『問う、権教邪宗の証文は如何。既に真言教の大日覚王の秘法は即身成仏の奥蔵なり。故に上下一同に是の法に帰し、天下悉く大法を仰ぐ。海内を静め、天下を治むる事、偏に真言の力なり。権教邪法と云う事如何。
──(中略)──
如来の金言経文を尋ぬ可し。証文無くんば、何と云うとも法華誹謗の罪過を免れず。此の事当家の肝心なり、返す返す忘失する事勿れ。(読み易いように句読点、改行を加えました)』
『真言見聞 (143頁)』にある文の抜粋です。
前段の質問、誰だと思いますか? 大聖人様と法論している真言師の言葉のように見えるでしょう。ところがさにあらず。意外にもこれは、三位房の質問なんです。
現在で言うならば、教学部長待遇だった三位房が、自分が法論して突っ込まれた事を、大聖人様に尋ねているのでしょうが、真言宗を持ち上げて、法華経を馬鹿にしているように見えませんか。
三位房にしてみれば、当然の疑問を大聖人様に質問したつもりなのでしょうが、見事に三位房の命の奥を表してしまっているのです。
三位房は教学研鑽のために、京に上った経験を持っています。その時真言師と法論をしたのでしょう。また大聖人様から『田舎法師にもあらず京法師にもにず(法門申さるべき様の事 1268頁)』と指摘されたように、京の雅に影響を受けて、鎌倉人でも京人でもない、中途半端なおのぼりさんになって鎌倉へ帰って来た模様です。
多分、京の僧等のまったりしたふぜいが、なんとも心地よくて、ただ信仰一点張りの大聖人様が、どうにもみすぼらしく、この人の弟子である事が、恥ずかしくなってしまったのかもしれません。
大聖人様を師匠と思えなくなった、その瞬間に、三位房は大聖人様の説かれた法そのものにも疑問を感じてしまったのでしょう。
信心に疑問を持つ、とはそう言う事ではないでしょうか。自分では、アンチや他宗の者に振り回されているつもりは無いのに、そのきらびやかな外見に惑わされ、粗末とも言える質実剛健な暮らしが、なんとも薄汚く、つまらない物に見え、師匠さえもが、外見どおりの劣った存在であるかのごとく勘違いをしてしまう。そしてそれを、当然の疑問で、不信なんかではないと思っている。誰が聞いても、そうだよね、おかしいね、と同調してしまう事でしょう。
しかしそこに不信の芽は芽生え、知らぬ間に大きく育っていってしまうのです。
三位房の失敗は、真言にも筋が通っているのではないか、と考える以前に、京の暮らしを鎌倉のそれよりも上だ、と思ったことにあったのではないでしょうか。その上等な暮らしをしている者たちが信じているものであるのなら、もしかしたら少しは正しい面も持っているのではないのか。
それが冒頭の質問になったのだとしたら、真言を破折するために大聖人様にその意味をお尋ねしたのではなく、本当に分からなくなってしまっていたのかもしれません。
それが後に大聖人様に敵対し、攻撃側に回ってしまう因となって行くのです。
それほど、不信は恐ろしいのです。
しかしそれぐらいの不信や疑問は、誰にでも、いつでも起こりえるものだと思います。
特に信心していない人の方が、はるかに立派に見えてしまったり、何時までたっても功徳が出ないと嘆いてばかりいたら、自分の命の中にある御本尊拒否の命が、どこまでも幅を利かせてしまうかもしれないのです。
一度湧いた疑問、不信を払拭する為には、相当な覚悟の祈りが必要です。生命は限りなく十界の下へ下へと行こうとする傾向を持っており、疑いの心は風船のようにどんどん大きくなっていく傾向を持つのです。
これは現代にも通じるでしょう。御本尊様を真っ直ぐに見なかったり、人の言に振り回されたり、功徳ちょうだいが通じなかったり、活動が重荷になったりした時に、人はもっともらしい理由をつけて、信仰の対象そのものに疑いを持ってしまうようです。
もし、疑問が出てきたら、すぐに信頼できる人に相談をし、納得行くまで話し合うことが大事になるでしょう。さらにその上で、不信を晴らすまでの祈りをすることが大事でしょう。
信心と言うものは、決して分かったつもりにならないことが大事なのではないでしょうか。どこまでも素直に、どこまでも謙虚に、求め切って行くことです。
鎌倉時代にも、途中で大聖人様の言われる事が信じられなくなって、離れて行った人はいます。
