御手洗経団連会長/雇用調整は企業論理に則った「予定の選択」、「苦渋の選択」は詭弁

2008-12-09 09:04:02 | Weblog

 「msn産経」記事によると、麻生首相が12月1日(08年)夕方、日本経団連の御手洗冨士夫会長、日本商工会議所の岡村正会頭ら財界首脳を官邸に呼んで、「雇用の安定と賃上げに努力してほしい」と平成21年春闘での賃上げと、非正規労働者を始めとする雇用安定化を要請したのに対して、御手洗会長は「雇用の安定には努力する」と応じたと言う。

 そう請合った御手洗会長の舌の根が多分100年ぶりの大旱魃並みにカラカラに乾いてしまっていたのだろう、3日後の12月4日、自身が会長を務めるキャノンの子会社大分キヤノンが受入れている請負会社従業員1100人を削減することが明らかになった。

 12月5日の「金融・経済・年金・医療」をテーマに集中審議を行った衆院予算委員会でも菅直人民主党代表代行が御手洗会長の「努力」表明に反する子会社の人員整理を麻生首相に問い質している。

 麻生首相の答弁――意味もないのに誰々と会ったと面会した者の名前を何人か上げたあと、「その席で、少なくとも企業で決まった内定の取消しっていうのは、如何なものかと。少なくとも、賃上げとは言わんが、少なくとも、雇用安定っちうものに関しては、是非やっていただきたい、等々のお願いをさせていただいたのは確かです。

 しかし、現実問題として、その段階で、エーと、昨日でしたか、本日でしたか、大分に関してのお話が、御手洗会長からあったかというのは、その場ではありませんでした」

 シラーッとして答え、シラーッとした顔のまま席に着いた。自分のお願いが無効果だったこと、御手洗会長の「努力」表明が「努力」表明となっていなかったことなど何とも思わなかったから、事実の表面的な描写のみで終わらせて席につくことができたのだろう。

 麻生太郎は会社経営の経歴を折に触れ誇っているが、会社経営の論理(企業論理)から言えば、「雇用安定」をお願いすること自体が欺瞞行為でしかない。必要なくなったなら、情け容赦なく切るのが経営論理だからだ。

 勘繰るなら、麻生太郎はキャノン子会社の人員整理が「雇用安定」をお願いした自分の立場を失って更なる支持率低下を恐れ、裏で手を回した結果、8日の午後3時30分からの御手洗会長の弁明の記者会見となったのではないだろうか。会見の模様は8日夕方7時のNHK「ニュースセブン」が伝えていた。

 御手洗会長「雇用を・・・・、減少を、食い止める、努力を、すると、今はこれは経営者として、してですね、当然のことな、あー、わけです。苦渋の、としてぇー、えー、雇用調整と、いうものが行われている。何としても、1日も早くですね、雇用を、オー、景気を浮揚させること、景気回復することによってですね、そのぉー、失われつつある雇用を引き戻すことを、オー、着実にやっていかなきゃならない・・・・」

 政治家そっくりの物言いである。大分工場が来年1月にかけて1100人の非正規労働者を削減する問題に関しては。――

 「我が社のことにつきましてはですね、ええ、かなり誤解があったようです。しかし、まあ、一企業についての、オー、会見の場ではありませんので、そのことにつきましてですね、ええー、我が社の広報が来ておりますので、広報に後から、アー、十分ざる(ママ)説明を、ですね、聞いて欲しいと思います」

 録画を何度戻して聞き直しても、「十分ざる」と言っている。きっと無意識の正直な気持が出てしまったのではないだろうか。

 広報部はカメラの前に現れたのかどうか、現れたが、NHKの方でその画面を流さなかったのか、質問されるのを嫌って、ただ単に発表の形にとどめたのか、不明であるが、アナウンサーが次のように伝えていた。

 「キヤノンの広報部門は、大分県の子会社がデジタルカメラの生産を減らすことを決めたが、生産を委託した請負会社8社が人員を削減したもので、キヤノン自体が削減したものではないと説明しました。」(NHKインターネット記事を参考)

 キャノン子会社は減産の決定はしたが、人員削減は請負会社が行ったもので、キャノン子会社には関係しないとしている。自分たちが削減したわけではないと。

 とすると、直接雇用の期間工以外の派遣切りも請負切りもトヨタやホンダ、キャノンといった大企業には責任はなく、すべて人材派遣会社や請負会社の責任と言うことになる。

 だが、派遣・請負、期間工、パートといった形式での採用は本来的には雇用調整弁の役目を担わせた雇用制度であり、人員削減に向けた雇用調整に関しては人材派遣会社にとっては必要事項はなく、逆に不必要事項であり、採用側企業に必要事項である以上(不必要事項としたら、雇用調整の本来的な性格を失う)、人員削減に関係なしとすることはできまい。なしとするのは欺瞞以外の何ものでもない。

 どう関係しているかキャノン大分子会社に関して具体的に説明するなら、デジタルカメラ減産の決定は請負会社の製造請負量の減量の決定でもあって、当然請負額の減額を伴うものとなり、その通知があったからこそ、請負会社は請負として入っている自社の従業員を請負額減額に見合う人員に調整すべく、削減を行ったということで(そうしなければ、減額分の人件費を請負会社が赤字としてかぶることになる)、それは減産を出発点として採用側の企業も人材派遣会社も予定していた一連の流れとしてある結末であろう。

 いわば大分子会社の減産は請負会社の減産でもあるのだから、子会社が仕向け、関与することとなった「人員削減」なのである。

 大体が「苦渋の選択」などと意味づけるのは必要なくなったなら情け容赦なく切るという企業自身が抱えている論理に反する、それを誤魔化す詭弁に過ぎない。「苦渋の選択」などではなく、不況となった場合の「予定の選択」とするのが正直な態度であろう。御手洗会長はまさしく「十分ざる説明」によって、説明の不正直を見せてしまったのである。

 菅直人も上記衆議院予算委員会の集中審議で派遣や請負に関して一部間違った認識を示していた。不況による雇用調整上の人員削減に関して、

 「かつては派遣がこれ程製造業に広がる前は、やはり景気が悪いときがありました。どういうふうにしたか。いいこと、悪いことじゃありませんが、少なくとも派遣が少なくないとき、50代を超えたような方にですね、退職金を1・5倍にしますから、あるいは2倍にしますから、少し早めに退職に応じていただきませんかといったような、ま、つまりはプラスをある部分では提供するから、早めに退職をいただいて、それによって人員縮小するといったことは、各所によってよくやられました。・・・・・」

 よく言うよ、と言いたい。かつての期間工・パートにそのような丁寧な扱いはするものか。私がバブル末期に勤めた日立製作所清水工場の期間工は基本的には6ヵ月契約更新であったが、半年でやめられては困るからか、あるいは継続の手間を省くためか、1年契約にできないかうるさく求められたが、私は6ヵ月以後の自由は確保しておきたいために常に半年契約で契約を更新した。それがバブルが弾けた途端、1年契約を求めたのがウソのようにすべての期間工・パートが1ヵ月契約となり、1ヵ月契約の変更を待たないまま、半年とか1年契約が切れた者から解雇されていった。必要な者だけ、1ヵ月契約が更新され、そのうちそれだけでは追いつかなくなって、同じ工場内の子会社や清水工場の正社員に早期退職者を募るようになった。

 菅直人が言う「退職金を1・5倍しますから、あるいは2倍にしますから、少し早めに退職に応じていただきませんか」といった待遇はそういった正社員に限った待遇であって、早期退職に応じた場合は退職後の6ヵ月の給与保証、退職金割り増し、プラス現金で200万円の提供が行われた。期間工である私の場合は4年勤めて4万円だったと記憶しているが、1年1万円程度のスズメの涙ほどの退職金を有難くいただいた程度であった。それ以外退職後の給与保証も何もなかった。年齢が50であろうと60であろうと関係なしにである。

 期間工が契約切れを待って次々と整理されていく状況にあっても、新聞やテレビで知識人・文化人が「日本の雇用は終身雇用・年功序列の家族的な制度だ」といったことを訳知り顔に解説していた。終身雇用・年功序列を装ったのは正社員に限定した雇用であって、それを可能にしていたのは期間工やパートが担った雇用調整であり、一段低く差別された給与、僅かばかりのボーナス、殆どないに等しい退職金等の低賃金制度であった。

 といっても、それを承知で自ら選択した期間工の身分だから、誰に文句を言うつもりもないが、御手洗や元がつくが麻生といった経営者の詭弁と同様、奇麗事を言うだけになる間違った認識だけは勘弁してもらいたい。 


 ≪雇用の調整は苦渋の選択”≫ NHK 「ニュースセブン」 08年12月8日 18時15分)

 日本経団連の御手洗会長は、8日の記者会見で、多くの企業が派遣社員など非正規雇用の削減に踏み切っていることについて、「世界的に景気が急激に落ち込んでいるため、苦渋の選択として雇用調整を行っていると思う」としたうえで、景気を回復させることが雇用対策になるという考えを強調しました。

この中で、御手洗会長は、非正規雇用を削減する動きが産業界に広がっていることについて、「世界的な景気の急激な落ち込みによって各社が減産に追い込まれ、苦渋の選択として雇用調整を行っていると思う」と述べました。

 そして、御手洗会長は「何とか新しい雇用を創出し、雇用の減少を食い止める努力をするのは、経営者としても当然のことだ」としたうえで、「何としても、一日も早く景気を浮揚させることだ。まず、景気を回復させることで、失われつつある雇用を取り戻すということをやらなければならない。実現までに時間的なずれが生じるので、失業への給付を強化することが重要だ」と述べ、景気を回復させることが雇用の確保につながるという考えを示しました。

 ところで、日本経団連の御手洗会長は、みずからが会長を務めるキヤノンの大分県の子会社が、非正規雇用を削減したと報じられていることについて、「わが社のことについては、かなり誤解があったようだが、一企業の会見の場ではないので、広報から十分な説明をさせる」と述べるにとどめました。

 これについて、キヤノンの広報部門は、大分県の子会社がデジタルカメラの生産を減らすことを決めたが、生産を委託した請負会社8社が人員を削減したもので、キヤノン自体が削減したものではないと説明しました。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橋下府知事等とムジナ仲間山谷えり子の自律性(自立性)を奪う「ケイタイ反対論」

2008-12-07 08:44:33 | Weblog

 前回のブログ記事≪今度は大阪府知事橋下徹が撒き散らすこととなった「ケイタイ禁止令」騒動」≫で安倍・福田両内閣で首相補佐官(教育再生担当)を務めた山谷えり子の「自我の未発達」を理由とした上からの「ケイタイ禁止令」は止むを得なしとする主張を批判したが、その主張の出所は08年6月15日の『朝日』朝刊記事≪耕論/子供とケータイ≫からで、山谷えり子(50年生れ)とNPO青少年メディアセンター研究協会理事長下田博次(42年生れ)、それにソフトバンク嶋 聡(58生れ)の3者が記事の中でそれぞれの主張を述べている。全文を引用して、改めて問題点を見てみたいと思う。

 最初にキーワードを引用。

 【キーワード】
 1.教育再生懇談会の報告書

  08年5月26日に福田首相に提出。有害情報対策として、
(1)必要ない限り、小中学生が携帯電話を持つことがないよう保護者、学校はじめ関係者が協力する。
(2)安全確保の理由から持たせる場合でも、通話(相手側を限定)やGPS(全地球測位システム)機能
   のみの機種を推進する、などが盛り込まれた。
 2.フィルタリング

  青少年に有害なサイトへの接続と自動的に遮断する仕組み。親が子供の携帯を契約する際、携帯電話会社がサービスとして提供している。
 * * * * * * * * * * * * * * * *
 山谷えり子(首相補佐官/教育再生担当)

 『小中学生は持たなくていい』

 携帯電話を持つ子供が増え、出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれたり、学校裏サイトと呼ばれる掲示板がいじめの温床になったりするなど、「携帯依存」の弊害が深刻になっている。子供の成長にとっても好ましくなく、小中学生の年代では携帯を持たなくていいと思う。

 日本PTA全国協議会の調査では、「深夜でもメールのやり取りをする」が小5で11%。中2で51%。「返信がないととても不安になる」が小5で18%,中2で24%いる。

 子供の世界では「30分ルール」というものがあり、この間に返信しないと友情が崩れてしまうそうだ。だから食事や入浴中も携帯を手放せない。「嫌われたくない」と言う強迫観念で常に緊張状態に置かれるのは残酷である。

 小中学生の頃は、五感を磨く大切な時期なのに、いつも「ピコピコ」と電波が入ってきて「いま何しているの?」と用もなく聞かれる。これでは人間がデジタル化してしまう。顔を合わせて話す機会が減れば、表情からニュアンスを読み取る力は育たず、親の言葉さえ十分にキャッチできなくて、家族団欒にも悪い影響が出るだろう。

 自我が未発達な小中学生は同年代の影響を受けやすく、携帯の正しい教え方を教えても、きちんとコントロールできない。携帯から解放してあげることが子供を守る最も適切な対策だと思う。

 福田首相も同じような認識で、政府の教育再生懇談会に対し「そもそも持つ必要があるのか議論してほしい」と指示した。先月まとまった報告書=キーワード①=は、「必要ない限り持たない」「持つ場合は機能限定の機種」という提言を盛り込んだ。社会総がかりで子供を守るメッセージとして、国民全体が真剣に受け止め、携帯を買い与えようとする親が一考するきっかけとなってほしい。

