしまいます。