市丸の雑記帳

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修羅の境涯

2007-03-12 22:52:49 | Weblog
 まず、境涯と言う事から、少し説明いたします。境涯は境界とも書き、仏法で言う所の、十界のどこに生命が属しているかを言うのです。
 十界とは生命を十のカテゴリーに分類したものです。一般社会で言うところの境涯は、むしろ境遇の事を指していて、仏法で言う境涯とは若干異なっています。
 境遇は、見えるまま、その人の生活能力や経済状況、つまり、外面に現れたものを指します。
 対して、境涯は、基本的な生命の状態。表には出ない、作家宮本輝氏の表現を借りれば『命の器』と言う事になりましょうか。
 境涯と境遇は良く混同されます。

 十界とは 地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天 声聞 縁覚 菩薩 仏 以上を言います。

 長くなるので、今回は、最も分りやすい修羅に限って説明します。

 修羅とは、捻くれて曲がった命、他人を見下す意地汚い心のことです。人の不幸をあざ笑うのも、この命の現れです。他人に勝つことばかり考え、自分を亡ぼす事も厭わず、戦いを挑みます。帝釈に挑んで破れる阿修羅の如くです。

 修羅の生命の強い人は、自分をとても大きい存在だと思ってしまうようです。全てをなぎ倒して君臨しているように考えて、自分を中心に地球をぶん回しているような錯覚さえ持ちます。持ち上げられればどこまでも舞い上がり、少し本質を突かれると、異常なまでに反論します。
 この反論は、それまでの君主的な言葉に比べ、正面突破でかかってきます。珍しく、敵を木っ端微塵に砕こうと、全知全能を傾けます。

 もし、何かの弾みで、自分のペースが狂ってしまうような人は、自分は修羅なのだと思った方が、正解でしょう。
 そしてこれも十界と互具していますから、修羅を基底部にして、現れ方は十界のどれかになります。しかしどの生命が現れても、基底の修羅は変わらないので、何に対しても突っかかり、打ち負かそうと言う本質だけは変わりません。丁寧に対処しようとすればするほど、修羅の生命は、誰からも見破られてしまいます。
 
 この生命に思い当たる人は、案外多いのではありませんか?

 『おごれる者は強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し。
                        佐渡御書  957頁』