 政府として、法律で所持を規制することまで考えているわけではない。地域や学校などで自主的な対策が進むことを期待している。長野県野々市町では小学生には携帯を持たせないように町ぐるみで取り組み、東京都品川区では区立小に通う全児童に対し、通話先を限定した携帯を貸与している。このような取組みを各地に広めるためにも、国が情報提供や財源などの面で支援していくことも検討すべきだろう。

 子どもが有害サイトに接続できないようにするフィルタリング=キーワード②=を携帯電話事業者に義務付ける法律が今国会で成立したが、これでは一件落着とはならない。子どもにせがまれてフィルタリングを解除する親も多く、受け穴もあって徹底するのは難しいからだ。メールも従来どおり自由に使えてしまう。

 携帯電話事業者の協力はいっそう重要になる。家族との通話や位置確認などに限定した小中学生向けの機種の開発・普及に努めてほしいが、教育再生懇談会のヒヤリングでは、「マーケットが小さい」ことを理由に消極的だった。様々なコンテンツを使ってもらわないと利益にならないからだろう。日本の資本主義は倫理観あってのものであり、拝金主義的であってはならない。(聞き手・深津弘)
 * * * * * * * *
 下田博次(NPO青少年メディアセンター研究協会理事長)
 
 『対策遅れ、政府・企業は謝罪を』
 
 子どもたちは「インターネットのジャングル」に放り出されている。こんな状態になる前に、政府や携帯電話会社はどうして早く手を打たなかったのか。今頃、お上が持たせるなとかフィルタリング規制を強めろと言っているが、子育ての面から言えば、愚かな策だ。

 携帯電話のインターネットサービスは、来年で10年になる。この間、私は学生や市民と共に子どもたちの使用状況を調べたり、教師や保護者のための講習会を開いたりしてきた。子どもたちにとって携帯電話はインターネット端末、すなわち「ケータイ」だ。未知の世界に連れて行ってくれる魅力的な道具だ。

 ケータイを使った学校裏サイトへの悪質な書き込みが問題になった。いじめ、個人情報の流出、性の誘惑、ゲーム中毒、詐欺行為など、さらに深刻化している。私たちのもとに日々、多くの教師や保護者から「困った」「どうしたらいいか」という切実な訴えが寄せられている。

 子どもたちはすでにケータイを自由に使う楽しさを知ってしまった。今になって禁止したり規制を強めたりしたら、「お兄ちゃんやお姉ちゃんは自由だったのに、なぜ自分たちはそうじゃないんだ」と反発するだけだ。            

 ネットの世界は規制と規制逃れのいたちごっこだ。無理に抑えつけたら子どもたちは隠れて危ないネット遊びをするだろうし、新手の業者が誘いかけもするだろう。コンテンツ業者もフィルタリングの基準を緩めたがっている。

 大事なのは子どもたちを納得させることだ。そのために政府、携帯電話会社、コンテンツ各社は子どもたちに謝らないといけない。「君たちのための対策を取っていなかった、危ないものを自由にさせてしまった。申し訳ない」というように。政府の偉い人や企業のトップがテレビに出て頭を下げ、「保護者や先生は子どもたちを説得してほしい」と呼びかけたらどうか。それを見た子どもたちは「そんなに大変なことなのか」と知り、考えるに違いない。

 突拍子もないように聞こえるだろうか。事態はそこまで深刻だということが分かっていないから、そう思うのだ。

 ケータイは便利な道具だ。だが、あなたの子どもが、本人の知らないうちに加害者になったり、見知らぬ大人と出会ったりするメディアでもある。保護者は勉強し「ペアレンタル・コントロール」(親としての指導性)を身につけなければならない。親がケータイについて指導能力を獲得できるかどうか、今はぎりぎりのところにいる。

 叱ったり、強硬な対策を打ったりするのは逆効果だ。子どもたちをさらに見えない世界に追い放ってしまう。

 ケータイを持たせる前に、子どもに①情報の良しあしの判断力②有害情報や誘惑への自制力③ケータイを持つことの責任能力の三つを教えることが必要だ。私の経験では、彼らも学びたがっている。

 保護者や教師の助けに教育プログラムが必要だ。群馬県や広島市では既に動き出している。費用は無策だった政府と携帯電話会社が出し合ったらどうだろうか。(聞き手・刀弥館正明)
 * * * * * * * *
 嶋 聡ソフトバンク社長室

 ≪読み・書きに並ぶ必須能力≫  

 子どもにとって今や「読み・書き・携帯」の時代で、携帯電話には通話だけでなく様々な機能があり、教育にも使える。小学生の早い時期から携帯を持たせた方がいいと思う。とにかく携帯が問題にされるが、それは国民全体に便利で重要な社会インフラになったからだ。車の事故と同じで、便利なものには問題もあるが、功罪を考えれば圧倒的に「功」の方が大きい。

 携帯は進化しており、いずれはパソコンと同じ機能を持つ。パソコンを24時間身につけられる環境になる。

 パソコンの黎明期から活躍していた弊社の孫正義社長は「国際競争のカギは通信技術で、パソコンの次には携帯が主役になる」「世界に通用する日本人をつくる入り口が携帯なのだ」と確信している。

 携帯の検索機能は充実し、気になることはいつでも調べられ、メールで世界の子どもとつながる。若者には携帯で小説を読む文化が浸透し、携帯を道具に文学も創作できる。便利な機能は大人よりうまく使う。だから子どもの可能性を信頼したい。

 私の娘は東京に移り、新しい環境に慣れないとき、前の中学の友達とメールをすることで情緒が安定した。人格形成や非行に走らないように携帯を生かせる面もある。

 携帯を使いこなせず、実情に疎い大人に限って「子供に持たせない」と言うのではないか。子どもの発達を阻害するという裏付けはないだろう。学校裏サイトも深刻だが、実像より悪のイメージが肥大化したように思う。

 考えてほしいのは携帯が不可欠になった背景だ。大人並みに忙しい子どもにとって習慣予定を管理し、時間を有効に使うのに携帯は必須だ。共働き夫婦で一人っ子という家庭が増え、夕飯は1人で食べ、塾通いする子も多い。

 ソフトバンクでは家族間の通話を無料にでき、犬も登場する家族の交流のCMを流している。携帯の功罪を家族で納得するまで話し合い、携帯を家族再生のツールにしてほしい。

 「携帯を持たせない方がよい」という教育再生懇談会の提案は、戦前のように政府が「あれはダメ、これはダメ」と小さいことに干渉するようなもの。再生というなら、教育は国家百年の計という大きな視点で議論すべきだ。

 携帯からつながる有害なサイトを遮断する機能は、年齢や子どもの成長などに応じてきめ細かく自主的に整備したい。携帯の罪の部分はこうした努力で克服できる。

 子供向けの携帯は親の心配に幅広く応えられる状況になっている。当社は、インターネットやメールの利用制限に加えて、通話先・メール先を保護者の暗証番号操作で限定可能な「コドモバイル」も既に販売している。利用時間帯や利用数(量)に応じた制限も可能だ。

 別に、携帯メールによる学校の出席管理や登下校の情報提供のサービスも検討中だ。

 我々は、消費者の要望を大切にして、よりよい商品を提供するのが役目で、選択の自由を大切にしたい。最後に選ぶのは消費者だ。子供向けがあっても、消費者はよいと思うものを選んでいる。(聞き手・山下勉)
 


 かつて20年程前に「有害図書追放運動」と言うのがあった。あからさまな性描写を描いた読み物や写真・絵を載せた雑誌・漫画本は青少年に有害だからと、主に主婦たちが先頭に立って活躍した。どれ程成功したのだろうか。いわゆるエロ雑誌を収めた自動販売機の街からの撤去に行政を動かして成功したぐらいの成果しか上げることができなかったのではないか。

 「追放運動」が「運動」のみで推移している間に時代は活字や写真からビデオへと移った。性器部分はモザイクを入れてあったものの、露骨なセックスシーンを惜しげもなく提供した。ときには裏ビデオとして、性器部分をはっきりと写したビデオが出回り、警察に摘発されたりした。テレビでも上半身何もつけていない若い女性の姿を写すようになっていた。

 そして現在、ケイタイを端末としてインターネットに接続、インターネットの世界から性情報を簡単に手に入れることができるようになった。悪質業者に引っかからなければ、セックスシーンをたっぷりと見せてくれるアダルトDVDをそれ相応の値段で入手も可能となる。

 女子高生の中には出会い系サイトを利用して相手となる見知らずの男を求め、ホテルに一緒に入って当座の小遣い稼ぎをする。それが一歩間違えて、山谷えり子が言うように「出会い系サイトを通して性犯罪に巻き込まれ」る事件も起きている。

 だからと言って、ケイタイを禁止して問題が解決すると思っているのだろうか。有害図書が雑誌や漫画本で収まっていた時代でさえも、その追放に成功せず、利用者を根絶できなかったのである。

 ケイタイを禁止しても、自分の小遣いで買って、こっそりと所持し、こっそりと利用するか、性情報がどうしても欲しい、あるいは出会い系サイトにどうしてもアクセスしたいがケイタイではフィルタリングが邪魔になるというなら、青少年は親に買ってもらうか自分で買うかしてパソコンを手に入れ、利用するだけのことだろう。

 問題は「有害」とする情報自体は決してなくならないということだ。出会い系サイトが法律で一切禁止されたとしても、出会い系サイトと分からないように偽装した形で登場することになるだろう。正真正銘の結婚紹介サイトを利用して、個人的に出会い系サイトに変えてしまうことだってできる。

 以前、女子中高生が渋谷や新宿、池袋の人通りの多い繁華街で男の方から声をかけさせる目的で派手な私服で徘徊して、男が声をかけるとその場で値段を交渉して、交渉成立となるとホテルに行き、男の目的を果たさせてからカネを手に入れるという自分の目的を果たして小遣い稼ぎとする一種の売春が流行ったが、現在も続いているのかどうか、そういったことを伝えるテレビ情報に出会わないが、もしケイタイを禁止されたなら、ケイタイから繁華街へと媒介手段を変更するだけのことだろう。

 地方から家出してきて、それで食いつないでいた女子中学生や女子高生がいたという話も聞くし、ホテルでの交渉次第で1回限りを週に何回、月に何回と定期性を持たせたり、あるいはその度毎の支払いではなく月いくらの契約で継続性を持たせる“援交”の形にもっていくといった話もあった。

 援交なら、自分がケイタイを持たなくても、公衆電話で相手のケイタイに連絡を入れれば何ら支障はない。女の側に対する連絡はホテル近くの喫茶店を待合わせ場所にしておけば、男が急に都合がつかなくなった場合、その喫茶店に電話を入れることで意思の疎通を図ることができる。

 勿論、犯罪に巻き込まれたり、未成年という理由で警察に逮捕されたりする事態も発生するだろうが、その当座は自粛したとしても、衣服以外への資本投入が不要で費用対効果が絶大な小遣い稼ぎということなら、喉元通れば何とやらで、決してなくなることはないだろう。単に売春が低年齢化しただけのことである。

 要するに「ケイタイ禁止令」はケイタイ所持の禁止のみに終わって、その弊害に関しては形を変えて持続することになるだろう。ケイタイは大人たちが弊害だとする行為に近づくための単なる道具に過ぎないからだ。メールができなくなれば、以前のように親が不在の友達の家に仲間で集まって、テレビゲームやたわいもないおしゃべりで時間を潰すことになるだろ。

 そう言えば、以前ゲーム機を使ったテレビゲームにばかり熱中して勉強しない子供が問題になったときがあった。ケイタイの調査に変えて言うなら、「テレビゲームへの依存傾向が高い児童・生徒ほど、学習時間が短い」ということになっていたはずである。

 事実そうであったなら、熱中対象がテレビゲームからケイタイに変化しただけのことになる。

 友達との時間を考えない頻繁なメール交換や裏サイトで友達の悪口を書き散らす、インターネットで性情報を得て性的欲望を満たす、あるいはケイタイや出会い系サイトを利用し小遣い稼ぎと刺激を求めて不特定多数の異性と交渉を持つ。そういった活動を自己実現の便宜的な手段とし、自分の世界としてしまっている。このことこそが解決しなければならない問題ではないだろうか。

 学校の勉強でも運動でも、あるいは大人が健全と認める遊びでも自己実現を図るための自分の世界とすることができず、大人が見たら逃避と言うだろうが、ケイタイが与えてくれる世界で自己実現を日々満たし、自分の世界とする。

 学校の勉強が何ら刺激を与えてくれず、面白くもなく退屈でケイタイが与えてくれる刺激に走ってしまうということもあるだろうから、大人が見たら健全と言えて、なお且つ子供たちが自己実現可能で自分の世界とすることのできる刺激的な活動の場を与えてやる以外に道はないのではないのか。ケイタイから離れられないなら、学校の授業でケイタイを使って生徒の知識欲を刺激するより有益・有効な情報にアクセスできる方法を教える手もある。

 テストの成績か部活の運動でのみ生徒の自己実現の機会を限定し、そのことのみを自分の世界とさせるべく人間の可能性を限定・管理すること自体が間違っているのではないだろうか。

 以下、三者の主張に批判を加えたい。

 山谷えり子の子供の成長に好ましくなく、持たせるべきではないとする考えは前回のブログでも触れたと思うが、自己判断能力を奪う考え方であって、上からの言いつけ(命令・指示)に従わせ、言いなりに従う子供をつくる権威主義性の刷り込み以外の何ものでもないだろう。

