市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

守護国家論から

2009-02-27 18:49:34 | Weblog
 『予、世間を見聞するに、自宗の人師を以て三昧発得智慧第一と称すれども,無徳の凡夫として実経に依つて法門を信ぜしめず、不了義の観経等を以て時機相応の教と称し、了義の法華涅槃を閣いて、譏つて理深解微の失を付け、如来の遺言に背いて「人に依つて法に依らざれ・語に依つて義に依らざれ・識に依つて智に依らざれ・不了義経に依つて了義経に依らざれ」と談ずるに非ずや。請い願わくば心有らん人は思惟を加えよ。(守護国家論 45頁)』(読みやすいように、句読点を加えました)

 守護国家論は、大聖人三十八歳の時の御作とされています。
 相当長い御書です。しかも大聖人の研鑽が集約されたもので、読むだけでも大変です。
 だから私も、御書全編拝読に挑戦、と言う読み方をしていなかったら、おそらく開く事もしなかったのではないか、と思います。

 今回、いつものように読んでいて、面白い個所に行きあいました。それが冒頭の文です。大聖人の時代から、こんな事もあったのか、と思いましたので、覚書風になりますが、その感想を書き留めておこう、と思った次第です。

 どの宗教をやっている者もそうなのでしょうが、誰でも、自分の信ずる宗教の開祖は、第一だ、と思いたいものです。その思いが高じてしまうと、仏よりも、自宗の開祖の方が偉い、と思いたいものなのかもしれません。そしてそれは、いつの時代と限った事ではなく、古くは釈迦在世から今に至るまで、変わることなく続いているのかもしれません。
 そう言った人たちは、仏が、遺言として残した言葉にも、みごとに反している事に、気がつく事はないのでしょう。

 そして人に依っている人たちは、きっとこう言うのでしょう。
 「自分は『法』に依った発言をしている人の言葉に依っているから、法に依っている事になるのだ。決して人に依っているのではない」
 
 一見もっともですが、ではその言葉を発している人が間違っていたら、どうするのでしょうか。自分で、何か文献を持っては来て、調べて、それでも間違っていない、と言い切るためには、それなりのことが必要でしょう。
 私はそんな時は、日蓮大聖人の言葉を、戸田先生が仰るように「その通りでございます」と拝することにしています。その時の心がけとしては、自分の解釈を入れないことが、一番なんですよね。
 「ここにこうあるけど、これはきっとこう言う事だと思う」
 大体自分の感情や解釈が入っています。
 「ここにこうある事は、こう言う事だ」
 こう拝して、他の御書とも照らし合わせ、日蓮大聖人の仏法に迫って行くことが、大事なのではないでしょうか。

 誰だって、法、つまり仏の言葉に依ることが大事だ、と言う事は分かります。
 当たり前すぎるぐらい当たり前のことです。
 この当たり前の事を、なぜ釈迦は遺言として残さなければならなかったのでしょうか。

 現実の問題として、紛らわしい状況が出てきた場合、より身近な者の言葉を信じてしまう、と言う事はないでしょうか。
 自分は、人には依っていない、と言いながら、実は人に依ってしまって、幸せの軌道から外れてしまう事がないでしょうか。

 『三世を知るを聖人という』との御文もあります。
 当然仏は、経文に依らず、人師の言葉に依って、多くの人を惑わせる者が出て来ることを予見していたでしょう。

 では、法によっているつもりで、間違った人に引かれた時は、どうすればいいのでしょうか。
 この時こそ、御本尊の前に単座し、魔を魔と見破る英知をいただくしかないのではないでしょうか。
 そして、自分が間違った方に引かれていた、と気が付いたら、速やかに考えを改める勇気を持つしかないのではないか、と考えます。


 最後に、涅槃経の正しい文を上げておきます。

 『法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ(法華初心成仏抄 544頁)』

僣聖増上慢

2009-02-09 11:19:08 | Weblog
 信心する上で、最も気を付けなければならないものに、「三類の強敵」があります。

 三類の強敵とは、第一に「俗衆増上慢」、第二に「道門増上慢」、第三に「僣聖増上慢」を言います。
 この中で、第一と第二はともかく、第三の僣聖増上慢は「忍び難き」と大聖人様さえも仰せです。

 では、その「僣聖増上慢」とは、どんなものなのでしょうか。御書の文証から、検証して行きたいと思います。

 法華経勧持品第十三には、次のようにある、と書かれています。
 『或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出さん而も是くの如き言を作さん此の諸の比丘等は利養を貪るを為つての故に外道の論義を説き自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す名聞を求むるを為つての故に分別して是の経を説くと、常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん』

 『阿練若』とは、人里から近からず遠からず離れた、比丘が修行するところ、と仏教哲学大辞典にはあります。その、静閑な場所に住んで、『真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する』のだそうです。
 
 この、近からず遠からず、と言うところがミソなのではないか、と思ってしまいました。
 人里から遠く離れた所では、修業はできますが、その姿を見てもらうには不便です。また、完全な自給自足の生活を強いられ、欲望が満たされないのではないでしょうか。
 自らの欲望を満足させる近さと、修業していると認めてもらうための静かな原野と、その両方を満足させる場所、だと言うことなのでしょう。

 次に『利養に貪著するが故に』とあります。金銭に執着して、と読めばいいのでしょうか。
 『白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん』
 見せかけだけの為に法を説き、人々には、誰よりも立派なお方と尊敬されるように見える、となると、言う事は立派だけれど、実際はどうなのさ、と言う解釈もできましょうか。

 この人は、自分の住んでいる所が、修業に適した場所だから偉いんだ、と言ったか言わないか、それは知らないけれど、常に大衆と共にある人を指して、「お前は外道だ」と言ったりします。 
 しかも自分勝手な法を説いて、世間の人を惑わして、実は名聞名利を求めているのです。
 自分が不利になってきたら、権力者に対して、自分を攻撃する者を訴え、自分こそ正義、とさらに印象つけようとするのです。

 こんな不届き者は、大聖人様の時代から、常に存在して来ています。
 権力者を利用し、使えるものは何でも使う。恥も外聞もないくせに、自分を支持する者に対しては、どこまでも謙虚で、思いやり深く見せ続け、また外に向かっても、実に紛らわしくマトモな言葉を混ぜ込んで来るのです。

 
 僣聖増上慢、と言うと、広宣流布を妨げる特別な存在のように感じていましたが、案外身近な所にいるのではないか、と思ってしまうのですが、皆さん、どう判断されるのでしょうか。