市丸の雑記帳

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三世の生命

2007-03-23 09:41:22 | Weblog
 人は小さいものである。
 この宇宙の広さからすると、砂粒よりも、もっと小さいかもしれない。
 だから、この宇宙の前にひざまざき、謙虚にその声を聞く。

 人の一生は短い。
 久遠の時から考えると、瞬きよりも短いかもしれない。
 だから静かに時の流れの音を聞き、自らの生命の儚さの教えを請う。

 その謙虚さに、宇宙はその雄大さを示し、時はその遥けき流れを示す。

 もしも人の生命の中に、その謙虚さがなくなってしまったら、宇宙の広さからも、時の遠大さからも、何も学ぶものはなくなってしまうだろう。

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 生命は永遠である。
 この一点を見失うと、一切が無駄になってしまう。
 どれほどの苦しい修行も、遠大な教義も、甚遠な仏の言葉も、全て空理空論に感じられ、自分の存在そのものが、無力になってしまうのだ。

 生命は、何時から流れているのだろうか。
 宇宙の始まり。久遠元初。
 それは何時なのか。
 宇宙は無限か有限か。

 あるところに巨大な岩があった。
 そこに百年に一度、天女が降りてきて、その軽い羽衣で、岩を一撫でしていく。そして遥かな時の果てに、全てを撫でつくして、その岩が無くなった時、永遠と言う一つの時が終わる。

 この永遠を、その生命で分った人がいる。
 その人を、尊敬をこめて。仏と名づける。

 仏は、自らの悟りを、惜しげもなく衆生に伝えるが、疑いを起して迫害のみ加える。
 希に信じた者は、仏の生命に導かれ、自らも仏となる。

 この単純な理屈。
 
 信じる、とはこう言う事である。