 その一方で「小中学生の頃は、五感を磨く大切な時期」だと矛盾したことを言っている。自己判断能力もなく、他人の言いつけに従うばかりの人間に満足な「五感」は育たないばかりではなく、日本の学校教育自体がテストの点数を上げることを強迫観念とさせていて、まさにそのことによって「五感」を殺ぐ教育となっていることに考えを及ぼしていない。

 小学校に入学したばかりの頃からケイタイ依存症に陥るわけではない。「五感を磨く」時間は優にあるはずだが、家庭教育も学校教育もテストの点数・テストの成績のみに目を奪われてその方面の時間を用意してない。

 山谷が言う「30分ルール」にしても、権威主義的に他者の支配下に自分を置いて、他者の判断に従う状況を言う。自律的(自立的)主体的自己とは逆の自己となっている。決してケイタイがつくり出した存在性ではなく、ケイタイはそのような存在性発揮の単なるキッカケに過ぎないだろう。

 ケイタイ禁止といった方面に向けた労力・エネルギーを使うなら、自分は自分だという「自我」の育み、自律的(自立的)主体性の育みにこそエネルギーを注ぐべきである。

 こういった労力こそが、「自我の未発達」を避ける教育上の危機管理となる。

 山谷えり子は最後に「日本の資本主義は倫理観あってのものであり、拝金主義的であってはならない」と体裁のいいことを言っているが、どこの国の資本主義も「拝金主義」で成り立っているのではないのか。日本の資本主義もその例外ではない。

 だからといって、資本主義を否定するつもりはない。資本主義は人間の本能に従っているからだ。

 下田博次は「ケータイを持たせる前に、子どもに(1)情報の良しあしの判断力(2)有害情報や誘惑への自制力(3)ケータイを持つことの責任能力の三つを教えることが必要だ。私の経験では、彼らも学びたがっている」と主張しているが、上記3つの教育はすべての行動について言えることで、ケータイの所持・使用に限定して必要とされる能力ではないはずである。ケイタイを持たせるに当たって急遽必要となる能力ではない。

 そもそもからしてそれらを身につけさせる教育を行ってこなかったことの結果性として現れている欠陥能力であり、自己判断能力と自己責任能力を欠いた子供たちの姿ではないのか。ケイタイの弊害を言う前に、子供たちをそのような姿に仕向けているテスト教育の弊害を言うべきである。

 嶋 聡についても一言。

 「パソコンの黎明期から活躍していた弊社の孫正義社長は『国際競争のカギは通信技術で、パソコンの次には携帯が主役になる』『世界に通用する日本人をつくる入り口が携帯なのだ』と確信している」

 「世界に通用」云々はウソだろう。下田博次が提案していたが、自己判断能力と自己責任能力をきっかりと身につけることが「世界に通用する日本人をつくる入り口」ではないのか。

 「携帯の罪の部分」は解消可能だと言っているが、それも子供たちそれぞれの選択にかかっている。馴染み、流されるか、流されないか。例え馴染んだとしても、一時的で、他のことときっちりと分けることができる子供もいるに違いない。遊ぶときは遊ぶとき、勉強するときは勉強すると言うように。

 自分で判断し、どう行動するかは自分の責任で行う。行きつくべき場所は「ケイタイ禁止令」ではなく、あくまでも自己判断能力・自己責任能力の育みでなければならないはずだが、間違った指摘だろうか。

 中学校高学年にもなると、親の干渉・制止を許さなくなる子供が多いに違いない。やはり子ども自身の判断に任せるしかない。子ども自身の判断能力・責任能力を育む方向に進むしかない。親の制止が効かなくなったからと放置したら、子供は流されっ放しになる。そうなる前の問題として、自己判断能力・自己責任能力を育む親のしつけ、学校教育が必要であり、喫緊の課題ではないだろうか。

 テストの点数だけを言う教育を続けるなら、それに応えることのできる生徒だけを相手にして、応えることのできない生徒がケイタイに依存しようが出会い系サイトを利用して売春して小遣い稼ぎしようとも干渉しないことである。干渉して管理しようとしないことである。彼ら・彼女らの自己実現をよしとすべきである。

 例え犯罪に巻き込まれる子供が出たとしても、折角見つけ、築いた彼ら・彼女らが自分の世界とすることができた活動の場を温かく見守るべきである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今度は大阪府知事橋下徹が撒き散らすこととなった「ケイタイ禁止令」騒動(1)

2008-12-06 08:17:10 | Weblog

 大阪府教育委員会「携帯・ネット上のいじめ等課題対策検討会議」が12月3日(08年)、小中学生の学校への携帯電話持ち込み原則禁止要求の提言書を発表(「時事通信出版局」から)したと言う。

 理由を上記記事で見てみると、今年7月、府内の公立小・中学校や高校、支援学校の児童生徒ら計約1万3500人とその保護者を対象に府教委が実施した意識調査からの結論だそうだが、

 1.携帯電話への依存傾向が高い児童・生徒ほど、学習時間が短い
 2.携帯電話、パソコンでのメール、掲示板などで「嫌な経験をしたことがある」とする回答は中学
   1年で3割、同時期に実施した東京都の意識調査よりも高い割合だった。

 この調査結果から、<保護者の申し出により学校長が必要性を認める場合を除き、原則として小中学校は学校への携帯電話の持ち込みを禁止し、府立高校では校内における使用禁止を求め>、なお且つ

(1)携帯電話の適切な使用時間を決めることなどを家族で話し合い、基本ルールを守ること
(2)「携帯・ネット上の誹謗(ひぼう)中傷は、犯罪への入り口である」とする指導の徹底を求める提言
 を行った。

 そして府教委自体が提言そのままに小中学校は学校への携帯電話の持ち込みを、府立高校は校内に於ける使用を原則禁止することとした。

 この決定に対して橋下府知事は「学校に携帯電話は必要ない。・・・・携帯電話への依存度が高くなれば、学習時間が短くなるのは当たり前」(「YOMIURI ONLINE」)と全面支持。「携帯電話への依存傾向が高い児童・生徒ほど、学習時間が短い」と言うことになれば、「教育日本一」を公約とし、全国学力テストの成績公表の仕掛け人だった手前、当然の支持表明と言える。

 学力テストの平均値で「教育日本一」を決めようなどと、愚かしい話である。

 ブログタイトルを≪今度は大阪府知事橋下徹が撒き散らすこととなった「ケイタイ禁止令」騒動≫「今度は」としたのは、ケイタイの学校内への持込み禁止問題は古くて新しい問題だからだ。前々から反対論があって、特に保守的な政治家側からの反対論が根強く、それを府知事の橋本徹が引き継いで反対姿勢を打ち出したことに対する「今度は」である。

 私自身は「ケイタイ禁止令」に反対ということになる。その理由は上からの禁止だからだ。

 日本人は権威主義を行動様式としていて、親にしても教師にしても子供を自分の考えに従わせようとする。「あれをしてはダメ、これをしてはダメ、ああしなさい、こうしなさい」と命令・指示を出して、その命令・指示通りに従わせ、従う子はいい子ということになる。行動を管理したがる。管理とは上の者の思い通りに下の者の意思・行動を規制し、制約することに他ならない。当然、子供の自律的(自立的)行動を抑制する方向に動く。

 府教委の携帯所持禁止令も、橋本知事の携帯所持禁止令同調も、親や教師の上からの「あれはしてはダメ、これはしてはダメ」と同じ上から規制し、下に従わせる権威主義的制約に過ぎない。生徒自身に考えさせて自身で行動させる自律性(自立性)を求める要求とはなっていない。

 但し小中学生の年代は自我が未発達で、自分でコントロールできないから、上からの強制による禁止も止むを得ないといった反論があるが(安倍・福田両内閣で内閣総理大臣補佐官<教育再生担当〉兼内閣官房教育再生会議担当室事務局長を務めた山谷えり子等の主張)、だったら、自我の発達を促す教育を行い、自分で判断させる方向に持っていったらいい。

 「自我」とは「自分を持つこと」であろう。あるいは「自分であること」を言うはずである。「個体の意識や行為をつかさどる主体としての私」、そして「人格や作用の中枢として、認識の根拠、道徳的行為や良心の座となる」と『大辞林』 (三省堂)には書いてある。「自分を持つこと」によって、あるいは「自分であること」によって、「主体としての私」は確立可能となり、「人格や作用の中枢として」自律的(自立的)存在足り得る。

 何度でもHPやブログに書いていることだが、日本人の大人を指して言う「横並び症候群」とか、「マニュアル人間」、「指示待ち症候群」なる有難い称号は他人の指示・判断に依存する状況を指しているのであって、「自分を持たない」ことによって生じている、あるいは「自分であること」がないために生じている非自律的(非自立的)存在性のことを言っているはずである。自民党の派閥などは数の力を頼んで自己の存在を相互に高めようとする依存性からして、非自律性(非自立性)をベースとし、非自律性(非自立性)でつながった最たる集団であろう。

 個人で行動することができないから、派閥といった集団に依存する。個人で行動できないのは言うまでもなく「自分を持たない」からであり、「自分であること」を維持できないからである。「自我の未発達」が仕向けることとなっている非自律性(非自立性)と言える。

 つまり小中学生の自我の未発達は大人たちの自我の未発達を受けた、その反映に過ぎない。自我の未発達な大人からは自我の未発達な子供しか育たない。

 言わずもがなのことではあるが、人間は自我を確立することによって自律性(自立性)を獲得し得る。

 暗記教育自体が既存の知識に依存し、それをなぞるだけで、自分に独自の知識をつくる知識授受となっていないから、「自我の発達」を阻害する教育方法としか言えない。そして子供は自我が発達しないまま成長し、社会に出て、自我が未発達な大人となっていく。かくして大人と子供の間を「自我の未発達」が循環することとなる。

 学力向上、学力向上と言いながら、単になぞるだけの暗記知識でテストの点を上げる暗記学力のみに目を奪われ、それを最重要の学校価値観としているから、いつまで経っても自我は育たないし、当然自律的(自立的)存在へと向かうことは難しくなる。

 ケイタイを持つも持たないもすべて生徒自身に任せるべきだろう。その結果に対する責任は当然のこと、生徒自身に帰する。「自分で決めなさい」と。

 必要かどうか自分で決めてケイタイを所持することになったのではなく、みんなが持っているから自分も持つといった「横並び意識」、同調意識からの所持が殆どだから、責任意識は育たず、利用の目的も高いところに向かわず、当然の結果として自我の発達や自律性(自立性)といったことからも無縁のところでケイタイの利用が進むことになる。

 ケイタイの所持に限らず、行動のすべてに責任を持たせる。何をするにしても、「あれはダメ、これはダメ」ではなくて、責任が持てるのか、自分の責任で行いなさいと本人の責任と判断に任せることを幼い頃から訓練づける以外に道はない。

 自身の判断で行動させる以外に責任意識を育む方法はないのではないのか。他人に言われてしたことで失敗した場合、言った他人に責任をなすりつけることになる。

 親も教師も子供に対して従わせるのではなく、1対1の関係を築く。自身も一個の人格・人間として行動し、子供も一個の人格・人間として扱う。そう扱われた子供は自然と一個の人格・人間として行動するようになる。「一個の人格・人間として行動する」ということはそのまま「自分を持つこと」であり、「自分であること」の体現に他ならない。当然、「自我の確立」に向かう道となる。自律性(自立性)獲得の道でもある。

 ネットやケイタイを利用したいじめが深刻化していると言うが、ネットやケイタイを利用するようになってからいじめが発生したわけではない。ネットやケイタイを利用する前からいじめは存在し、ときには陰湿で深刻ないじめも起きていて、いじめが原因で自殺した生徒も何人かいる。

 いわばネットやケイタイは単にいじめ手段に過ぎない。ケイタイ所持を禁止し、生徒がその禁止令を厳密に守ったと仮定したとしても、それでいじめは消滅するのだろうか。ケイタイのない時代もあったいじめである以上、いじめはなくならない。他の手段に代えるだけのことだろう。

 多いときで7万、少ないときで3~4万ものカネをせびられ、殴られたり、川に沈められたり、女子生徒がいる前でズボンを下ろしてコンドームをつけ自慰行為をさせられたこともあったという、陰湿で残酷な際限のないいじめを受け、1994年11月27日に自宅で首を吊って自殺した愛知県中学校2年生の大河内清輝君(当時13)のいじめ自殺事件を学校も世間も、勿論橋下府知事も何ら教訓とせず、何も学習しなかったようだ。

 誰かがいじめを開始すると、断ると今度はいじめの的になるからと引きずられていじめに加担する。生徒それぞれが自立していない、個人としての行動ができていないからだろう。

 そうなっているいじめの構造・危機状況に対して学校・教師がそれを解決する危機管理を創造し・構築できていない。1+1=2は教えることができても、「引きずられてはならない。自分は自分の考えを持って、自分は自分の行動しろ」と教えることができない。教えることのできる先生がいるというのだろうか。

 上からの禁止で強制し、従わせるようとするよりも、ネットやケイタイの良質の利用に向けた方法を模索し、自律的(自立的)選択に任せることの方が「自我の確立」並びに「自立性(自律性)の獲得」に役立つのではないだろうか。 


 ≪今度は大阪府知事橋下徹が撒き散らすこととなった「ケイタイ禁止令」騒動(2)≫として、参考までにほぼ2年前の06年12月11日に載せた、同じいじめ問題に言及したブログ記事を再度掲載したいと思う。2年経過しているものの、再読することによって、ケイタイ問題が古くて新しい問題であることと、大河内清輝君いじめ自殺事件から何も学んでいないことがよりよく理解できると思う。

