『予少量為りと雖も忝くも大乗を学す蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ。(立正安国論 26頁)』
信心とは、一体何なのでしょうか。
これは私の感想なので、すべての人がそうだとは思いませんが、地道に、コツコツと持続して行く事、なのではないか、と思っています。
たとえば勤行。忙しい時間の中を、何で毎朝毎晩、仏壇の前に座って、訳も分からない言葉を、唱えなければならないのか、なんて思った事は、ありませんか? この時間がなかったら、もっと簡単に日常は進むのに、なんて。
たとえば題目。上げろ上げろと言われても、足は痛いし(では正坐椅子を使ったら?)、喉は痛いし(短時間では痛くなりません)、眠くなるし(そ、それはですね……)。
たとえば座談会、例えば本幹中継、例えば……etc,etc……。
そのどれもが、得意だと言う人、不得意だと言う人、いますよね。
でも、とりあえず横並びに降りて来て、とりあえず全部に挑戦して行くわけです。
その中で、全く結果の出ない事もあるし、思いがけない結果を出すこともあるでしょう。
私の以前住んでいた所は、なかなか人が育たないところでした。性急な結果を求めても、皆どん引きして、戦いになりません。
そんな中で、結果を出す人が、出せない幹部を揶揄したことを言ったり、と言うことだってありました。
打ち出しのあった項目に対して、結果が出ようが出まいが、苦手だろうが得意だろうが、積極的だろうがいやいやだろうが、とにかくトライすることが戦いだ、と思ってやってきました。
結果の次第はいつも二の次。
そうやって、ただ学会にくっついて、ただ組織にくっついて、気が付いたら小さい小さい穴蔵に閉じこもって、何時も泣いていただけだったのに、いつの間にか空を見上げて笑っていられるようになっていました。
若かった頃、当時の信心五十年、と言う方を見て、何時になったらあんな確信に満ちた言葉を言えるほど、信を深められるのだろう、と思った事が、幾度もありました。
今、自分がその年数を過ぎて、何も特別な事はないのだ、と思うようになりました。知らないうちに幸せになり、気がつかないほど自然な中で功徳にあふれ、生きている事に感謝しています。
こんなにすばらしい信心なのに、自分で勝手に間違った方へ行く人もいます。ただ、大聖人様と、御書と、御本尊様だけを信じて行けば良いのに、勝手に限界を作って、疑いを起す人がいます。
私は中途半端な利口者より、徹底した愚人で良い、と思ってしまいます。
仏の知恵の前には、みんな愚人なのです。
愚人は愚人なりに、正しいものを信じて、疑わないことだけに神経を使って行けば、いつかは仏の示した幸せの方向へ行けると、信じて行く方が、なんぼか利口です。
生きてる限り私は、創価学会と言う駿馬の尻尾に掴まって、振り落されないようにだけ、懸命になっていたい、そう思っています。
信心とは、一体何なのでしょうか。
これは私の感想なので、すべての人がそうだとは思いませんが、地道に、コツコツと持続して行く事、なのではないか、と思っています。
たとえば勤行。忙しい時間の中を、何で毎朝毎晩、仏壇の前に座って、訳も分からない言葉を、唱えなければならないのか、なんて思った事は、ありませんか? この時間がなかったら、もっと簡単に日常は進むのに、なんて。
たとえば題目。上げろ上げろと言われても、足は痛いし(では正坐椅子を使ったら?)、喉は痛いし(短時間では痛くなりません)、眠くなるし(そ、それはですね……)。
たとえば座談会、例えば本幹中継、例えば……etc,etc……。
そのどれもが、得意だと言う人、不得意だと言う人、いますよね。
でも、とりあえず横並びに降りて来て、とりあえず全部に挑戦して行くわけです。
その中で、全く結果の出ない事もあるし、思いがけない結果を出すこともあるでしょう。
私の以前住んでいた所は、なかなか人が育たないところでした。性急な結果を求めても、皆どん引きして、戦いになりません。
そんな中で、結果を出す人が、出せない幹部を揶揄したことを言ったり、と言うことだってありました。
打ち出しのあった項目に対して、結果が出ようが出まいが、苦手だろうが得意だろうが、積極的だろうがいやいやだろうが、とにかくトライすることが戦いだ、と思ってやってきました。
結果の次第はいつも二の次。
そうやって、ただ学会にくっついて、ただ組織にくっついて、気が付いたら小さい小さい穴蔵に閉じこもって、何時も泣いていただけだったのに、いつの間にか空を見上げて笑っていられるようになっていました。
若かった頃、当時の信心五十年、と言う方を見て、何時になったらあんな確信に満ちた言葉を言えるほど、信を深められるのだろう、と思った事が、幾度もありました。
今、自分がその年数を過ぎて、何も特別な事はないのだ、と思うようになりました。知らないうちに幸せになり、気がつかないほど自然な中で功徳にあふれ、生きている事に感謝しています。
こんなにすばらしい信心なのに、自分で勝手に間違った方へ行く人もいます。ただ、大聖人様と、御書と、御本尊様だけを信じて行けば良いのに、勝手に限界を作って、疑いを起す人がいます。
私は中途半端な利口者より、徹底した愚人で良い、と思ってしまいます。
仏の知恵の前には、みんな愚人なのです。
愚人は愚人なりに、正しいものを信じて、疑わないことだけに神経を使って行けば、いつかは仏の示した幸せの方向へ行けると、信じて行く方が、なんぼか利口です。
生きてる限り私は、創価学会と言う駿馬の尻尾に掴まって、振り落されないようにだけ、懸命になっていたい、そう思っています。