これらを反面教師に、生涯信心を間違わない事が、幸せの軌道を外れない、唯一の道ではないでしょうか。
──(中略)──
如来の金言経文を尋ぬ可し。証文無くんば、何と云うとも法華誹謗の罪過を免れず。此の事当家の肝心なり、返す返す忘失する事勿れ。(読み易いように句読点、改行を加えました)』
『真言見聞 (143頁)』にある文の抜粋です。
前段の質問、誰だと思いますか? 大聖人様と法論している真言師の言葉のように見えるでしょう。ところがさにあらず。意外にもこれは、三位房の質問なんです。
現在で言うならば、教学部長待遇だった三位房が、自分が法論して突っ込まれた事を、大聖人様に尋ねているのでしょうが、真言宗を持ち上げて、法華経を馬鹿にしているように見えませんか。
三位房にしてみれば、当然の疑問を大聖人様に質問したつもりなのでしょうが、見事に三位房の命の奥を表してしまっているのです。
三位房は教学研鑽のために、京に上った経験を持っています。その時真言師と法論をしたのでしょう。また大聖人様から『田舎法師にもあらず京法師にもにず(法門申さるべき様の事 1268頁)』と指摘されたように、京の雅に影響を受けて、鎌倉人でも京人でもない、中途半端なおのぼりさんになって鎌倉へ帰って来た模様です。
多分、京の僧等のまったりしたふぜいが、なんとも心地よくて、ただ信仰一点張りの大聖人様が、どうにもみすぼらしく、この人の弟子である事が、恥ずかしくなってしまったのかもしれません。
大聖人様を師匠と思えなくなった、その瞬間に、三位房は大聖人様の説かれた法そのものにも疑問を感じてしまったのでしょう。
信心に疑問を持つ、とはそう言う事ではないでしょうか。自分では、アンチや他宗の者に振り回されているつもりは無いのに、そのきらびやかな外見に惑わされ、粗末とも言える質実剛健な暮らしが、なんとも薄汚く、つまらない物に見え、師匠さえもが、外見どおりの劣った存在であるかのごとく勘違いをしてしまう。そしてそれを、当然の疑問で、不信なんかではないと思っている。誰が聞いても、そうだよね、おかしいね、と同調してしまう事でしょう。
しかしそこに不信の芽は芽生え、知らぬ間に大きく育っていってしまうのです。
三位房の失敗は、真言にも筋が通っているのではないか、と考える以前に、京の暮らしを鎌倉のそれよりも上だ、と思ったことにあったのではないでしょうか。その上等な暮らしをしている者たちが信じているものであるのなら、もしかしたら少しは正しい面も持っているのではないのか。
それが冒頭の質問になったのだとしたら、真言を破折するために大聖人様にその意味をお尋ねしたのではなく、本当に分からなくなってしまっていたのかもしれません。
それが後に大聖人様に敵対し、攻撃側に回ってしまう因となって行くのです。
それほど、不信は恐ろしいのです。
しかしそれぐらいの不信や疑問は、誰にでも、いつでも起こりえるものだと思います。
特に信心していない人の方が、はるかに立派に見えてしまったり、何時までたっても功徳が出ないと嘆いてばかりいたら、自分の命の中にある御本尊拒否の命が、どこまでも幅を利かせてしまうかもしれないのです。
一度湧いた疑問、不信を払拭する為には、相当な覚悟の祈りが必要です。生命は限りなく十界の下へ下へと行こうとする傾向を持っており、疑いの心は風船のようにどんどん大きくなっていく傾向を持つのです。
これは現代にも通じるでしょう。御本尊様を真っ直ぐに見なかったり、人の言に振り回されたり、功徳ちょうだいが通じなかったり、活動が重荷になったりした時に、人はもっともらしい理由をつけて、信仰の対象そのものに疑いを持ってしまうようです。
もし、疑問が出てきたら、すぐに信頼できる人に相談をし、納得行くまで話し合うことが大事になるでしょう。さらにその上で、不信を晴らすまでの祈りをすることが大事でしょう。
信心と言うものは、決して分かったつもりにならないことが大事なのではないでしょうか。どこまでも素直に、どこまでも謙虚に、求め切って行くことです。
鎌倉時代にも、途中で大聖人様の言われる事が信じられなくなって、離れて行った人はいます。
これらを反面教師に、生涯信心を間違わない事が、幸せの軌道を外れない、唯一の道ではないでしょうか。