 ≪今度は大阪府知事橋下徹が撒き散らすこととなった「ケイタイ禁止令」騒動(2)≫に続く

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今度は大阪府知事橋下徹が撒き散らすこととなった「ケイタイ禁止令」騒動(2)

2008-12-06 08:07:54 | Weblog

≪ガキ大将の役割に見るいじめ理論の非合理性≫(06年12月11日)

 すべての生徒に等しく生存機会を

 06年12月3日 日曜日の「テレビ朝日」の「サンデーモーニング」。コメンテーターの一人なのか、レギュラーメンバーでいつも顔を出している慶大教授の草野厚が議論に割って入って、教育再生会議の議論で欠けていることとして、携帯を使って匿名で簡単にいじめの文章を送れる問題を取り上げ、「それがキッカケになってブログを組めて(?)自殺した人もいる。そういうところをもっと議論を重ねる必要があるのではないか」と提案した。

 それに対して教育再生会議の委員の一人でもあるヤンキー先生こと元高校教諭で現在横浜市教育委員会委員の義家弘介が、「情報リテラシーの項目で議論している。ネット教育。大人の手の届かないところにまでいじめが地下進行している。フィルタリング・サービスを義務づけるとか、様々な方策を考えていかなければならないが、今後の議論の中でやって行こうと――」

 藤原和博民間人初の中学校校長「携帯については中学では本当に凄く問題で、携帯の存在がいじめを変質させたんです。例えば、死ねって言うのは結構勇気がいると思うんですけど、4回か5回ボタンを押して、送信ていうのは非常に楽なんですよ。100回でもそれをやっちゃう。親に言っているのは安易に、例えば入学のご褒美とかね、そういうの与えないで欲しい。どうしても与えなきゃなんなくて、連絡が必要なら、自分のを貸す。あるいはもう一つ買って、それを貸して、夕食以降はそれを与えないとか、あるいは10時以降はメールをさせないとか、ルールをきっちりさせないと――」

 まだ若い息子を将来は人間国宝請け合いの名噺家に育てた、きっと子育てには自信満々・鼻高々なのだろう海老名香葉子が「そういう姑息な遣り方をする子どもに育ててしまったということ、そこまでいってしまったということは親の責任です。昔は子どもの中でもガキ大将がいました。それでちゃんと差配していました。それで楽しく遊ばせました。それで社会でもそうでしたけど、そういう陰湿な(メールするような)ことはしなかったんですよ。チャンバラだって、正義の味方は勝つ。悪い奴は負ける。そういう教え方で――」と「昔」はいじめなどなかったかのようなことを言う。

 司会の田原総一郎が遮って、「ヤンキー先生がおっしゃるように、今日の被害者が明日の加害者と、昨日の被害者が今日の――、どんどん変わってしまった。ガキ大将がいなくなった。どうしたらいい?」

 海老名「ですから、元に戻さなくちゃ。親の教育です。親がもっと、もう一度子育てについて検討しなくちゃいけないと思います」

 「昔」はと言われる時代は「ガキ大将」が仲間の秩序を守り、いじめはなかったとする主張が海老名香葉子だけではなく、多くの日本人が共有している〝子ども社会秩序維持論〟として流布している。多くの日本人によって信じられている主張だからこそ、流布という事実が存在するのだろうが、合理性を持った主張なのか取り上げたいと思う。

 その前に初の民間人校長だという藤原和博氏が子どもには携帯は貸し与える形で持たせることと、「夕食以降はそれを与えないとか、あるいは10時以降はメールをさせないとか、ルールをきっちり」とつくることの必要性を強調していたが、本人自身、自分で話しながら自分の言葉に盛んに頷いて、さも立派な主張であるかのように一人納得していたが、携帯を持った子どもすべてがいじめのメールを送るという前提に立った主張となっていることには気づいていない。それを防止するための一律的「ルール」の強制と言うことだろう。

 例えば夕食以降予習か宿題をしていて、分からないところを友達に電話して聞きたい、あるいは悩み事を相談したくなることもあるに違いないが、そういったことまで禁止する「ルール」となることにまで考えを思い巡らせていない。そういった電話は固定電話のあるところまで行って、それを使えとでも言うのだろうか。車があるのに、歩いてコンビニに行ってこいと言うようなものである。

 藤原氏自身はそこまで意図したことではないだろうが、すべてを疑うことになって、いじめを行わうつもりもない生徒の反撥を招きかねない。藤原氏の携帯に「死ね」とメールされることにならないだろうか。番号などは同じ学校の生徒が2チャンネルに藤原氏の携帯の番号と一緒に「死ねのメールを送ろう」と投稿したり、あるいは携帯でなくても、藤原氏の中学校のHPアドレスを調べて、メールを送りつける手もある。

 ルールをつくることができて親子の約束を成立させることができたとしても、いじめる人間は夕食以前にメールを送るぐらいの知恵を働かすだろう。時間は条件とはしていない。メッセージの送信自体を目的としているからだ。夕食時に親に返した携帯を朝学校に行くときに受け取る。「行っていきます」の挨拶をして親の目の届かない場所にまで歩いたら、さっそく「死ね」の文字を「4回か5回ボタンを押して、送信」したとしたら、「夕食以降」の「ルール」はいくら厳格に守られたとしても意味を失う。

 また中学高学年から高校生にもなれば、自分の小遣いで携帯をこっそり持ち、電話代まで自払いできるぐらいの財力は持っているに違いない。人をいじめるような人間なら、不足した場合、恐喝で補填する才覚に事欠かないだろう。携帯を取り上げることが、恐喝につながるケースも生じる場合もあると言うことである。

 また携帯という新しい機器の利用だけが「大人の手の届かないところにまでいじめ」を「地下進行」させる原因をなしているわけでも、なすわけでもないし、当然陰湿化させる手段だと限定するわけにもいかないはずである。人目に隠れてする、あるいは人目があったとしても、それとは分からない姿を装わせて行うというだけではなく、他の生徒が見ているのを承知で行ういじめや厭がらせの類はそれを行う人間の標的となる人間に対する優位性、あるいは優越性を周囲に見せつけて誇り、そのことによって相手の劣位性を周囲に知らしめる必要性からの行為である場合が多く、標的となる生徒にしても自分の恥を周囲に曝すことになって、メールを送りつけられるといった人に知られないいじめよりも却って始末に悪いということもある。

 また藤原氏は「例えば、死ねって言うのは結構勇気がいる」と言っているが、いじめの多くが相手に対する身体的・心理的優位性を条件として行われるもので、必ずしも「勇気」を条件とはしない。いじめる側が往々にして集団を組むのは一人では確保しにくい、それゆえに簡単に逆転されかねない身体的・心理的優位性を数の力で確実なものとするためだろう。

 「死ねって言うのは結構勇気がいる」のは自分よりも相手が身体的に上回り、当然心理的にも相手の方が上となる人間に数を頼まず自分一人で「死ね」と言うときだろう。このことは携帯でも条件は同じはずである。

 簡単に分かる例で話すと、クラスにいつも集団を組んでクラスメートをいじめるグループがいる。相手が集団で自分ひとりでは敵わないのは分かりきっているが、正義感から携帯で、「お前ら死ね」とメールを送る。それが相手にとっては匿名行為であっても、送信者は自分であるという意識から逃れることができないのだから、露見した場合の不安や恐怖を考えた場合、「結構」どころか、相当に「勇気がいる」ことになる。夜満足に熟睡できなくなったり、相手と顔を合わせたとき、落ち着かない目の動きをしてしまったり、あるいは露見を防ぐために俺じゃないぞというところを見せるために逆に相手を見つめ過ぎたりして、却って怪しまれて、「お前じゃないのか」といきなり言われて、うろたえ、分かってしまうといったこともあるだろう。

 言ってみれば、既に様々にあるいじめの方法にメールによるいじめがそこに加わった新しい方法であるということ、メールを使ったとしても、その陰湿さの程度に濃淡があるのは他のいじめと条件は同じであるということ、相手との心理的・身体的距離を利用した構造となっていることに何ら変わらないこと等を考えると、藤原和博が「携帯の存在がいじめを変質させた」と言う程には本質的な要素をなしているわけではないのではないだろうか。

 例えば昼休みとかに大勢の生徒が出ている校庭で友達と遊んでいたら、背中に石をぶつけられた。急いで振り返ったが、たくさん生徒がいて、誰が投げたかわからない。思い直して友達と遊び続けると、また背中に石を投げられた。振り返っても、誰か分からない。校庭にたくさんの生徒がいて簡単には誰か特定でいないのをいいことに石を投げつけたりするいじめも匿名性を利用した隠れてするいじめで、陰湿である上に卑怯ないじめの内に入るだろう。

 石を投げつける相手は石を背中にぶつけられる生徒よりも身体的・心理的に優位的位置に立っているからこそできる。一人でそれを確保できなければ、集団を組んで確保しているだろう。位置的に逆の場合は、隠れてする行為であっても、余程の覚悟・勇気がいるからだ。露見して優位的位置を持たない生徒だと分かってしまった場合、投石の標的にした相手からではなくても、他の生徒からもバカなことをしたと失敗に対する嘲笑を受けない保証はない。嘲笑が身体的な懲罰へと進み、それが立派ないじめへと昇格を見ない保証もないはずである。

 絶対に露見しないという確かな条件に守られなければ、非優位的位置からのいじめは不可能である。とすれば、問題は身体的・心理的な優位性の証明にいじめを手段とする行動性であって、携帯という手段ではないはずである。藤原和博氏は民間人初の中学校校長だと持て囃されているようだが、どうも人間の現実の姿を見る目に合理性を欠いているように見えるが、それは不当な非難であって、欠いているのは私の方なのだろうか

 対する蛯名香葉子氏は〝いじめ・親元凶論〟に立っているが、その揺るぎのない姿勢に幸せだろうなとさえ思う。ガキ大将が常に善なる存在だとすることのできる客観性、あるいは客観的性善説は二律背反の自己矛盾を孕んでいないだろうか。孕んでいないとしたら、この世の中に常に善なる存在が実在することを認めなければならなくなる。

 ガキ大将が常に正義を行う存在だと決めつけることができる程には人間は単純にはできていない。人間はいたって複雑怪奇にできている。それは今も昔も変わらない、時代を超えてある姿である。そのことに気づきもしないで、教育再生会議のメンバーの一人となり、教育問題にその資格もなく首を突っ込み、しゃしゃり出ているとしか思えない。

 ガキ大将のいた時代はいじめはなかった。当然教師の体罰もなかった。ガキ大将が仲間を「差配」できたのに、学校教師が生徒を「差配」できないといったことはありようがないからである。学校教師にしても子供の頃は自身がガキ大将ではなくても、地域でガキ大将に「差配」されて集団秩序を学び、また生徒の方も地域で集団秩序を前以て学んでいる共通項を抱えた似た者同士の間柄なのだから、生徒管理にどのような破綻も考えることはできない。

 だが現実にはガキ大将のいた時代でもいじめも体罰も存在した。存在しないように見えるのは非情報化社会で、表に現れる数の少なさに比例して世間に知れる機会も少なかったからだろう。いわばその多くが情報化されるまでに至らなかった。身体障害者いじめ、朝鮮人の子いじめ、遠くから引っ越ししてきた転校生に対する他処者いじめ、年下の子いじめ、女の子いじめ等々、いつの時代も存在したはずだ。現在でも他処者に対する警戒心は強い。日本政府が外国人受け入れに消極的なのは、日本人とは全然違う外国人という他処者に対する警戒心も一つの要素となっているはずである。

 かつては朝鮮人の子どもに対するガキ大将に率いられた集団のいじめも存在した。朝鮮を併合・植民地とし、日本人は彼らの支配者として朝鮮人を劣る人種と見た。日本人の大人のそのようや意識を受けた日本人の子どもの朝鮮人の子どもに対する具体的な差別行為がいじめとなっていたに過ぎない。子どもが大人を差し置いて朝鮮人いじめを発明したわけではない。日本人の大人の中にあった朝鮮人蔑視の意識・態度を見たり、聞いたり、感じたりして子どもに伝わり、子どもは子どもなりの方法で自分たちの偉さ、彼らの劣ることを表現したのである。「チョウセン」、あるいは「チョウセンジン」と罵ったり、バカにしたり、石を投げつけたり。

 在日詩人の高史明氏は子供の頃の戦前時代に日本人の子に軽蔑する語調で「ハンカーチ」といつもバカにされたが、その意味が今以て分からないと自身の著書で告白している。多分「半価値」という意味ではないだろうか。「ハンカチ、ハンカチ」と罵るべきところを、「ハンカーチ」と伸ばしたから、意味不明に聞こえたのだろう。朝鮮人は人間として半分しか価値がない。皮肉を言えば、半分でも価値を認めていたなら、却って誉むべきことでなかっただろか。全然認めていない日本人の方が多かっただろうから。

 大体が「正義の味方」と「悪い奴」が存在すること自体が、ガキ大将の「差配」の有効性に反する矛盾を示す。有効であったなら、「悪い奴」は存在不可能となるからだ。かつての激しい朝鮮人差別は「正義の味方が」常に正義の味方ではなく、「悪い奴が」常に悪い奴とは限らないことを証明して余りある。朝鮮人差別の最過激な具体化は関東大震災時の「半価値」さえ認めなかった大量の朝鮮人虐殺だろう。一般日本人が竹槍を持ち出して朝鮮人を追い掛け回し、見つけ次第突き殺して、何人殺したと自慢し合ったという。

