市丸の雑記帳

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広布の母

2007-03-27 07:11:08 | Weblog
 先日、一人の婦人が霊山へ旅立たれた。
 享年七十九歳。
 創価学会に入会し四十五年、周囲の人の幸せのために、闘いきった生涯は、多くの人に讃えられた。

 救急車で病院へ運ばれて二十四時間後、全く家族の手を煩わせる事もなく、永眠されたその相は、色が白く、ふっくらと暖かく、柔らかく、生前よりも十歳以上も若く見えたと言う。

 この方は学会に興味を持ち、信心したいと思っても、夫の反対で入会できず、まず兄夫婦と母親を折伏し、その姿を見て、やっぱり学会には入りたいと、夫を説き伏せ、母親に遅れる事一年、晴れて入会した、と言う経緯を持ってある。
 この母親が、遠路尋ねてきては、まだ幼かった子供達を、活動に駆け回る彼女に代わって、面倒を見てくれたこともあったと言う。

 娘である友人は言った。
 「信心には厳しい母で、小学校の低学年の時から、夏休みなんて、午前中題目を上げないと、遊びにも行かせてもらえなかった。だから母が嫌いだった」
 「でも」と友人は言葉を継いだ。
 「とにかく題目のよくあがる人だった。夜中に何かで目が覚めた時なんか、よく題目の声がしていて、一体母は何時寝ているのだろう、と思ったことがあるぐらい。それと、母から愚痴、文句、悪口を聞いたことがない。それは絶対私の叶わない事」と。
 友人が、卒業して東京に就職した時は、寮生活では信心も出来まい、せめて娘の為に、と二人分の勤行を、戻るまでの数年間、続けていたと言う話も聞いた。
 子供の信心には厳しかったが、自らの信心には、さらに厳しい人だったのだ。
 「それがあったから、どんなに母が嫌でも、信心から離れる事はなかったのだと思う」
 友人の述懐である。
 
 彼女の住んでいた地域は、二回の宗門問題に大きく揺れた所でもある。幹部家族、議員、その他幾人もが学会を裏切って去って行った。彼女は一人でも幸せの軌道を外れることがないように、と必死で部員を激励し、学会の正しさを訴え続けた。歯ぎしりする様な思いで、学会の旗を振り続けた人であった。

 彼女の元には女子部も相談に来た。親が嫌いで、彼女に指導を求め続け、信心を確立して行った人もいる。一番頻繁に指導を求めていた一人が、息子の嫁になった。嫁は、最初の頃は、実母の影響で、何かあれば愚痴を言っていたが、何時しか姑である彼女の生き方を見習って、愚痴がなくなっていった。
 「義母は私の誇りです」
 葬儀の席で、嫁は言い切った。
 
 孫が出来てからは、孫に信心を教えることに一所懸命になった。結婚して家を出た友人の子供達も、彼女が大好きで、やはり信心は受け継いでいる。
 同居している息子の子供で、まだ小学生の女の子は、「創価学会の正しさを、世界中に叫びたい」とまで言う。

 葬儀は、県総合長が導師を勤め、県婦人部長の名誉称号が彼女に与えられた。 
 
 「孫全員でおばあちゃんの最期を送ったけど、あたかもそれは、信心の後継の儀式のように見えた」と友人は言った。

 出棺の前に、孫がクラリネットで「母」を演奏した。
 暗譜でフルコーラス、葬儀の席に「母」の曲が流れ、そこにいた誰もが涙した。


   母よ  あなたは
   なんと不思議な  豊富(ゆたか)な力を
   もっているのか
   もしも  この世に
   あなたがいなければ
   還るべき大地を失い
   かれらは  永遠(とわ)に  放浪(さすら)う

 
  合掌