市丸の雑記帳

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持続

2009-01-21 08:30:20 | Weblog
 『予少量為りと雖も忝くも大乗を学す蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ。(立正安国論 26頁)』

 信心とは、一体何なのでしょうか。
 これは私の感想なので、すべての人がそうだとは思いませんが、地道に、コツコツと持続して行く事、なのではないか、と思っています。

 たとえば勤行。忙しい時間の中を、何で毎朝毎晩、仏壇の前に座って、訳も分からない言葉を、唱えなければならないのか、なんて思った事は、ありませんか? この時間がなかったら、もっと簡単に日常は進むのに、なんて。
 たとえば題目。上げろ上げろと言われても、足は痛いし(では正坐椅子を使ったら?)、喉は痛いし(短時間では痛くなりません)、眠くなるし(そ、それはですね……)。
 
 たとえば座談会、例えば本幹中継、例えば……etc,etc……。

 そのどれもが、得意だと言う人、不得意だと言う人、いますよね。
 でも、とりあえず横並びに降りて来て、とりあえず全部に挑戦して行くわけです。
 その中で、全く結果の出ない事もあるし、思いがけない結果を出すこともあるでしょう。

 私の以前住んでいた所は、なかなか人が育たないところでした。性急な結果を求めても、皆どん引きして、戦いになりません。
 そんな中で、結果を出す人が、出せない幹部を揶揄したことを言ったり、と言うことだってありました。 

 打ち出しのあった項目に対して、結果が出ようが出まいが、苦手だろうが得意だろうが、積極的だろうがいやいやだろうが、とにかくトライすることが戦いだ、と思ってやってきました。
 結果の次第はいつも二の次。

 そうやって、ただ学会にくっついて、ただ組織にくっついて、気が付いたら小さい小さい穴蔵に閉じこもって、何時も泣いていただけだったのに、いつの間にか空を見上げて笑っていられるようになっていました。

 若かった頃、当時の信心五十年、と言う方を見て、何時になったらあんな確信に満ちた言葉を言えるほど、信を深められるのだろう、と思った事が、幾度もありました。
 今、自分がその年数を過ぎて、何も特別な事はないのだ、と思うようになりました。知らないうちに幸せになり、気がつかないほど自然な中で功徳にあふれ、生きている事に感謝しています。

 こんなにすばらしい信心なのに、自分で勝手に間違った方へ行く人もいます。ただ、大聖人様と、御書と、御本尊様だけを信じて行けば良いのに、勝手に限界を作って、疑いを起す人がいます。
 
 私は中途半端な利口者より、徹底した愚人で良い、と思ってしまいます。
 仏の知恵の前には、みんな愚人なのです。
 愚人は愚人なりに、正しいものを信じて、疑わないことだけに神経を使って行けば、いつかは仏の示した幸せの方向へ行けると、信じて行く方が、なんぼか利口です。

 生きてる限り私は、創価学会と言う駿馬の尻尾に掴まって、振り落されないようにだけ、懸命になっていたい、そう思っています。

祈り

2009-01-02 11:08:58 | Weblog
 『我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし、我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ。(十字御書 1491頁)』

 あけましておめでとうございます。
 昨年は大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。

 もったいなくも、仏は我ら衆生の中にも、仏と同じ尊極の生命がある、と仰せです。
 しかしそれを知るのは、自らのまつげを見るのが難しいよりも、もっと難しいのではないでしょうか。しかしまつげは、鏡を使えば、簡単に見ることができます。虚空の遠きも、望遠鏡を使えば、かなりなものまで、今は分かるようになりました。
 でも、自分の生命だけは、どうしても見えないようです。
 その、見ることが難しい生命を、御本尊様を顕すことによって、すべての人に見えるようにして下さったのが、日蓮大聖人様ではないでしょうか。

 御本尊様は、唯一絶対の、生命を写す鏡です。
 御本尊様があって、その御本尊様に向かって、仏様の御名であるお題目を唱える事によって、私たちは初めて自らの中に冥伏している、仏界と言う尊極の生命を涌現することができるのです。

 年末、主人と二人で、唱題会をしました。
 題目を唱えている自分自身が、とても幸せだ、と感じました。
 
 『青年・勝利の年』

 世界的に厳しい情勢の続く中であっても、祈り弛まず、師匠にお応えできる年にして行きたい、そう決意して、新しい夜明けを迎えました。