 現在でも朝鮮人差別は確かな形を取って現れることがある。北朝鮮がミサイル発射や拉致問題、あるいは核実験したときの朝鮮人学校生徒に対する様々な嫌がらせ。これは間歇的な継続性しか持たなくても、いじめそのものに当たる行為であろう。あるいは総理大臣の靖国参拝支持人間の韓国大統領の参拝中止要請に対する朝鮮人差別を文脈とした批判等々。
 
 プロ教師の川上亮一氏も「昔は、学校で子ども集団がつくられる前は、地域に"ガキ集団"が存在し、大人のつくった地域社会の大枠のなかで、年齢の違う子どもたちが自分たちの世界をつくっていた」と"ガキ集団"の正義性に言及している。「ところがいまは、地域からガキ集団がほとんど消え去り、学校のなかにだけ子どもの世界が残ることになったのである。教師の手から相対的に離れたところで、いろんな子どもがひとつの空間を共有するのだから、そこには、かなり荒っぽい関係も成立することになる。大人の倫理はストレートに入らないから、いじめは必然的に起こるものなのだ。つまりいじめは学校の問題ではなく、子どもの世界の問題なのだ。いじめ問題を考えるとき、これが出発点である」

 何と太平楽な「出発点」なのだろう。プロ教師は海老名香葉子共々世界有数の幸せ者に入るのではないか。地域の「ガキ集団」にしても、大人や「教師の手から相対的に離れたところで、いろんな子どもがひとつの空間を共有」していたのである。当然プロ教師の論理からしたら、「大人の倫理はストレートに入らないから」、「かなり荒っぽい関係も成立」し「いじめは必然的に起こ」っていたとしなければならない。

 それとも地域の「ガキ集団」に関しては常に「大人の倫理はストレートに入」っていたと言うのだろうか。小賢しい評論家が持論としていることに「昔は子どもが悪いことをすると、地域の大人が注意して、やめさせた。今の大人は見て見ぬふりをする」とバカの一つ覚えで繰返される手垢のついた地域秩序論があるが、いつの時代の子どもにしても大人の巧妙さを学ぶ。特に悪事に関しては自己保身本能は誰でも持っているだろうから、より巧妙であろうとするだろう。何気なくしてしまういたずらならまだしも、大人の注意を受けなければならないような「悪いこと」は大人の目の届かない場所、隠れた場所でやらかすぐらいの巧妙さは持っている。

 逆説するなら、地域の大人が見つけて注意できるような「悪いこと」は「悪いこと」をする子どもにとっては「悪いこと」の内に入らない事柄でしかないだろう。「悪いこと」が大人の目の届かない場所で完遂される限り、いわば表に現れない限り、情報化を経ることもなく、周囲にとっては存在しないと同じことになり、大人の注意以前の問題となる。それは現在のいじめが学校・教師・親に発覚するまで存在しないのと同じ構図をなすものであろう。

 ときには大人の目に触れることを覚悟して「悪いこと」をする場合もある。柿泥棒やスイカ泥棒といった畑に実っている果実を盗む場合である。大概昼間正々堂々とやらかすから、見つかることを覚悟し、見つかれば一斉に逃げ出す。その早いこと、まさに脱兎の如くである。場合によっては、足の遅い子、逃げるにもたもたしていた子が捕まることもあるが、下手に仲間の名前を告げたりすれば、後でいじめられたり、殴られたりする。教師に呼び出されて、こっぴどく叱られたとしても、二度としませんの誓いはその場凌ぎと相場は決まっている。教師や親に叱られて、「悪いこと」をやめた人間がどれ程いただろうか。

 見つからずにできるか、見つかったとしても、うまく逃げることができるか、ゲームで行うこともある。今の中・高生が人前でも平気でタバコを吸うのは、大人が注意しないのを学び、知っているからだろう。と言っても、注意しないのが問題ではない。注意が有効である場合は隠れて吸うだけの話である。実際に人前で吸う前は隠れて吸っていたのであって、注意のあるなしは単に人前で吸うか吸わないかの条件に過ぎない。昔も今も喫煙自体の成立条件とはなっていない。生徒の喫煙のキッカケはテストの成績では表現できない自己の勲章を喫煙に替えて打ち立てようとする虚栄心が殆どだろう。誰がタバコを吸っているか他の多くの生徒が知っていることがその証拠となる。人に知れない行為は勲章とはならない。だから、自分が吸っていることを他人に知らせようとするし、隠そうともしない。

 言ってみれば、かつての見つかるのを覚悟の果物泥棒が現在の未成年者の人前での喫煙に格上げされた時代的発展に過ぎないだろう。現在も「昔」も「悪いこと」は大人の注意以前の問題なのであって、「大人の倫理はストレートに入らな」い状況は現在だけの問題ではない。単に「悪いこと」が時代的な程度の影響を受けた違い(=時代性の違い)があるだけの話だろう。

 プロ教師が言うように「いじめは学校の問題ではなく、子どもの世界の問題なのだ」が合理性を備えた主張として許されるとしたら、戦前の大日本帝国軍隊での新兵いじめは有名であるが、それを「軍隊の問題ではなく、兵士の世界の問題なのだ」と片付けることも許されることになる。学校という集団社会の力学とその構成員である生徒との力学が別別の作用を働かせていることになる。

 軍隊世界の戦争とか軍人だといった力の意識と、上を絶対とする集団主義的・権威主義的上下関係意識とが相まって、優位的位置を背景とした上の傲慢さとその逆の下の隷属を生じせしめていたのであって、当時の軍隊がはびこるのを許していたそのような集合意識が深く関わっていた新兵いじめであったろう。

 このことは今の学校についても言えることで、学校・教師がはびこるのを許し、個々の生徒を支配・拘束している集合意識がどのようなものか、まずは考えてみる必要があるはずである。

 それは自己の位置を他者の位置よりも優越たらしめる方法として、あるいは自己の優位的位置の証明としていじめを手段とする自己存在証明行動のはびこりであって、手段は違えても、テストの成績で以て自己の位置を他者の位置よりも優越たらしめ、証明する自己存在証明行動のはびこりと軌を一にする自他優劣表現であり、テストの成績で他者を差別できない者の代償行為(=埋め合わせ行為)としてあるいじめであろう。そして学校が元となるテストの成績で生徒の価値を位置づける価値観のはびこりを許しているということである。

 成績優秀なテストの成績で自己存在証明を果たしていながら、いじめでも自己優位性を証明しようとする欲張った生徒がいるようだが、成績がいくら優秀でも満足させることができない人間支配をそれを可能とするいじめで行おうとする年齢不相応のサディスティックな権力欲・権力意志を内的衝動としているからではないだろうか。人間支配ほど、甘い蜜を味わわせる行為はない。他者の意志を好きなように操作し、従わせることができるのだから。いじめはライオン使いが振りまわすムチの役を果たす。成績優秀な上、いじめでも力を発揮することのできる生徒はすべての面に亘ってクラスの支配者として君臨することができる。

 学校・教師は学校社会を自己存在証明方法としてテストの成績だけか、あるいはスポーツの才能をその下位に用意する相対化を許さない空間とし、その二つの価値観から外れた生徒の自己存在証明方法を用意しない過ちがすべての生徒に対して優位的位置取りの集合意志(間違った自他優劣表現)を生じせしめているのである。

 解決方法はテスト教育で自己の位置取りができない生徒に対しても社会的に正当とすることのできる位置取りを可能とする生存機会を等しく用意することだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

路面電車に自転車専用ウイング車両を導入してはどうか

2008-12-05 07:52:57 | Weblog

 
 アメリカ社会の一つの大きな象徴であるクルマをアメリカ企業として担ってきたGM、クライスラー、フォードのビッグ3がアメリカ発の世界同時不況を受けて経営難にに陥り、アメリカ政府の金融支援を受けることができて再生への道へ進むことができるのか、それができずに破綻の道を受け入れざるを得ないのか企業生命の岐路に立たされている。アメリカのビッグ3は世界のビッグ3としての歴史をも担ってきただけに、時代の移り変わりを感じないわけにはいかない。

 環境に負荷を与え、ガソリン価格に影響を受けやすい大型車開発優先が災いして、燃費優先・環境対策仕様・低価格の日本の小型車に圧倒されて影を薄めつつあった。

 12月2日の『朝日』朝刊記事≪環境元年 第6部 文明ウオーズ2 クルマ100年 悩む米国≫<エコ技術「日本に負けた」>と副題を用いてビッグ3の現況――ハイブリッド車や電気自動車といった環境対策車の開発の遅れを伝えている。
 その原因がここに来てのGMの資金難による開発資金の減少、二酸化炭素を出さない「究極のエコカー」と銘打った水素を使った燃料電池車は試作車を全米で約80台を試験的に走らせているものの、その商用化が現在の不況下の販売停滞に間に合わず、2015年以降であるといったことにあると解説している。

 人間はその多くが大型車志向を内心に抱えている。その大型車志向はカネが十分に許せばの条件を満たすことによって実現へと向かう。

 アメリカ人だけではなく、日本人も同じだろう。日本のプロ野球の高額年俸を手にしているスター選手などは殆どがベンツ等の高級大型外車を自家用車としているのではないだろうか。

 プロ野球の選手でなくても、ちょっと成功してカネが入ると、大型外車に乗りたがる。金持ち気分を味わえるからだ。バブル時代、東京では高級大型外車が街にあふれていたと言うし、ドイツ車BMWは「六本木カローラ」と呼ばれる程にバブル期の六本木では大衆車であったトヨタのカローラのように金を持った若者や壮年たちの大衆化を受けていたそうだ。

 後付の感想に過ぎないが、アメリカ自動車産業の間違いは社会を形成するすべての人間の所得規模がピラミッド型を取るということに留意しなかったことだろう。いわば人口比で言うと、中低所得層が圧倒的に多いということである。

 クルマを最大の移動手段としているアメリカでは新車を買えない中低所得層は中古車を買って移動の手段としなければならない。アメリカの大型車は新車であっても大型・高重量であるゆえにただでさえガソリンを食い、裕福な者はたいした経費ではないだろうが、中古車となるとガソリンをこぼして走るようなもので、中低所得者にとってはアラブの産油国の石油国有化後の石油の高騰に次第に負担となっていったに違いない。

 日本はアメリカに安価な小型車を投入した。小型で車重が軽いだけガソリンは食わない。しかも環境対策に力を入れ出した。無理をしてでも一度買えば、以後中古大型車に費やした燃料負担は避けられるし、車自体も長持ちする。故障も少ない。結果として安い買い物となる。

 このように移動手段として十分に充足させる新たな製品が登場したのに、誰が好き好んでガソリンを食う大型の中古車を買うだろうか。

 中低所得者に彼らには結果的に高い買い物につく大型中古車を与えてそれでよしとするのではなく、小型車を用意すべきだったろう。中古となっても売れることから、中低所得者に負担を与えていることを考えずに、中古車となっても売れる儲けの上にアグラをかいてしまった。

 上記『朝日』記事はビッグ3の苦境を伝えると同時に、欧州中心に進んでいるCO2の大きな排出源である自動車利用を見直す「脱クルマ社会」の動きが自動車王国のアメリカでも始まっていることを<ロスに路面電車復活構想>と題して紹介している。

 日本の地方の商店街の大方がかつての賑わいを失い、過疎化・閉店化に向かいシャッター通りと化しているように、ロスアンゼルスの都心部を貫くブロードウエイ通りもかつての賑わいを失い、駐車場や空き店舗が目立ち、12軒あった劇場・映画館が2軒に減ったと、日本の地方都市と変らない寂れぶりを伝えている。

 そのブロードウエイにサンフランシスコのようにかつては縦横に走っていた路面電車を2014年敷設を目指して復活させようと市民運動が起きているという。

 路面電車やバスの不便なところはクルマと違って目的地にまで直接乗り入れることができないということだろう。地方へ行く程、導入空間の制約と共に路線は単一化し、目的地に到達するには時間待ちの乗り換えや長距離の徒歩を強いられることになる。

 どこにでも自由に行けるクルマの便利さに負けて電車、バス共に利用者を失っていって、赤字となった路線が廃止の憂き目に遭遇し、特にクルマを運転できない高齢者に移動の不自由を与えているのが地方の現状・地方の姿であろう。

 日本でも各地方で低床式のLRT(次世代型路面電車システム)の導入を図る動きが出ているらしいが、例え導入したとしても、自治体の限りある予算の問題から都市全体にかけて路線を縦横に走らせることは不可能なことを考えると、利用者がより多く見込める市の中心部を申し訳程度に数路線走らせる程度で完結させることとなって、バス同様に利用者それぞれの目的地により近い距離で乗り入れたい希望を満たすわけではなく、移動を果たすまでに乗換えや徒歩を必要とすることに変化はないように思える。

 その上地方自体が過疎化の波に洗われているのだから、例え市の中心部を走らせたとしても、朝夕のラッシュ時のみの利用に傾き、それ以外の利用は少なく、やはりバスの運営と同様に経営は楽ではないに違いない。

 利益がそれ相応に見込めないとなると、便数の増加は勿論、路線の拡充も覚束ない。

 今年3月21日に当ブログに≪路面電車復活は単線方式で≫と題して、路面電車を走らせるなら、道路の中央ではなく、左右どちらかの端に単線で走らせたなら、場所を取らず、クルマの通行の障害にならないことと、乗換えや徒歩の不便を避ける目的でサイクルトレインのように自転車を乗せることができる車両形式にしたらどうかと提案した。

