市丸の雑記帳

創価学会婦人部、市丸の個人ブログです。記事本文、コメント共に、無断転載・引用お断り。誹謗、中傷は即削除します。

諸行無常

2007-07-15 13:50:11 | Weblog
   祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。 
   おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
   たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 有名な『平家物語』の冒頭の文です。高校生の頃、この部分は暗記していました。
 この中にある「諸行無常」と言うことが、一体何を指しているのか。確か授業では、この世の全ては無常であるから、執着してはならない、その程度の事しか教えてもらわなかったように思います。
 
 この世は無情だから、執着してはならない。
 一見なるほどと思います。どうせ死ぬ時は何も持っていけないのだから、どんなに財産に執着しても、それは一睡の夢に酔っている様なものでしかないのかもしれません。だからそんな〃物〃に執着して、空しい一生を送るのは、愚かな事だと言えば、言えるでしょう。

 しかし仏と言われるほどの頭脳の持ち主が、そんな分りやすい事を大仰に言うものでしょうか? 知恵第一と言われた舎利弗。この人物が、どれほどの頭脳の持ち主だったか、私たちは知りません。しかし知恵第一、と言われるのだから、半端なものではなかったでしょう。
 そんな人が、わざわざ執着心を捨てなさい、と言われなければならないほど、物分りが悪かったとは、どうしても思えないのです。

 仏は、何を言わんとして、諸行は無常である、と言ったのでしょうか。
 それは現世に執着心を持って、生命の全体観に立てない事への戒めだったのではないか、と私は考えています。

 現世への執着。それは死への恐怖、と言っても良いでしょう。
 しかし生きとし生きるものは、必ずいつかは死にます。
 この世に絶対と言うものがあるとすれば、それは死ぬ事でしょう。これは百パーセントです。何千年も生きてきた樹木でさえも、最終的には朽ちて死んでいくのです。地球も太陽も、その存在は永遠ではありません。
 そんな無常のものに執着して、その奥にある真理、生命の永遠性を知らずにいたのでは、あまりに空しいではありませんか。だから仏は、諸行無常、とまず一切を切り捨て、その後、それでも絶対に失われる事のない常住を説くのです。

 諸行は無常である。しかしその奥に、疑っても疑っても疑いきれない常住のものが厳然と存在する。その常住の法に我が生命を預けよ。
 仏が最終的に説きたかった法華経こそが、その常住を指し示すものだったのです。

 生命の永遠性。
 それが分らないと、今の生を享受する事に囚われ、余りにも刹那主義に陥ってしまう恐れがあります。謙虚に自分の生命を見つめられず、利己主義に陥ってしまう恐れがあります。

 諸行無常と言う教えは、実は生命の常住性へと導くためのアプローチだったのです。それが分らないと、人生そのものが変な方向へ向いてしまう恐れは十分でしょう。

御書の拝し方

2007-07-08 11:30:02 | Weblog
 法華講の方が管理人をしてある掲示板を覗いてみて、同じ御書を読んでいるのに、学会の教学と、宗門の教学では、何かが違っている、と感じました。

 御書を拝読する時、時代背景や対告衆を考えるのは、当たり前すぎるぐらい当たり前の前提です。それを、いちいち考えなければ御書が読めない、とする法華講の言い分は、読んだことがないのに、読んだように見せる為のカッコつけ、箔付けの言い分以外、何もありません。

 しかし時代背景等に囚われていては。御書は現代に生きている我々の血肉とはなりません。
 創価学会代二代会長戸田城聖先生の仰られたように、『その通りでございます』と拝する謙虚さが必要なのです。
 御書に書かれていることを、大聖人のお言葉として、そのまま信じて拝する、そうすることによって、御書は自身の生命の変革をも成し遂げる一書となってくるのです。
 その拝読の仕方が出来て、初めて御書は人生の指南書となりうるのです。

 ある御抄を拝読した時の体験です。

 その御書は、大変有名なもので、それまで何回も拝していました。その形は、一節の時もあったし、全文の時もありました。
 いつもすらすらと読んでいました。

 御書全編拝読を決めて、何回目の時だったでしょう、その御書の一節に、目が止まってしまいました。それは私の一凶をずばり衝くものだったのです。
 私は何度もその部分を目で追い、声に出して読みました。そこから一寸も進めなくなったのです。

 実はその日の拝読予定は、いつものペースなら、後一~二ページは行くつもりでした。しかしもう、その日、それ以上読み進める事は出来なくなってしまったのです。
 以来、その御書は私にとって大聖人様から直接頂いたお手紙となりました。
 と同時に、御書全体が、大聖人様の直接のお言葉となったのです。

 何かあったら、御書に還るのが、信心の基本です。それを忘れた時、信心は止まってしまいます。また、御書に我見を入れて読んだ時、大聖人様を御本仏と取れなくなってしまいます。
 素直に、一心に、ただそのままに拝し、しかし御書の講義になると自在に、琴線に触れるものとして行くことが、私は御書を拝読できた事になるのではないか、と思っています。

 長野法論以後、法華講の方が、何をどう言っても、この拝読の仕方を知らない事を白状しているだけなので、むしろ哀れだとさえ思ってしまうのです。

 学会員でよかった。
 改めて実感している今日この頃です。

創価学会と日蓮正宗

2007-07-05 00:24:08 | Weblog
 それぞれが日蓮大聖人を本仏に立てた、違う宗教団体だということが、より明確になりました。
 南無妙法蓮華経と唱える宗教団体は、鎌倉時代から続いてきたものから、最新のものまで、実に沢山あります。
 創価学会もその一つ。
 日蓮正宗もその一つ。

 ただ、日蓮正宗は、代表が68人も代わってきたため、途中で変った方もいた、と言う事実があります。その最も変った方が、67代目の方で、宗門史を一掃したのですね。
 つまり、最大の信徒団体の破門。

 つまり、日蓮大聖人の広宣流布の流れに逆行した67代目は、新たな宗祖として、自分を立てたのです。古い酒樽に、全く違う酒を入れたのです。

 だから、御書部分論だの、大聖人の御真筆であろうと、法主の開眼がなければただの魔札だのと言うことを、平気で主張できるのです。

 弟子は限りなく師匠に近付きます。
 日蓮正宗の方たちは、限りなく67代目に近付き、創価学会は在家宗教として、民衆の中に入り込んでいくのです。

 在家宗教は、本尊の前に平等です。
 平等に、功徳を受けていけるのです。

 私はそう解釈しています。