市丸の雑記帳

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不可解な広宣流布

2008-05-25 07:30:37 | Weblog
 某掲示板で、ある学会員の質問に、法華講の人が答えていました。例の数字の人です。

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投稿者:73 投稿日:2008年 5月22日(木)23時29分41秒

> ところで貴方達の広宣流布とは何ですか?
> より解かりづらい仏法を押し付ける
> 密教のようなものなんでしょうか?

日蓮正宗の広宣流布とは、大聖人様の御法体であらせられる三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊様を流布することです。

大聖人様は末法に広宣流布すべき法門として、三大秘法を打ちたてられ、御在世中に本門の御本尊を御図顕されて、本門の戒壇の御建立を御遺命されています。
   (以下略)

 それで少しお尋ねしました。

 と73さんはおっしゃってますが、本門戒壇の大御本尊の広宣流布、とはどうやって?
 まさか世界中持ち回りで移動するとか?
 御近所さんの回覧板じゃあるまいし。
 たった一つしかないものを、どうやったら世界に広められるのですか?
 やはり「御形木」を作って?
 でも御形木を作った段階で、本門戒壇の大御本尊、ではなくなりますよね。
 この理屈、もちょっとわかりやすく、説明してもらえますか?
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 宗門は本門戒壇の大御本尊にこだわります。だから「宗門は、何を広宣流布するのか?」と尋ねられて、簡単にいつものように答えたのだろうと思います。だから、この文の中にある矛盾にも、全く気がついていなのでしょう。
 
 以前、法華講と学会員の法論で、学会の御形木御本尊を否定するような発言がありましたが、これは時代性を無視したものだ、と感じたのを覚えています。 
 世界に大聖人の仏法を広めていく限り、御本尊をどうするかは、とても重要な問題になる、と思うのです。
 本気で広宣流布をしようとしたら、その数は相当なものになるでしょう。それを全部常住御本尊でなければだめだ、と言ったら、これは広宣流布はできません、と言っているようなものです。法主が、いくら書写係だからと言って、その数には限度があります。
 たとえ二人がかりで頑張っても、たかが知れているでしょう。

 それに、以前常住御本尊を安置している家庭がありましたが、仏壇のサイズが追い付かなくて、結構粗末な扱いになっていました。

 そもそも日蓮大聖人は何を広宣流布されようとしたのでしょうか。
 御書には、次のようにあります。

 『涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。 (諌暁八幡抄 587頁)』

 大聖人の目的は、一切衆生に南無妙法蓮華経を持たせ、絶対に幸福にしていく、というものだったはずです。決して、本門戒壇の大御本尊の押し売りではなかったはずです。
 どこにいても、何がなくても、ただ南無妙法蓮華経と唱えて、一人一人が人間革命、宿命転換をして行くことが、大事なはずです。
 法華講の人が言うような、本門戒壇の大御本尊の広宣流布、は何を、どうやって世界に広めていくのか、きわめて不可解と言えるのではないでしょうか。

 もし、本当に本門戒壇の大御本尊を世界に広めたいのだったら、飛行機でもチャーターして、巡回でもする、というのでしょうか。
 それでも世界中の人に拝ませるのは不可能です。

 『日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。(報恩抄 328頁)』

 大聖人は、広宣流布の時を、こう仰せです。『有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし』なのです。

 結局広宣流布と言っても、人に帰着するのだと思います。御本尊はあくまでも題目を唱えるための縁として、必要なのではないでしょうか。

オオイシテラ

2008-05-03 09:20:39 | Weblog
 昔、静岡県の、富士が美しい姿を見せる場所に、大石寺、という寺がありました。
 タイセキジ、と読みます。でも、私のパソコンでは、何度打っても、きちんと変換してくれないので、仕方なくオオイシテラと打っています。

 昔は風格のあるお寺でした。
 そのまたずっと昔は寂れた田舎寺だったそうです。

 私が最初にそこに行った時のオオイシテラは、重厚で、質素な、生命が洗われるような、凛とした空気に満ちた場所でした。
 行く度に整備されて、建物が増えて、しかしすべてが信仰の対象のものでした。決して華美なものはなかったのです。


 平成になって、大きく時代が動いた時、オオイシテラでも大きな動きがありました。
 そこの住職(御法主上人猊下様と言うのだそうです)が自分の気に入った者だけしか、この寺に参詣してはならない、参詣したかったら末寺の許可をもらって来い、それ以外は許さん、と言って、多くの参詣者を切り捨ててしまったのです。

 最後の登山会、多くの人が名残りを惜しむかのように、オオイシテラに押し掛けました。
 富士宮駅を取り囲んで、長い長い人の列が続きました。

 でも、その時、すでにわざわざ参詣しに来るところではない、と思った人もいました。質実剛健な信仰の息吹は姿を消し始め、瀟洒な京なめりのはんなりした姿が現れ始めていたからです。

 オオイシテラには昔、正本堂、という建物がありました。
 多くの人たちが、三大秘法の最後の一つ、本門の事の戒壇が立つ、と言うので、生活を切りつめ、子供たちは小遣いをためて、一所懸命御供養をして、願主には当時の創価学会会長がなって、当時の建築技術のすべてを結集して建ち上がったものです。
 大きく反った屋根は、富士の裾野に鶴が舞い降りたような、優美で力強い姿をしていました。

 正本堂が建って、最初に登山した時、自分のわずかな御供養は、この建物のどこに使われたんだろう、と誰もが思ったはずです。
 敷石の一枚か、基礎のコンクリートか、窓ガラスか。
 どこでも良い、自分の御供養によって、この正本堂は建ち上がったのだ。確かにあの御供養は、この建て物に使われたのだ。
 正本堂は、我々のものだ。確かな、民衆立の戒壇なのだ。
 この満足感で、人々はオオイシテラに参詣したのです。

 しかしその寺の住職は、信徒の純粋な思いの欠片も感じていませんでした。
 贅沢に慣れきった住職は、やがて一千万信徒の幸福など無視して、一方的に破門して来たのです。
 お寺があるんだ、多くの者が自分につくはずだ、との思惑からです。

 しかし学会員の思いは、住職のそれとは違っていました。宗門は破門したつもりかもしれないが、我々にとって不要な存在がいなくなっただけだ。それぐらいにしか感じなかったのです。

 もっと言えば。長い仏教史の中で、僧の時代が終わって、俗の時代が始まった、まさに世界広宣流布の幕開けが、破門の時だったのです。

 その後、住職はさらに暴走して、大金をはたいて正本堂を破壊してしまいました。しかしびくともしなかった基礎までは壊しきれず、その上に、何ともお粗末な奉安堂と言うものを建てたのです。
 
 桜も切りました。
 ともかくここの住職は、生きている物が大嫌いなようです。

 オオイシテラに行かなくなっても、信心に何の変りもありません。むしろ深まったでしょうか。
 形式を捨て、純粋に信仰に励めるようになったからです。

 完全な別宗教となったオオイシテラは、さらに贅沢に拍車をかけ、境内を作り直し、観光地としてはいい場所になってきているようです。

 世界に開いて行く創価学会の、かつては足手まといだったお寺を、今、一体誰が懐かしがっている、と言うのでしょうか。