 だが、単に車両内部を改造して自転車の乗入れを可能としても、人一人が通れる幅の従来どおりの乗降口なら、自転車を携えた乗入れに時間と手間がかかって不便であることに気づいた。例え乗降口の幅を広げたとしても、手ぶらの人間が順番に乗入れするよりも時間がかかることは確かである。自転車の乗入をスムーズにしてより便利にしたなら、路面電車の路線が例え少なくても、自転車を利用しさえすれば、目的地により面倒なく直接乗り込むという便利を叶えることができる。叶えることによって、逆に自転車利用者が増えるのではないだろうか。

 その方法は最初に画像で示したように、貨物トラック荷台のウイングドアから考えついたのだが、車両のほぼ片面全体をウイングドアにして全開とし、自転車及び人の乗降をどこからでも自由にして乗入の時間短縮と手間の負担軽減を図ることである。運転席を従来どおりに車両前部と後部に設けてあれば、単線であるなら、運転席を前後に変えるだけでウイングドアは常にプラットホーム側に開くことになる。

 車両自体が低床式でステップが地面から10センチ離れていても、自転車の乗入に支障がないばかりではなく、車椅子も前部の車輪の直径を20センチ程度にしたら、ほんのちょっと人手を借りさえすれば、それ程困難ではないはずである。

 運賃はすべての路線を同一運賃とし、鉄道やバスに利用できる「パスモ」のようにカードにして、開いたウイングドアの下部に感知器を設置して降りるときかざすと、小さな音が鳴り、かざさないで降りる利用客が逆に分かるといった装置にしたらどうだろうか。勿論、無賃乗車が発覚した場合、条例で罰金を重くする必要がある。

 市の中心部を走るのみの路面電車で、自転車も利用できるという方式では過疎地の高齢者の移動の用には足さないことになるが、経営を十分に黒字化することができたなら、黒字分を路線の拡大にとどまらずに過疎地の交通の便向上に向けた投資も可能となるのではないだろうか。

 実現可能性は限りなく低く、たいして役にも立たないアイデアの提示で終わる可能性大だが、いつののようにご愛嬌までに。―― 


 (上記『朝日』記事<ロスに路面電車復活構想>部分を参考引用)

 CO2の大きな排出源である自動車利用を見直す動きは、欧州を中心に急速に進んでいる。自動車王国の米国でも、「脱クルマ社会」への模索が都市部で動きつつある。

 ロスアンゼルスの都心部を貫くブロードウエイ通り。かつて最先端のブディックや劇場が並び、夜遅くまで人出が絶えない繁華街だった。それが今、だだっ広い駐車場や空き店舗が目立ち、12軒あった劇場・映画館も2軒に減った。夕方に多くが店じまいし、街は暗く、閑散としてしまう。

 ここに路面電車を復活させ、街の再生を図ろうという市民運動が起きている。市民団体「ブロードウエイ再生財団」のジェシカ・マクレーン事務局長は「ガソリン価格の高騰と温暖化対策の必要性から市民の意識が変ってきた」。14年の敷設を目標に事業化調査を進めている。

 ロスにも昔、サンフランシスコのような路面電車が縦横に走っていた。ところが、1940年代にバス会社に買収された。その大株主はGMや石油会社、タイヤメーカーだった。買収後、電車の路線は次々にバス路線に置き換えられ、60年代に撤廃された。

 主な都市にあった路面電車はモータリゼーションの波に押され、多くは姿を消した。都市と郊外を結ぶ近距離鉄道も少なく、通勤はマイカー頼み。住宅が郊外に虫食い状に広がる「スプロール現象」があちこちに見られる。都心は居住者が減り、治安が悪化しやすい。自動車文明の「負の遺産」とも言える。

 (【スプロール現象】「大都市郊外部が無秩序・無計画に発展する現象」/マイクロソフト『Bookshelf』)
 
 米国の都市をマイカーを持たずに暮らせるのは、20世紀初頭に地下鉄が開通したニューヨーク、ボストンぐらいと言われる。自動車文明が押し寄せる前に地下鉄で都市交通の基盤が整備されたからだ。

 ロスのように路面電車やモノレールなど小型の鉄道を整え、都市交通の改革を図ろうとする動きは少しずつ広がっている。ロスでは今年8月、シアトル、デンバーなど7都市代表が集まり、意見交換会があった。ポートランドからは都心を走る路面電車の一定区間を無料にしたり、自転車利用を促したりして車利用を減らした実績が報告された。

 「よちよち歩きだが、クルマ社会に対するスローな革命を広げたい」。ロスの再生財団のマクレーン事務局長はいう。(編集委員・竹内幸史)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「男女格差」指数/日本98位は日本の四季折々と同じくごく自然な美しい風景

2008-12-03 08:06:33 | Weblog

 11月13日(08年)の「毎日jp」記事が、スイスの民間研究機関・世界経済フォーラムが12日、世界130カ国の男女格差に関する指数を発表、男女平等に最も近いのはノルウェーで、フィンランド、スウェーデンなどの北欧勢が続いたが、日本は前年の91位から98位へと後退したと伝えていた。

 「ビジネスや政治で決定権を持つポストへの進出度や、教育機会の均等平均寿命などについて、国連統計などを基に算出した」ものだという。

 「平均寿命」も大切な社会的要素だが、何よりも「決定権を持つポストへの進出度」「教育機会の均等」は欠かすことのできない男女が共に生きていくための重要な社会的要素のはずである。

 上記記事は引き続いて次のようにも伝えている。

 「日本は、教育や保健分野では格差が比較的少なかったが、経済や政治での女性の進出度がいずれも100位を下回った。アジアではフィリピンが6位で最高。中国は57位、韓国は108位だった。」――

 「教育や保健」分野はその職に就く足がかりに関しては試験が決定権を持つゆえに男女相互に関する許容意識から離れた個人性に負うところが多いが、「経済や政治」の分野はその許容意識が日本人の行動様式であり思考様式となっている権威主義に支配され、全体的には女性に対して閉ざさている状態を受けた“男女格差”といったところではないだろうか。

 日本人の権威主義は男女の才能・能力に関しては元々は男に権威を与え、女性には権威を与えない男尊女卑の上下・優劣意識によって成り立っていた。戦後、アメリカ型民主主義の洗礼を受けたものの、自ら獲ち取った存在性ではないために薄まってはいても、尾を引いている性差意識であろう。

 日本の四季折々が外来植物や外来生物の影響、あるいは温暖化の影響は受けても日本の自然として残っているのと同じく、日本の権威主義からの男尊女卑は戦後民主主義の影響を受けても日本の自然な男女不平等、あるいは自然な男女格差として残っている社会の姿なのだろう。

 「教育や保健」分野での男女進出を「その職に就く足がかりに関しては」と条件をつけたのは、教員の男女比率が上級学校に行く程、あるいは上位地位(管理職)に向かう程、少なくなって男女不平等の傾向を示すからである。

 「教員の男女比率」に関しては「教員――Wikipedia」の記述が証明している。

 <教員男女比率

 大学を除く幼稚園・小学校・中学校・高等学校における男性教師と女性教師の人数は男性教師のほうが多い。保育士は女性のほうが多いが保育士は教師ではないので除く。

 教師全体の割合は男性教師6割:女性教師3~4割。

 但し、幼稚園・小中学校・高校全てがこの割合ではなく、あくまで全体的な割合である。全体的に見ると女性教師は幼稚園、小学校、中学校と上がっていくごとに減っていく傾向がある。

 女性教師が一番多く勤務しているのが幼稚園で、次が小学校である。幼稚園では女性教師の割合のほうが高く、小学校では男女半々か男性教師が若干多めの人数がいるのが一般的である。

 教師全体の割合中の女性教師4割の大部分は幼稚園と小学校教師で占められている。中学校以上では圧倒的に男性教師のほうが多い。中学校では全国的に男性教師が半数以上を占めており、女性教師は2割以下に減っている。

 特に高校になると極端に女性教師の人数が減少し、全国的に1割程度にまで減る。(一つの高校に教師が20名いたらそのうち女性教師は2名程度)


 元々、男女差別の強かった戦前の日本でも教師には女性の社会進出が多く見られた。この為、他の職業に比べて女性への差別は低かった。但し、戦中は女性教師への職業差別も強かった。

 しかし、当時も女性教師は小学校レベルに勤務することが多く中学、高校レベルでは圧倒的に男性教師が多かった。>――

 この傾向は日本の教育社会が上位学校にいく程に、プロ教師河上亮一が言っている「この教師は怖いと思わせる父性の力」(=権威主義的な威嚇の態度)を必要とするからだろう。プロ教師は時代的な状況が許さないにも関わらず、40年前、50年前、あるいはそれ以上前の父親や教師が怖かった過去の姿、その存在性の回復に恋焦がれているのである。

 「上位地位(管理職)」に於ける男女比率は文部所のHP≪平成17年度公立学校校長・教頭の登用状況について [表10]-文部科学省≫を参考とする。

 題名は「平成17年度」となっているが、調査自体は「16年度末」のものである。これによると、「校長数に占める女性の割合」は

 小学校――18.1%
 中学校―― 4.8%
 高  校―― 3.7%

 上記割合は学校段階での男女教員割合に応じた同じ傾向となっていると同時に採用に関わる教員試験での男女格差を無視した機会均等を採用以後無効化していることを示している。やはり人間関係・地位関係にも多大な影響を与えている日本人の行動様式・思考様式である権威主義に於ける男尊女卑意識がごく自然に仕向けている男女格差・男女不平等であり、日本の美しい四季折々と同じく自然な姿としてある男女の存在性なのだろう。

 このことは日本の国会議員数に於ける男女比率にもそっくりそのまま重なっていて、やはり日本の政治の世界に於ける自然な姿・自然な男女の姿となっている。「女性政治家――Wikipedia」によると、2007年の女性議員数は男女総数の242人に対して42人で、女性が占める割合17.4%に過ぎない。

 そのうち閣僚となると、兼任もあるから、20程ある大臣のうち安倍内閣が4人、福田内閣が5人、麻生内閣が野田聖子と小渕優子の2人に過ぎない。

 日本の権威主義の行動性からしたらごく自然な政治世界ではあり、その姿ではあるが、上記「毎日jp」記事と同じ内容を扱った「asahi.com」記事が日本のこの自然な姿ながら、<首相や国会議員、閣僚の数などの政治分野で107位>だと、世界的なその健闘ぶりを伝えている。

 「男女格差指数」の「韓国の108位」は儒教思想の影響から日本以上に長幼・上下の序列に厳しい権威主義に縛られていて、そのような人間関係に於ける権威主義の力学が波及した男女格差なのではないだろうか。

 日本人の権威主義よ、永遠なれ、である。
 


 以下参考までに「男女格差指数」に関する数社の記事を引用。

 ≪男女間格差、最も少ないのは北欧諸国=調査≫(ロイター/2008年 11月 13日 08:05 JS)

  [ジュネーブ 12日 ロイター] 世界経済フォーラムが12日発表した最新の「世界男女格差報告」では、性別による格差が小さい国は1位ノルウェー、2位フィンランド、3位スウェーデンと北欧諸国が上位を占める結果となった。

 調査は教育面、政治面、給与など経済面、平均寿命など健康面の4つの分野で男女にどのぐらいの格差があるかを数値化。ワースト3はイエメン、チャド、サウジアラビアとなっている。

 ランキング上位の国名、スコアは以下の通り。カッコ内は2007年の順位。

1)ノルウェー     0.8239(2)
2)フィンランド     0.8195(3)
3)スウェーデン    0.8139(1)
4)アイスランド     0.7999(4)
5)ニュージーランド  0.7859(5)
6)フィリピン      0.7568(6)
7)デンマーク     0.7538(8)
8)アイルランド    0.7518(9)
9)オランダ      0.7399(12)
10)ラトビア      0.7397(13) 
 ≪男女平等:日本、98位に後退--世界経済フォーラム≫(毎日jp/08年11月13日)

 【ジュネーブ澤田克己】ダボス会議で知られるスイスの民間研究機関・世界経済フォーラムは12日、世界130カ国の男女格差に関する指数を発表した。男女平等に最も近いのはノルウェーで、フィンランド、スウェーデンなどの北欧勢が続いた。日本は前年の91位から98位へと後退した。

 ビジネスや政治で決定権を持つポストへの進出度や、教育機会の均等、平均寿命などについて、国連統計などを基に算出した。

 日本は、教育や保健分野では格差が比較的少なかったが、経済や政治での女性の進出度がいずれも100位を下回った。アジアではフィリピンが6位で最高。中国は57位、韓国は108位だった。 
 ≪日本、男女格差改善せず 08年版世界男女格差報告≫(47NEWS/2008/11/12 14:09 【共同通信】)

 【ジュネーブ12日共同】ダボス会議で知られるスイスのシンクタンク「世界経済フォーラム」は12日、女性の社会的地位の改善状況を順位付けした2008年版の「世界男女格差報告」を発表した。首位はノルウェー、2位がフィンランド、3位がスウェーデンと北欧諸国が上位を独占。日本は前年の91位から98位へ後退した。

 給与水準や高等教育を受ける機会、政治参加、平均余命などの男女格差を数値化して世界130カ国を比較した。

 日本は平均余命などを反映した「健康と寿命」の指数が38位と比較的上位にランクされたが、政治分野は107位、経済分野は102位、教育分野も82位にとどまり、全体順位は主要先進国の間で最低だった。

