市丸の雑記帳

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体験に美談なし

2007-03-01 10:20:03 | Weblog
 創価学会員の体験は数々あれど、その途中経過を一体どれほど当事者以外の人に理解できるものなのだろうか。そりゃあ結果だけみれば、美談にもなるし、カッコよくも聞こえるけど、その過程たるや、惨憺たるものだ。

 まず悩みが始まった時、とりあえずは決意する。一応信心をしているのだから、これを解決して信心の確信を掴もう、と思う。そしてとりあえず百万遍の題目を決意する。大部分の人が、期間を百日に定める。
 しかし一向によくなる兆しがないばかりか、だんだん状況が悪くなっていくばかりで、目標の三分の一、いや十分の一も行かないうちに、この問題を解決するのは、無理なのではないか、と言う思いが頭をもたげてくる。
 
 これを仏法用語風には「魔」が競ってきた、と言う。

 よくしたもので、大体この頃、周囲の誰かが、悩んでいる事に気が付いて、幹部の指導とやらに引っ張っていく。この時引っ張って行かれる先の幹部は、おおむね信頼があり、決して無茶を言わない人が多いのも確かである。
 しかし、幹部は自分の境涯で指導するので、受けるこちらにその器がない。
 ゛境涯゛が理解できないので、言われる事の全てが、絵空事に感じられてしまう。つまるところ、幹部不信に陥って、題目も辛くなり、諦めの気持ちばかりが強くなる。
 念仏の命丸出しの状態で、苦しさばかりが募っていく。

 しかし苦しんでいるのは自分である。先輩でもなければ幹部の人でもない。どっちに転んでも、自分が何とかしなければならない状況に変わりはない。

 だから祈る。祈るしかない。祈るほどに苦しい。本来の問題以外にも、苦しむ材料が加わって、泣きっ面に蜂。

 実はここが分かれ道である。
 引き返すか進むか。
 
 引き返して、うやむやにした場合、とりあえず、その問題は、うやむやの内に解決している、かに見える。しかし、借金を返さなかったら、利子が増えているように、いずれ同じような問題が、より大きくなって襲ってくる。

 突き進むには、体力知力気力を奮い起こして、仏壇の前に座り続けるしかない。
 ひたすら苦行が続く。
 そしてある時、題目を唱えている自分の命が、苦しみから感謝に変わっていることに気づく。歓喜が湧き上がってくる。
 そしてこの時、指導してくれた幹部の言葉の正しさに、やっと思い至り、信心していることの意義が分るのである。 

 その一ヵ月後の座談会、ニコニコしながら体験発表をしている。
 この一瞬のみを見て、知らない人は美談と言う。
 
 本当は、その途中の苦しみこそが体験であるのだが、体験発表の中には、問題の発端と結果だけが語られる。

 これは本当に体験した人の心理の、ほんの一部でしかない。現実はもっと厳しく、つらい事が、かなりな長期間に及ぶ事が大部分なのだ。