『予、世間を見聞するに、自宗の人師を以て三昧発得智慧第一と称すれども,無徳の凡夫として実経に依つて法門を信ぜしめず、不了義の観経等を以て時機相応の教と称し、了義の法華涅槃を閣いて、譏つて理深解微の失を付け、如来の遺言に背いて「人に依つて法に依らざれ・語に依つて義に依らざれ・識に依つて智に依らざれ・不了義経に依つて了義経に依らざれ」と談ずるに非ずや。請い願わくば心有らん人は思惟を加えよ。(守護国家論 45頁)』(読みやすいように、句読点を加えました)
守護国家論は、大聖人三十八歳の時の御作とされています。
相当長い御書です。しかも大聖人の研鑽が集約されたもので、読むだけでも大変です。
だから私も、御書全編拝読に挑戦、と言う読み方をしていなかったら、おそらく開く事もしなかったのではないか、と思います。
今回、いつものように読んでいて、面白い個所に行きあいました。それが冒頭の文です。大聖人の時代から、こんな事もあったのか、と思いましたので、覚書風になりますが、その感想を書き留めておこう、と思った次第です。
どの宗教をやっている者もそうなのでしょうが、誰でも、自分の信ずる宗教の開祖は、第一だ、と思いたいものです。その思いが高じてしまうと、仏よりも、自宗の開祖の方が偉い、と思いたいものなのかもしれません。そしてそれは、いつの時代と限った事ではなく、古くは釈迦在世から今に至るまで、変わることなく続いているのかもしれません。
そう言った人たちは、仏が、遺言として残した言葉にも、みごとに反している事に、気がつく事はないのでしょう。
そして人に依っている人たちは、きっとこう言うのでしょう。
「自分は『法』に依った発言をしている人の言葉に依っているから、法に依っている事になるのだ。決して人に依っているのではない」
一見もっともですが、ではその言葉を発している人が間違っていたら、どうするのでしょうか。自分で、何か文献を持っては来て、調べて、それでも間違っていない、と言い切るためには、それなりのことが必要でしょう。
私はそんな時は、日蓮大聖人の言葉を、戸田先生が仰るように「その通りでございます」と拝することにしています。その時の心がけとしては、自分の解釈を入れないことが、一番なんですよね。
「ここにこうあるけど、これはきっとこう言う事だと思う」
大体自分の感情や解釈が入っています。
「ここにこうある事は、こう言う事だ」
こう拝して、他の御書とも照らし合わせ、日蓮大聖人の仏法に迫って行くことが、大事なのではないでしょうか。
誰だって、法、つまり仏の言葉に依ることが大事だ、と言う事は分かります。
当たり前すぎるぐらい当たり前のことです。
この当たり前の事を、なぜ釈迦は遺言として残さなければならなかったのでしょうか。
現実の問題として、紛らわしい状況が出てきた場合、より身近な者の言葉を信じてしまう、と言う事はないでしょうか。
自分は、人には依っていない、と言いながら、実は人に依ってしまって、幸せの軌道から外れてしまう事がないでしょうか。
『三世を知るを聖人という』との御文もあります。
当然仏は、経文に依らず、人師の言葉に依って、多くの人を惑わせる者が出て来ることを予見していたでしょう。
では、法によっているつもりで、間違った人に引かれた時は、どうすればいいのでしょうか。
この時こそ、御本尊の前に単座し、魔を魔と見破る英知をいただくしかないのではないでしょうか。
そして、自分が間違った方に引かれていた、と気が付いたら、速やかに考えを改める勇気を持つしかないのではないか、と考えます。
最後に、涅槃経の正しい文を上げておきます。
『法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ(法華初心成仏抄 544頁)』
守護国家論は、大聖人三十八歳の時の御作とされています。
相当長い御書です。しかも大聖人の研鑽が集約されたもので、読むだけでも大変です。
だから私も、御書全編拝読に挑戦、と言う読み方をしていなかったら、おそらく開く事もしなかったのではないか、と思います。
今回、いつものように読んでいて、面白い個所に行きあいました。それが冒頭の文です。大聖人の時代から、こんな事もあったのか、と思いましたので、覚書風になりますが、その感想を書き留めておこう、と思った次第です。
どの宗教をやっている者もそうなのでしょうが、誰でも、自分の信ずる宗教の開祖は、第一だ、と思いたいものです。その思いが高じてしまうと、仏よりも、自宗の開祖の方が偉い、と思いたいものなのかもしれません。そしてそれは、いつの時代と限った事ではなく、古くは釈迦在世から今に至るまで、変わることなく続いているのかもしれません。
そう言った人たちは、仏が、遺言として残した言葉にも、みごとに反している事に、気がつく事はないのでしょう。
そして人に依っている人たちは、きっとこう言うのでしょう。
「自分は『法』に依った発言をしている人の言葉に依っているから、法に依っている事になるのだ。決して人に依っているのではない」
一見もっともですが、ではその言葉を発している人が間違っていたら、どうするのでしょうか。自分で、何か文献を持っては来て、調べて、それでも間違っていない、と言い切るためには、それなりのことが必要でしょう。
私はそんな時は、日蓮大聖人の言葉を、戸田先生が仰るように「その通りでございます」と拝することにしています。その時の心がけとしては、自分の解釈を入れないことが、一番なんですよね。
「ここにこうあるけど、これはきっとこう言う事だと思う」
大体自分の感情や解釈が入っています。
「ここにこうある事は、こう言う事だ」
こう拝して、他の御書とも照らし合わせ、日蓮大聖人の仏法に迫って行くことが、大事なのではないでしょうか。
誰だって、法、つまり仏の言葉に依ることが大事だ、と言う事は分かります。
当たり前すぎるぐらい当たり前のことです。
この当たり前の事を、なぜ釈迦は遺言として残さなければならなかったのでしょうか。
現実の問題として、紛らわしい状況が出てきた場合、より身近な者の言葉を信じてしまう、と言う事はないでしょうか。
自分は、人には依っていない、と言いながら、実は人に依ってしまって、幸せの軌道から外れてしまう事がないでしょうか。
『三世を知るを聖人という』との御文もあります。
当然仏は、経文に依らず、人師の言葉に依って、多くの人を惑わせる者が出て来ることを予見していたでしょう。
では、法によっているつもりで、間違った人に引かれた時は、どうすればいいのでしょうか。
この時こそ、御本尊の前に単座し、魔を魔と見破る英知をいただくしかないのではないでしょうか。
そして、自分が間違った方に引かれていた、と気が付いたら、速やかに考えを改める勇気を持つしかないのではないか、と考えます。
最後に、涅槃経の正しい文を上げておきます。
『法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ(法華初心成仏抄 544頁)』