三位房は、男性の誰もが持っている傲慢で、気位の高い、人を見くびる典型的な性格だったようですね。ちょうど元理事長で、公明党の初代委員長だった原島宏治氏の息子で、忘恩の反逆者、原島 嵩と二重写しに見えますね。
彼は小生と同じ年齢で、学校も早稲田大学ですが(小生はDrop Out しました)、親の七光りに支えられて、トントン拍子に役職が上り、教学部長に就任しましたね。彼の周りの幹部もお世辞こそ言っても、おそらく意見を言う人がいなかったのでしょう。そして、生来の酒好きがこうじて、山友の術中に嵌って退転し、先生の大恩を踏みにじって、凡そ人間にあるまじき言動の反逆者に者になりました。
生前、女房が言っていました。『あなたはワセダを中退して、よかったですね。そうでないと原島嵩のようになっていたかも知れないから』と。
ともあれ、市丸さん!益々のご活躍を期待しております。
ご主人、ご家族ともども、お身体には十分にご自愛下さい。
三位房も原島嵩も、偶然の一致でしょうか、どちらも教学部長です。
頭だけは良かったけど、心が付いていかなかった悲しさ、自分を律する事が出来なかったのでしょうか。
奥様、素晴らしい方だったのですね。私の大先輩になるのでしょうか。信・行・学に真面目に取り組まれた、奇麗な心の方だったのだろうと想像できます。
そしてそんな奥様と長年連れ添ってこられた斉藤さんも、素晴らしい信心の先輩なのだと、尊敬申し上げます。
学会草創期の事、知らない人がほとんどになりました。
どうぞ、齋藤さんの体験、これから大いに語って下さい。
語り継ぐのが、使命だと思って、私もこのブログを始めたのですが、草創期の事は、親の信心を通してしか知らない世代です。
これから、ますますの御活躍、お祈りいたします。
実は、小生とは、およそ桁外れの純粋で強信な、今は亡き女房と結婚できたのは、姉と母の計らいです。
確かに一家が全員入会したのは、小生が夢破れ、大学を中退して大阪に戻り入会したのがきっかけで、母も姉も弟も入会しました。勿論!小生が折伏したのです。
昭和35年、先生が三代会長に推戴された年です。
でも、それで小生の使命は済んだとばかり、それからは仕事一点張りで、学会活動は殆ど姉と母の二人でした。ですから今でも女性には一目も二目も置いているのです。否、置かざるを得ないのです。先生も仰っていますね。『今の学会の隆盛があるのは、女性の方々に負うとことが大きい』と。
市丸さん!あなたもまさしくその一人であられます。
どうか、今後も益々のご活躍を祈っております。
実は私は芸術部(書家です)に長くいるのですが、長く見ていると二つのタイプに大別できると思います
1、無名の時から仕事や修行に励み、信心、活動にも積極的。
有名になり、専門で実証を示した後も 信心の姿勢は全く変わらない。庶民的、純心
………………………
2、無名で苦しい時代は題目もあげ、活動も頑張るが
功なり名を遂げると 今度は組織の先輩や仲間をバカにし睥睨する
しまいには勤行もやらなくなり、退転反逆する
2の根底の心理は三位房と変わらないと思います。
華やかな世界に気をとられ、また ドロドロした人間関係に嫌気がさし、
学会の団結や仲間を そして師匠をバカにする。
学者、議員、財界、官僚 あらゆるメンバー
に通じますよね。 いよいよ人間は謙虚に作品は大胆に、やらねばと思います。
潮に連載中の饒宗頤博士と池田先生の 対談を繰り返し読んでます。
一生勉強であり、またこの一瞬、一点が勝負でもありますよね。
三位房に象徴される命、これは誰にでもあるものですね。
風神は現在、「法」に対しての探求の旅の渦中ですが、「人」に対しては、一切、云々はしません。もちろん、個人名を挙げては言うに及ばず。「人」を云々したら、それだけで一生が終ってしまうからです。
「あいつは信仰をしているくせに」「こいつは○の役職のくせに」・・・と若い頃は意気盛ん、血気盛んさに任せて、色々と生意気なことがありましたが、ある程度年齢を重ねてくると「違う」と気がつくものですね。
人が人を論ずる時、自分の事は棚に上げてしまうものです。
ある時、決意しました。
せっかく人間として産まれ、妙法に縁したのだから、不軽菩薩となって万人の仏性を礼拝して、礼拝しぬいて、みんなに妙法の喜びを伝え抜いていこう!
