創価学会に入会して五年を迎えようとしていた頃、小児麻痺で、首から下が不自由だった姉が死んだ。母の言葉を借りれば、やっと信心の腹が座った時だった。
母は、未発育で、小さなままに死んだ姉に向っていった。
「不自由な体になって、信心に付けてくれてありがとう。もう大丈夫だから。もう絶対に信心はやめないから。こちらの信心がしっかりするまで、頑張って生きてくれてありがとう」
家族の死というものが、悲しくないわけがない。ましてや子供に先立たれた母親の思いと言うものは、どれほどのものだったか、当時子供だった私には、知る由もなかった。
だが、家族全員に、重くのしかかるような悲愴感はなかった。からっとした悲しみ、肢体が不自由だった姉が、始めて手足を伸ばして眠れた安堵感みたいなものがあって、静かなペールにつつまれた様な安らぎさえ感じていた事を覚えている。
問題はその後だ。当時は宗門とも切れていなかったから、正宗寺院の住職が来てくれたのだが、「学会の坊主は、香典を持って行く。気をつけろ」と、まことしやかに囁く者がいたのだ。
何時からこんな事が言われていたかわからない。しかし姉の死は昭和三十年代の後半である。学会はまだそんなに大きくはなかった。にもかかわらず、すでに香典云々はあったのだ。
昭和六十年代になって、主人の家で葬儀を出した時は、「学会は香典を持って行くから、直接渡す」と主人に香典袋を手渡しにした者が、数人いた。
そんな事は絶対にない、と言って、主人は、そのまま袋を仏前に供えた。
さらに平成になって、主人の父と、私の両親と、計三回の葬儀を出している。
その都度、学会は香典を持って行く、そうだ、と言う囁きは消えなかった。
この間四十数年、学会は香典を持って行く、と言う事実無根の噂は絶えた事はない。
一体誰がこんな事を言い出したのか。それは信者が学会に入会して、食い扶持が減る事を恐れた他宗からと思われる。
数十年に亘って、学会員の葬儀には出席しているが、ただの一度として、そんな事があったためしはない。
しかし、今も何処かで、学会は香典を持って行く、と言う事が、まことしやかに囁かれているのだ。
すっかりそんなたわごとは慣れっこだが、一体何時までこんな作り話が続くのだろう。この世が終わっても、この手の噂はなくならないのかもしれない。
母は、未発育で、小さなままに死んだ姉に向っていった。
「不自由な体になって、信心に付けてくれてありがとう。もう大丈夫だから。もう絶対に信心はやめないから。こちらの信心がしっかりするまで、頑張って生きてくれてありがとう」
家族の死というものが、悲しくないわけがない。ましてや子供に先立たれた母親の思いと言うものは、どれほどのものだったか、当時子供だった私には、知る由もなかった。
だが、家族全員に、重くのしかかるような悲愴感はなかった。からっとした悲しみ、肢体が不自由だった姉が、始めて手足を伸ばして眠れた安堵感みたいなものがあって、静かなペールにつつまれた様な安らぎさえ感じていた事を覚えている。
問題はその後だ。当時は宗門とも切れていなかったから、正宗寺院の住職が来てくれたのだが、「学会の坊主は、香典を持って行く。気をつけろ」と、まことしやかに囁く者がいたのだ。
何時からこんな事が言われていたかわからない。しかし姉の死は昭和三十年代の後半である。学会はまだそんなに大きくはなかった。にもかかわらず、すでに香典云々はあったのだ。
昭和六十年代になって、主人の家で葬儀を出した時は、「学会は香典を持って行くから、直接渡す」と主人に香典袋を手渡しにした者が、数人いた。
そんな事は絶対にない、と言って、主人は、そのまま袋を仏前に供えた。
さらに平成になって、主人の父と、私の両親と、計三回の葬儀を出している。
その都度、学会は香典を持って行く、そうだ、と言う囁きは消えなかった。
この間四十数年、学会は香典を持って行く、と言う事実無根の噂は絶えた事はない。
一体誰がこんな事を言い出したのか。それは信者が学会に入会して、食い扶持が減る事を恐れた他宗からと思われる。
数十年に亘って、学会員の葬儀には出席しているが、ただの一度として、そんな事があったためしはない。
しかし、今も何処かで、学会は香典を持って行く、と言う事が、まことしやかに囁かれているのだ。
すっかりそんなたわごとは慣れっこだが、一体何時までこんな作り話が続くのだろう。この世が終わっても、この手の噂はなくならないのかもしれない。