市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

非学匠は理につまらず

2010-09-11 20:19:42 | Weblog
  『然る間汝断常の二見を出でず無間地獄に堕せん事疑無しと云つて何度もかれが云う言にてややもすれば己がつまる語なり、されども非学匠は理につまらずと云つて他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間暗証の者とは云うなり、都て理におれざるなり譬えば行く水にかずかくが如し。(諸宗問答抄 380頁)』

 非学匠の者は理に詰まらず。
 これは、学問していない者は、どんな事があっても、言葉に詰まる事がない、と言っているのでしょうか。
 学問を徹底的にやったからこそ、どこから攻められても、すべてを切り返し、理論的に破折を加えられた大聖人様にとって、禅宗の理屈などは、その程度のものだったのでしょう。

 それよりも面白いのは、何を言われても平然と、大聖人の仏法を捻じ曲げ、自義を展開して行くツワモノの存在ではないか、と思ったりします。

 第一次宗門問題の時、毎週毎週協議会や座談会を狙って、宗門からのお尋ね文書、と言う物が来ていました。内容は、どこか教学的で、どこかおかしい、大聖人の仏法を語るには、何かが違っているけど、どこか理論的でもある、と言うものでした。
 毎回、全文を呼んで、皆に徹底するように、とのことで、私がその読み手にされていました。
 今なら、仏法に屁理屈をからませ、何が何でも学会の教義を捻じ曲げて、日蓮大聖人の教えから、山友節へ持って行くための、詭弁を弄するだけのねつ造文書だったと分かります。しかし、教学の上級者もまだ少ない時期、教学部長が、本気で教学を捻じ曲げに来たのです。読んだ後には、不気味さばかりが残りました。

 その文書は、次の週も次の週も、飽くことなくやって来て、大事な会合の時間を奪い、生命力を奪い、歓喜を奪って行きました。

 その文書の内容を信じれば、師匠の言う事は、間違っている事になってしまいます。
 重い気持ちを引きずって、協議会の会場を後にする事が続きました。

 『日蓮大聖人御書全集』を拝読して行くと、すべての答えがそこにある、と言う事が分かります。先の、おそらくは、山友と原島を中心にしたお尋ね文書が、御書の一部を切り取って拡大解釈し、自義を大幅に加えた物である、と言う事も、御書を精読して行けば、あっさりと見抜ける事だったのです。
 ただ、あの時、そこまでの教学部員がいなかった事が問題だった、と言うだけなのです。
 いない事が分かっているから、お尋ね文書を、組織の末端にまで落として来た、山友の悪知恵なのでしょう。

 翻って現在、もし山友や原島みたいな、自義を振り回す者があらわれたとして、騙されないで済むものでしょうか。
 たとえば、本人が教学をなまかじりして、勝手な解釈で自義を唱え、何百回何千回と同じ事を言い続けたとして、しかもそれを、現場ではなく、インターネットを使って、不特定多数に吹き込み続け、間違いを指摘する者に対しては、ネットの特殊性を最大限に利用して来たとしたら。

 自義の発信者は、教義を深く学んでいないのがほとんどでしょう。しかし本人は、その浅識に気が付く事はありません。指摘されると、自義を発信すると同じ発想で、破折側を、徹底的に落とす印象操作をやってきます。
 しかも自分は、いかにも礼儀をわきまえているかのごとく印象操作する事も、忘れてはいません。

 破折側は、仏法の教義を根底に置くがゆえに、間違いがない事を確認しながらになって行きます。

 破折側が、御書に法り、どんなに理論的に詰めたとしても、自義は破たんする事はありません。それは大聖人の時代、邪教がどれほど破折されても、どれほど経文を引いて攻められても、その勢力を減らす事がなかった事と一緒です。

 もっと言えば、間違った考えの方が単純だから、中途半端に賢いと思っている者達を、簡単に納得させられるのかもしれません。

 非学匠の者、とは現代で言えば、御書をなまはんかにかじって、およそ大聖人の仏法とは似ても似つかぬものを、これぞ真実、と吹聴し続ける、大いなる勘違い野郎の事なのではないか、そんな事を考えてしまいます。
 そして、そんな、非学匠の者に限って、自分の事を、賢い、とこれまた大いなる勘違いをしているのでしょう。

 その行きつく先は、各人で想像してください。