これでスッキリしました。以来、気持ち悪いぐらいと女房に言われるぐらい、笑顔が絶えません。
思い起こせば(これも生意気かもしれませんが)「あまりにも多くの経験をしすぎてしまった」という人生でもありました。掲示板での投稿等を見て頂ければ、その一端を理解して頂けることと、思います。
今はそういった経験も全て「金の思い出」です。また、これからも「思い出」と記憶されるほどの、「人生の困難」を次々と経験することになるのでしょう。
いつも長文を書き込んで、色々と理屈を並べる風神ではありますが、内面構造は至って簡単。
信心根本は当然として「池田先生」という一点です。あまりにも巨大すぎる大人格者であり、どこまで師匠の境涯に迫れるか?残された時間はわすが、真剣勝負の日々です。
今、風神は本来の○○○○という人物ではなく、風神と化して歴史の中に生きているという実感と喜びでいっぱいです。
今回は三位房を書いてくださったのは、風神にとってもタイムリーでした。
三位房にならないように、原点をいつも確認しながら、生き抜いていきましょう!
この記事は、どうしても書きたかったものの一つです。
三位房の命は、すべての人の中に存在する、傲慢や不信の象徴だと思っています。
当然、私にもあります。
人の生命が一念三千である以上、免れない事なのでしょう。だからこそ、きびしく自分を律し、御本尊様へ師匠へ、と言う命を磨いていかないと、誰でも知らぬ間に、アンチになっていく可能性はある、と言うことです。
信じる命には意思の力が必要です。
疑うのは本能です。
だからこそ、自身の境涯を高めていかないと、信心そのものがきつくなってしまう事もありえる、と言うことでしょうか。
そのための同志であり、組織です。
疑いの命が起こった時、同志の存在がありがたいのです。
もっと言うなら、自分自身が、疑いを起させる側には、絶対になりたくない、と言うことです。
お互い、磨きあっていく同志でありたいですね。
今日は自分の意見というよりも・・・
>不信や疑問は、誰にでも、いつでも起こりえるものだと思います。
>一度湧いた疑問、不信を払拭する為には、相当な覚悟の祈りが必要です。生命は限りなく十界の下へ下へと行こうとする傾向を持っており、疑いの心は風船のようにどんどん大きくなっていく傾向を持つのです。
>もし、疑問が出てきたら、すぐに信頼できる人に相談をし、納得行くまで話し合うことが大事になるでしょう。さらにその上で、不信を晴らすまでの祈りをすることが大事でしょう。
>信じる命には意思の力が必要です。疑うのは本能です。
・・・・
以上の言葉,本当に大事な事だと思いました.それで有り難いと思って,それだけで私がとくにこういう意見を,という事は無いのですが,とにかく改めて肝に銘ずるべきものと思い,有り難いと思って,感謝したくコメントさせていただきたくなりました.
個人的な事ながら,今日は月2回ある平日の休みでした.日常はその勤務形態からどうしても自宅へ帰ってから自分で決めている,勤行・唱題・御書研鑽となるとどうしても夜中3時頃になってしまうのですが,仕事内容の増加もあり,もともと極端に睡眠時間が短い者ながら.身体のきつさをだんだん大きく感じていました.