 主要国ではドイツ(11位)、英国(13位)、フランス(15位)など欧州勢が上位にランクされた。米国は男女の所得格差の縮小が評価され31位から27位に上昇。ロシアは42位、中国は57位だった。
  ≪男女平等、日本は98位に後退 世界経済フォーラム報告≫(asahi.com/2008年11月17日)

 【ロンドン=土佐茂生】「世界経済フォーラム」(本部・ジュネーブ)はこのほど、世界130カ国の男女格差に関する調査報告書を発表した。平等さの国別順位では北欧諸国が上位を占め、日本は前年の91位から98位へと後退した。女性国会議員の少なさや昇進の男女格差などが減点対象となった。

 順位は、政治、経済、教育、健康の4分野で男女格差を指数化し、国ごとに比べた。日本は、平均寿命で1位となるなど、健康分野(38位)で健闘したが、首相や国会議員、閣僚の数などの政治分野で107位、賃金格差や幹部への昇進など経済分野で102位と低迷した。

 ノルウェー、フィンランド、スウェーデンの北欧3カ国が3年連続で上位を独占。中国は、前年73位から57位に順位を上げた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

党首討論/麻生太郎のツラにショウベン(1)

2008-12-01 08:44:19 | Weblog

 08年11月28日、衆議院第一委員室で衆参両院の国家基本政策委員会の合同審査会として行われた小沢一郎次期首相麻生太郎次期一野党議員との間の党首討論のNHKテレビ中継を文字で起こしてみた。
 
 小沢次期首相「麻生総理大臣とオープンな場で、エー、初めて対面、するわけですありますので、遅まきですけれども、総理大臣就任のお祝いを申し上げます。

 ま、私、2年半余り前に民主党の代表に押されまして、就任して、しましたけれども、今日で3人の総理大臣に3回目の、おー、お祝いを申し上げることになりました。こんなままでいきますと、お近い内に4回目の、おー、お祝いを申し上げなければならない状況になりかねない。そういう心配をしていたしております。しかしながら、私は今日の段階に於きましても、麻生総理のご自身の、おー、決断によって、それを避ける方法が、二つあるんではないかと、オー、思っております。

 その一つは、総理が、ずうっーと、言い続けておりました、年末にかけての、国民生活の安定のために、選挙よりは景気対策だと、経済対策だと、そして、10月の30日でしたか、あー、経済対策を発表に、なられました。そして、これを、実際に、二次補正を提案して、いくんだと、ま、そういう趣旨の発言を、たびたびなさって、まいったと、思います。

 ところが、いつまで経っても、会期が近くなりましても、そのような、政府の、に、ご様子が見えない、もんですから、先だって、失礼を省みず、総理に、直談判を、申し上げたわけであります。

 しかしながら、結局、幹事長を通じまして、今度の、臨時国会には、提出しない、いう話が、伝えられました。私は、これはほんとーに麻生内閣として、総理としてですね、人としてですね、総理として、ほんとーに筋道の、通らない、そして国民に背信行為だと、私は思います。

 そういう意味で、私は、今からでも遅くない、会期の延長をなさる、ようでございますし、そういう意味では、まあ、今日すぐとは申しませんけど、火急速やかに、この補正予算案を提出すると、いうことが、麻生内閣の、そして、総理大臣自身のですね、論理的な、結論であり、筋耳ではないだろうかと、いうふうに私は考えます。

 その、意味に於きまして、先だって、党を通じて、二次補正は来年に提案するという、話がございましたけれども、なぜ、今まで、国民のみなさんに、総選挙を先送りして、景気対策だ、経済対策だと、二次補正出すんだと、言って、おられたにも関わらず、来年に、まわさなければいけないのか。なぜ、今年出せないのか。これ国会出せないのか。そのことを先ずお伺いしたいと思います」

 麻生次期一野党議員「お祝いを言いて(ママ)戴きましてありがとうございました(頭を軽く下げる)。私の方も、兼ねてよりお願いをしておりました、党首討論を、こういった形でお受けいただくことになりました。有難く感謝を申し上げます。

 先ず最初に、ご質問のあった、二次補正の話が出ました。私は、このォ、景気対策と、いうものは、きわめて大きなもんだと思って、おります。少なくとも、今、世界の中で、色々な国々が、景気対策、内需拡大、等々、アメリカ、またイギリス、中国、色々始めておられますが、私共は9月早々に、この問題を提起をさせていただき、お陰様で一次補正も通していただいて、世界の先進国の中では、一番早く、景気対策というものに手をつけた国であったと、まず、その点はそう思っております。(ヤジ)

 その上、その上で、私共は、景気対策というものを考えましたときに、一次対策というものを申し上げた中では、いわゆる、この年末、12月の年末、向けましては、間違いなく、今、補正を、一次が通っておりますので、その中で、中小、小規模企業対策などの、いわゆる9兆円の保証枠、また貸出額等々は順調に捌けておりまして、昨日今日と約1千億、1千百億、そのような毎日、そのような形で、使われておりますのは、もうご存知のとおりで、そういった意味では、これは、仮にこのままずうっと継続しましても、そのぉ、年内のものに関しましては、、これで対応できると、借り手側に関してみれば、そう思っておりますが、もう一つは貸し手側であります。

 貸し手側の問題に関しましては,金融機能強化法、と、言うのが、今、お願いさせていただいておりますが、いわゆる、金融機能強化法の、通していただくことによって、貸し手側によります、貸し剥がし、もしくは、貸し渋り、などが、起きないようにすると、いう貸し手、借り手の、もう一点の問題がまだ残っておると思っておりますんで、是非、この点につきましては、ほぼ審理は終わったように、参議院の方で伺っておりますので、是非、それが早急に成立するように、小沢党首のお力添えを併せてお願い申し上げておきますと思っております。

 ただ、基本的には私は今回の、この景気対策と、言うものは、一次補正、と言うもので、年末、そして二次補正と言うものは、いわゆる、会計年度、といわゆる、3月末に向けて、いわゆる3月のォ、決算対策と言われる、そのォ、いわゆる資金繰りが要ることになります。そういったものを考えますと、そこをきちんとしなければならん。且つ我々は二次補正の中で、いわゆる、この平成20年度の法人税、等々は、かなり減額・減収になると、思っておりますので、それがどのくらいになんのかと、いう点も見極めなければ、ならないと思っております。

 また、この金融機能強化法、まだ通っておりませんので、この通るか通らないかによって、また違ってくる。そういった全体像をきちんとした上で、二次と言うものを、二次補正ってものを、きちんと、お見せする方が、きちんとしておると思います。加えて、景気を考えるんであれば、何と言っても、これは、平成21年度の本予算と、言うものが、一番、肝心なものである。

 従って、一次、二次、そして本予算と、この三つが、私共としては、一つの、三段階、もしくは三段ロケット、色んな表現があろうと思いますが、そういったようなものを含めて、きちんと、対応していくべくき。従って、私共は、1月、異例ではありますけれども、1月早々に、国会をきちんとした形で、通常国会を早めに開催させていただき、そしてこの問題を国民に安心を、得ていただくために、安心を持っていただくための、本予算を、含めて提出する。そういった形にさせていただきたい。

 従って、二次補正と言うものをきちんとまわった上で、と言うのを考えておるが、今申し上げている、1月早々に出させていただく、背景であります」

 小沢次期首相「ええ、総理の今の答弁を、簡単に結論を言うと、一次補正で十分、年末、大丈夫だと。そういったお話だったと思いますけども、私は今の、総理のお話を聞いてですね、聞いてですね、本当に今になって、そのような言い方をなさるっちゅうことは、アー、一国の、総理大臣として、ひじょーに、おかしい、筋道が通っていないと思います。

 まず、一番最初は、私はびっくりしましたのは、一次補正の、審議がまだ行われていないうちに、二次補正の話が政府与党から、出てまいりました。私の経験で言いますと、一つの、予算案が通る前に、むしろ、審議もしていない間にですな、今度は、通る前に、次の予算を話するということは、聞いたことはありませんけれども、しかしながら、いずれにしても、一次補正では、それでは、じゅーぶんでないと、そういうご判断をされた、からこそ、10月30日に今総理の若干、お話になりましたけれども、信用保証枠30兆円、20兆円に拡大する。政府関係の融資を10兆円拡大する。目標30兆円、というものも、含めまして、2兆円の例の問題。あるいは1兆円の交付の問題、等々、色々な話がありましたけれども、いずれにしても、一次補正ではまだ、足りないから、そういうことで、積極的に二次補正を、10月30日にこの国会に出すというお話をなさったんじゃあないでしょうか。

 今になって、来年でいいんだと、いうことになりますと、ちょっと今までの、当時のご発言の趣旨から言いますと、筋道が通らないように、これは私だけじゃなくて、国民の皆さんも思うじゃないでしょうか」

 麻生次期一野党議員「一次補正をつくりました。8月末。それ以後例のリーマンブラザーズという、大きな事件が起きました。もうご存知のとおりであります。このときに物凄く大きな問題が出てきたのは、もうご存知のとおりであります。

 従って、状況としては、どのような形で、これがさらに悪化していくか、と言うことに関しては、私は多くの方々が不安に思われたことは確かだと思っております。

 従いまして、わたしは、総裁に当選させていただきましたあと、10月の末に、いわゆる生活対策ということできちんとしたものをつくっておかないと、少なくとも、この状況がさらに悪化していく可能性というものも、考えねばならぬ、思っておりましたので、二次補正の必要があると、いうことを申し上げておるんであります。

 幸いにして、今のところアレを見ていますと今、月々中小企業、もしくは小規模企業の資金繰りと、いうものを見ますと、少なくとも、このところの貸し出している、量を、比べてみますと、今の段階で、この2日間は、1千億台。そういった形で、仮に営業日が30日ありましたとしても、そこそこ、少なくとも、この問題に関しましての対応はできる。

 もう一点は、貸し手側の話、でありまして、この貸し手側の、この銀行が、いわゆる貸し渋り・貸し剥がしをせざるを得ないような、自己資本比率が下がっておるという、今の状況を考えますと、貸し手側のことも考えて対応する必要があるので、金融機能強化法という法案を、私共は提出させております。

 従って、それは早急に、今殆ど審議は終わったように、伺っておりますので、これを採決していただく、と言うことをありませんと、貸し手側としては、非常に、自己資本比率の問題を、含めまして、色々な問題を考えなければならん、いうのは、もう貸し手側誰でも分かっているところで、ありますんで、それで迷惑を受けんなる。

 また、借り手側と、いうことになりますんで、その意味では、私共は是非、この問題につきましては、小沢党首のリーダーシップ、早急に参議院で、この結論を出していただくんですけども、お願い申し上げておりますが、この点については、如何がお考えか、お聞かせいただければと存じます。」

 小沢次期首相「あの、先程来から、法律の話を、総理はなさっておりますけれども、私共は総理との会談のときも申し上げましたように、意図的に審議を延ばして、ということはしないと、(ヤジが凄く、言い直す)意図的に審議を引き延ばすようなことはしないと言うことを申し上げましたけれども、十分な、常識的な範囲で(ヤジ麻生、聞き取ろうと、耳を前に突き出す。)、総理が聞こえないようですから、ちょっと――。常識的な範囲で、審議を尽くして、そして結論を出すということを申し上げております。

 ただ、金融機能強化法につきましては、私共も、政府案とは別な主張がございます。従いまして、その点につきましては、是非参議院でも修正の協議に自民党も応じてもらいたい。今自民党はまったく、それに応じようと、していないのであります。是非それは総裁の方からも指示をしていただいて、貰いたいと、そのように考えております。

 それから、もう一つ、の、それに関連しての話ですが、貸出す側の問題も、これちゃんと手当てしなければならないちゅうことですけれども、本当にですね、総理のご認識が、この間で、一次補正で以って、大丈夫、年末を越えられると、いう、ご認識のようですけれども、色々な調査を見ますと、もう既に10月では、倒産件数前年比14%増。それから雇用も、非正規の雇用者、みーんな打ち切りになってきている状況。まさに正社員にまで、その、いわゆる俗に言えば、首切りの、雇用の中止は求められている。そういう状況でありますから、特に中小零細企業のみなさんの資金繰りが、大変厳しいということ、倒産が多いちゅうことは。

 だからこそ、総理も信用枠を、30兆――、20兆円にしましょう、国庫の、あれを10兆円にしましょうと、そういったわけでしょ?