それが,先日久しぶりにたまたま日があい座談会に出られましたが,幹部の方がその辺りの事を聞いてくれて「それならばお守り御本尊を・・・」という有り難いことになり,本日頂いて参りました.これで勤務の合間(待機時間が長いのです)にも勤行唱題をと喜んでおります.
生命を下に行かせぬよう,疑いを大きく膨らませぬように少しずつでも祈っていきたいと思います.
市丸さんいつもありがとうございます.
午前はそのことで会館に行き,夕方はここ静岡で創価学会女性平和委員会主催による「平和の文化と子ども展」に行き・・・この展示はまたこれでとても価値あるものでした.それで久しぶりに有意義に休日を過ごせました.
人医さんの求める一念が、御本尊様を引き寄せたのでしょう。
しっかりお守りしていって下さい。
幾つかの掲示板を見ていると、学会に対する悪口の多さに驚きます。その内容も千差万別、のように見えますが、実は根は一つ。
嫉妬による学会憎し。
学会の事は、内部から約半世紀見て来ましたが、言われるような悪い事はありません。
もし学会員が人を不幸に陥れたり、人の不幸の上に自分の幸せを築こうと思ったとしても、それはありえないのです。なぜなら、人を不幸にした分は、きっちりと自分の命で償っていくのが、学会の厳しいところだから、今幸せに生きている人には、やましいところは無かった、と断言できるのです。
世間に禁じられている事をして、自らの命で償ってきた人を、何人か知っています。
それほど厳格な宗教を信じていることに、誇りを感じます。
学会はやった者勝です。
その事は、やってみれば分かります。
分かるまで、やり通して行きましょう。
アンチに関してですが,私にはどうしても理解出来かねるのです.
私が興味を持ちコメントもしたアンチのサイトがあります.
今,この市丸さんのところを訪れる直前に,久しぶりにそのブログを訪れました.すると,相変わらず“やっている”のです.・・・なんというか・・・「ご苦労様」では嫌みだし.「良くやっていますね」というのも応援でもなし,やはり嫌みだし.とにかく,どう表現して良いかなという気持ちを感じます.なんかやるせないような・・・
彼(彼ら)は一所懸命,いろいろな理屈をつけて「学会は危険だ」「学会は間違っている」と毎日のようにやっている訳です.
私はそのブログを知った,一番最初に素直な疑問「なぜあなたはこんなに一所懸命このブログを運営しているのですか」と尋ねました.
すると返ってきたのは
「自分自身(さらには他人)のマインドコントロールをとく為」
「創価学会に関係して不幸になって欲しくないから」
「創価学会は政治結社で・・・国を破壊している」とまず3つ返ってきました.
それから何でもこの方は「自分の病気が信心しても全く良くならなかった」とのこと.
私はそれぞれ少しずつ,“違うのではないですか”と意見を言いました.
少しずつというのは,感情的になられて問いかけが終わってしまったのを危惧したからです.
もっとも真っ向から議論をする気持ちははじめからありませんでした.そうしたところで何も生みださないと容易に想像出来たからです.
1つ目のことには「もう自分をそのマインドコントロールから解き放っても良いのでは無いですか」とも書きました.ただこれはちょっと私の言葉に無理があるかもしれませんね.この方は罰だの地獄を恐れているのですし,まさにすでにこのマインドコントロールから逃れる為に苦しんでいる姿が地獄そのままを示していて,解き放つにも解き放てないでいるようですから.
2つ目の事には「信心して幸せになっている方が多く居ますし,それでも確固とした信仰心となっていない方には,せっかく精神の安堵を得たのにまた余計な不安を抱かせる場合があること.つまり不幸になるのをとどめているのでなく逆に不幸の場に戻している方も多いのでは」と申しました.これにはおかしな第3者が入って来て,そのおかしな意見を肯定した様な意見でしたので,その時点で,話にならないと思いました.
3つ目は,敢えて説明する事も無いですね.
この方のいろいろな意見を読みましたが,一言で言えば,まぁよく自分の意見を言いたいが為にいろいろな理屈をもってきていると思いました.インテリジェンスのそんなに悪い方では無さそうですが,インターネットの良くも悪くもある事ですが,意見がいろいろな所に散らばっていて,一つの体系だったものとしては把握し辛いのですね.少なくとも,その一つ一つの多くは今迄の繰り返された事の蒸し返しで,敢えて反論する気にもならない事ばかりでしたし,言っていることに無理があるものが多いようでした.批判をする為のものは全て利用しているようでもあり,少し,批判としては真摯な態度では無いのではとも言いました.もっとも,反対意見をいうものは大概がそういうものですし,そういう方に真摯な姿勢を望む事が無理な事とも思っています.それに,こうした無理を持ってこなければ,批判もそうはできないでしょうし.
あとは,言葉の一片だけ取りだして(その前後や背景を無視して)批判をしているもの,公明党絡みで批判しているもの,などなどでしょうか.とにかくよくこれだけの材料を集めてきたなぁとは思いました(今迄の理由で半ば呆れながらですが).
それでもとにかく,やっぱり私には不思議なんです.途中でこの方はマインドコントロールから離脱出来つつあるようにも思えましたし,それならば,勢いが収まるのかと思えば,そのようでもなし,学会員の意見に反駁するのをレーゾンデートル(=自分の存在価値)に置いているようにも思えましたし.
とにかく,実に勿体無い事だと思いましたので「他のもっとこれからの人生に有効な方に力を注いではどうですか」とも書いたように思いますが,無駄なようでした.
市丸さんおっしゃるように嫉妬が根本なのでしょうか.日顕の類いと同じ穴のむじななのでしょうか.この方達にはこれ以外にする事が無いのでしょうか.未だ分かり難い,理解出来ないことなのです.
私のように仕事に忙しい身にはある意味羨ましく,もっと大きくは大変可愛そうにも思えます.いつか目を覚ます時が来ればいいと思いますが・・・
ただ,間違いなく言える事は,このように批判している方達はどう想像してみても,幸せな充実した人生の時を送ってはいないのは間違いないことですね.
逆に,批判されている我々は,皆それなりに喜びだけでなく,苦労があっても,少なくとも頑張って充実した生を過ごしていますよね.
批判,破壊・・・それらは何をも生み出さない.
創価学会員は,その名のごとく価値を日々見出して,自分にも,人にも責任を持って生きていく.
同じ人として人生のときを過ごしながら,この差は大きすぎますね.
(もうこういう意見の時のこのブログの主催者の意見が聞こえてくるようです.「創価学会員は自分たちだけ正しいと考えている」「反省をしない人々」などなど)
でも答えは現在をみても分かりますね.どちらが人として幸せかです.それが全てです.それを考えれば,それ以上言う言葉はもうないと思います.
私がまだブログを始めるだいぶ前で、退転の理由を、病気が治らなかった責任を、学会がとってくれないからだ、と言うような事を書いていました。
学会は自分の病気に対して、何もしてくれなかった、14年間信心したけど、治るどころか悪くなった、このこと、どうしてくれる、と言うような事だったでしょうか。
私は、生き方の責任を自分の内にあると取るのか、自分の外にあると取るのか、そこにすべての出発点があり、外に取ったら何も変わらない、と言うような事を言ったと思います。
結局は更なるアンチの道を貫いて、今ではアンチである事を誇りに思っているのではないかいな、と言うようになってしまったみたいですね。
御自分では、学会の中では相当やった、と思ってあるみたいですが、結局のところ信心の何たるかが分からないまま退転の道を選んでしまったのでしょう。
一時はロムしていた事もありましたが、ためになるものは何もない、とお気に入りから削除しては、ほとんど見てもいません。可愛そう、と思ったこともありましたが、所詮、功徳を受けそこなった恨みだけを、生きるエネルギーにしているような人です。
何で辞めた宗教にここまで未練を持つのか、不思議です。
ただどんなにアンチが喚こうと、学会員が学会によって得た功徳、宿命転換の現実は、変わるものではありません。
これを知らないから、どうとでも言うのでしょうが、本当はこれほど損な人生も珍しい、と思います。
こんな人生をよしとする人達と言うものは、私の理解を越しています。
仰るとおり、理解不可能な生き方をしている人たちです。
ただ、人それぞれの生き方があるのですから、自分の人生は自分の責任において全うするしかないのでしょう。