 ですから、それをまさに今、どうして国会に出さないのか、ということがね、誰が考えても分からない、ことじゃないでしょうか。

 ただ、もう一つの、理由としてですね、例えば、アー、理由に上げられること、ありますけども、これはこれでまた別の話でございます。まして、これほどの不景気だからこそ、補正予算を早くしなきゃいけないんでしょうが。

 ですから、私は、そういう意味に於きまして、今まで総理が言ってこられたことと、最近になりまして、総理がおっしゃってることは、まったく論理一貫しないと、私は筋道の通らない話だと思います。

 もう一度、お伺いしますけれども、補正予算の件についても、この間の会談では申し上げましたが、常識的な範囲できちんと、結論を得るようにいたします。それはまた、ここでも繰返しますけれども、補正を出す意思はまったくないということですか?」

 麻生次期一野党議員「先ず、最初に、あの、この間の、申し込みにこられました、官邸にご足労いただきましたけれども、あのとき、に、いただきました、審議に、できる限りと言われました?審議に応じるという、お話いただきましたが、今、こういった公開の席で、こういった形でお受けいただきましたことは真に有難く、私共としましては、大変有難く思っております。

 先ず、これは、今後、色々審議していく上で、非常に大事なことだと思いますんで、こういったことが実行にされていきます。リーダーシップはお持ちでありますんで、そういった意味では基本的には我々としては大変感激をしております。感謝を申し上げます。

 その上でェ、申し上げますけれども、二次補正につきましては、先ほども申し上げましたとおりに、我々としては少なくとも、今の段階で、今、この国会の中で、審議をされていません。この金融機能強化法は、まだ、裁決されておりません。これ凄く、一次補正とも関係する、凄く大事なところでありまして、金融機能強化法というものに関しましては、衆議院で一部、これは修正をした上で、このような形で、通過をして、参議院に送られてきたと、私はこのように記憶しております。

 従いまして、衆議院で採決され、修正に応じて、採決をされて、参議院に来ておりまして、是非、この分に関しましても、早急にこれを採決いただきませんと、貸出し側の方で、大きな影響が出ると、ということを申し上げておるんで、これ、二つは、借り手側と貸し手側と、両方の、話ができませんと、この資金というものは、資金繰りというものはできないと、いうのは、これは商売をしていれば、誰でもご存知のことだと、存じております。

 従いまして、この問題も併せて解決していただくと、それが私共としては一番大事なことだと、これは一次補正ですよ。一次補正の話ですから。

 従って、二次補正に関しましては、今申し上げましたように、先ほど申し上げた答弁の繰返しになるようで恐縮ですけれども、この一次、二次補正の中には、いわゆる二次補正問題として、いわゆる、大きく20兆になります。資金繰りの元になります。貸出し枠の5千億の話、いわゆる生活対策、の問題とか、金融機能強化法と、いうものに、が(ママ)、仮にこれが通りました。それに対照して、いたしまして(ママ)、そこの2兆円をさらに、増やさなければならない。それが二つ。

 そして三つ目が、減額補正の問題。三つの分を纏めて提出するという、のが私共としては基本的に正しいと。国民にも、その方がご納得いただける。それが大きな理由であります。

 また来年に関してはどうかというお話でしたけども、連日、貸出しを見て、おりますこのところ、でありますと、少なくとも借り手側に対します貸出しは1日約、昨日今日で約1千億円でありますから、営業日数を計算しましても、今回の9兆円で、年末は一応できるのではないかと。借り手側から見ますと、そのような数になっていると思います」

 ≪党首討論/麻生太郎のツラにショウベン(2)≫に続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

党首討論/麻生太郎のツラにショウベン(2)

2008-12-01 08:40:37 | Weblog

 小沢次期首相「あの、さっきも申し上げましたように金融機能強化法につきましては、私共の主張もありますので、その点を参議院では野党が多数でありますから、参議院でも修正の審議に、協議に応じて、いただきたい。そしてその上でもう協議はしないとおっしゃってるらしいんで、そこは総裁から言っていただいて、そして協議して、速やかに成立できるようにしたらいいと私は思います。

 それから、これもまた繰返しになりますが、言いませんけれども、本当に総理はこの一次補正の、これだけで、この11月から12月、年末にかけての危機を乗り越えることができると、そうお考えなのでしょうか。

 私は本当にさっき申し上げましたが、倒産件数も10月14%増、11月12月はもっともっとふえてくると思います。それから、職を失う人もおーぜい増えて、くると思います。ですから、そういう意味に於いて、本当に総理が総選挙よりも景気だ、政局よりも経済だと言ってこられた。それが本当の総理のお考えならばね、やはり、ここで二次補正を出して、本当に国民の生活の安定を図っていく、というのが、私は、総理のお話の筋道だと、いうふうに思います。

 ま、しかし、今年はもう一次補正だけでいい。来年で、エー、にまわすと、いう答のようございます。これ以上は繰返しませんけれども、私共は本当に、しんどい厳しい年末を迎えることになるんじゃないかと、このように考えております。

 それから、その方法は採らないということですから、いや、二次補正は出さないという方法は採らないという結論ですから、もう一つですね。それはもう一つの方法はですね、総理の初心に返ることだと思います。総理は就任する直前から、マー、兎に角国民の主権者の審判、選挙の洗礼を仰ぐと、いうお考えを持っていたやに、伺っております。私はそれは正しい考え方だと思います。今、大変失礼なことを総理に申し上げて恐縮ですが、何の問題でも、今日ゆったことと 明日の言ったことが、また結論が違ってくると。そういう迷走を繰返しているのは、結局は、選挙の洗礼、国民の審判を受けて、その国民の支援の背景の下に、総理がリーダーシップを発揮すると、いうのが民主主義のあり方だと思います。多分、総理もそのようにお考えになっていたんだろうと思います。

 私は、今ね、こうして、来年に、補正予算を送るということならばですよ、今直ちに解散総選挙して、そして国民の審判を仰いでいいじゃないですか。

 私は、そういう意味で、二次補正――、経済対策・景気対策が、急務だ、急務だ、選挙やってる暇なんかないんだと、言いながら、来年に二次補正を送っているわけですから、現実の、金融機能強化法の問題は、それはそれでちゃんとしなければいけませんけれども、12月に十分選挙できるじゃないですか。

 私の、私の初当選の、昭和44年の12月、私の初当選の昭和44年の12月27日でした。年末の選挙っちゅうのは往々にしてよく行われてきたことでも、あります。従いましてこの機能強化法のことは、それはそれとしてきちんと整理しながら、年末、この12月に解散総選挙を断行して、そして麻生総理、あなたが国民の支援を得られたら、どうぞ、総理の思うとおりの、政策を実行したらいいじゃないですか」

 麻生次期一野党議員「先ず最初に、まず二次補正のお話いただきましたけども、二次補正に関しましては先程お答えを申し上げましたとおり、私共は、一次、二次、そして本予算等、この三段ロケットで以てきちんとやる。同じご質問をいただきましたので、同じ答弁をさせていただいた次第です。

 そしてその上で、今、先程、最初にもご質問いただきましたけども、解散をして、というお話でしたし、私も、解散というのは一つの手段だと当初思っておりました。そのとおりです。私もそのとおり思っておりました。ウソを申し上げるつもりはありません。但し、その後起きております今の状況というものは、少なくとも世界の中で、少なくとも100年に一度言われる程の、100年に一度と言われる程の、金融災害と、いうような言葉が使われる程の、大きな問題となり、世界中、それに対応に必死になっている中で、私共は政治空白をつくるというような状況は少なくとも今のアメリカの中に於きましても、そのようなことになっております。アメリカの今も厳しいことになっておると思います。

 なかなか最終決断者が誰なのか、難しい、いう話をよく言われております。そういったことを我々は第二の経済大国としてすべきであろうとも思いませんし、私共はそれに応えるべく、きちんとした対応をするためには、やっていくべきだと、今問題で思っています(ママ)。

 またァー、今三回目、三人目の党首、三人目、三人目の党首討論。ああー、総理大臣か。総理大臣とかお話をいただきましたけれども、そりゃあ、議会制民主主義のルールですから、我々は大統領制と違います。少なくとも議会制民主主義に於きまして、少なくとも、トニイ・ブレアという人からゴードン・ブラウンに変りまして、まだ一回も選挙をやっていないと、私は記憶をいたしますので、そういった意味では、これは別に瑕疵があるわけではない。これははっきりしていると思っております。議会制民主主義に則ってルールのとおりにやらせていただいておると、いうことだと思っております。如何にも何か問題があるかのように言われますと、これは議会制民主主義というルールですから、そのとおりにやらせていただいておると思っております。

 従って、今の状況の中に於いて、雇用の問題、倒産の問題、ご指摘のとおりです。従って私共は色々な形で、雇用対策、含めて、色々な問題を解決すべく、いうことで、色々対策を練らしていただき、私の、私の方から各担当大臣に、この雇用対策に、いうもんにつきましては、若者支援、含めて、いろんなことを既に色々やっておりますが、これは早急にできるように、さらなる対策をする必要を検討しろと、いうところを命じたところでもあります。

 また、倒産件数につきましては、確かに世界中の不況の中にありまして、我々もそれに対する対策を考えねばならぬことは当然ですが、是非その点に関しましては、借り手の問題としては、今申しているとおりでございます。重ねて申し上げます。貸し手の方につきましても、その対応ができますように、参議院で早急な、あれをしていただき、そして我々はこういった形で、参議院で協議をというお話をいただきました。私共も参議院で協議をというお話をいただきましたが、こういった問題に関して、政党間で協議ができると言うのは、喜ばしい事だと思っております。

 是非、そういった意味で政党間協議が出せますように、いずれ本予算が、等々やらせていただくことになるんですから、その場に於きまして、是非ネックストキャビネッツ初め、色々対策をしておられる方もいらっしゃるのだと思いますんで、我々も担当大臣、また幹事長、政調会長という者と、そういった協議ができるような場を与えていただければ、そういった話をきちんとさせていただいて、色々な協議ができることこそ、私はこのねじれ国会、中での建設的な答を与えられるもんだと、国民の期待しているところだとも思っておりますんで、是非、その点のお力添えを本予算に於いて、さらに色々、さらに協議をせねばならなん自体になるやかもしれませんので、是非、併せてお力添え、指導力をお願いを申し上げておきたいと思います」

 小沢次期総理大臣「あのォ、総理が今もお話になった、ことは、一次補正で以って大丈夫、今年、年末へ向けて乗り切れると、いうお話をなさっておった。そして二次補正は来年回しでも大丈夫だと、ということでおっしゃいましたから、二次補正は出さないと。

 そんならば、それこそまさに、政治の空白そのものじゃないですか。私はそういう意味で、経済対策にはスピードが大事だ。総選挙よりも景気対策だ。そして、二次補正も出すんだ。そう言ってこられた総理が、一次補正で十分だ、二次補正は来年でいいんだと、言うんならば、当初の総理の所信どおりの、トニイ・ブレア等の例を出しましたけども、2年半のうちで三人、総理がコロコロ変って選挙もしないという例は、あまり聞いたことがないと思います。

 従いまして、この12月、期間があるんですから、総理が一次補正でも十分だとおっしゃるんならば、是非解散総選挙をやって、さっき申し上げたように総理だってやり易いでしょう。選挙で勝たれれば、それで強力に内閣ができるわけですから。それはどちらにとっても、選挙で勝つことで、国民の支援を背景にして、政策を実行すると、いうことでなければね、これは本当の強い強力な政策、思い切った政策は実行できないですよ。

 私はそのことを申し上げた。さっきから言っているわけです。これでもう時間がありませんでね。時間がないので、最後にちょっと申し上げますけども、総理のね、総理のお話があまりにも、コロコロ変り過ぎる。あるいは非常に不適切な話が多すぎる。そういうことであります。この間も、『医者は社会的常識の欠落してる者が多い』とか、また、『たらたら飲んで食べて何もしない人の医療費を何で俺が払わん(ならん)のか』という話をなさったと、洩れ聞いております。いずれにしても、いずれにしても、わたしは、総理の言葉というものは、もっと、もっと重いものだと思います。昔からの言葉に、綸言、汗の如し、という言葉もあります。どうか、そういう意味でね、本当に総理が、今後、きちんと筋道の立った、そして自分自身の発言に責任を持って、やっていただきたい、いうことを、最後に申し上げて、総理の見解あれば、申し上げて、お聞きして終ります」

 麻生次期一野党議員「二次補正に於きましては来年、あのー、1月早々に出させていただきます。従いまして、これには当然のこととして、補正予算を執行するために、関連法案が出てまいりますので、この関連法案の審議を先程お言葉をいただきましたんで、我々としては、早急にこれを詰め上げるべく、減額補正含めて、きちんと対応させていただきたいと思っております。是非、そのときはそういった協議を、また、こういった党首討論を含めまして、色々なお話をさせていただければと、心から期待をいたしております。

 最後になりましたけど、今、もう一点、言葉に重みがないという、ご忠告をいただき、有難うございました。あの、総理、総理としてこの言葉にもっと重さが出るように今後とも努力をして参りたいと思っております。あの、色々と私の発言等々で一部誤解を与えたということに関しては、私共といたしまして、お詫びを申し上げたところでもありますけれども、是非、そういう点を含めまして、私共は発言に関しては今後とも気をつけて、総理としての職務を全うして参りたいと思っております。

 是非とも、この、こういった党首討論等々含めまして、今後とも、こういった機会を与えていただいて、双方で意見の違いを明確にさせていただいたり、また合うところがあるんであれば、是非我々としては然るべき担当を出しますので、双方できちんとした話を詰めさせていただき、最後につきましての政党間協議、政策協議が大臣と、そちらのネックストキャビネッツとの方々で是非やれるような機会を与えていただきますと、本予算の審議に於きましても、非常に、私共としては、建設的な話し合いができるもんだと、私共としては、心から期待しておりますので、重ねて、ご理解と力添えの程をお願いを申し上げておきたいと存じます。有難うございました」

 小沢次期首相「まだちょっと、あるんだそうで、一言申し上げたいと。あの、私は総理の言葉が軽いと言った意味はですね、総理だけじゃなくて、みんな自戒しなくちゃいけないですけれども、その自戒というのは自分も含めて、自分も含めてのことでございます。言葉面の話ではなくして、言葉面の話ではなくして、自分がこうと思って話したことは、それはきちっと貫かなくちゃいけない、と言うことだと思うんです。

 また今度のことで言えば、いわゆる政党間協議云々ではなくして、国民に対して総選挙よりも経済対策、景気対策が大事だと言って公約なさったんですから、それをやっぱり実行、ちゃんとしないと、二次補正含めて、そうおっしゃったんだから、そういう意味に於いて、私は、あのー、特に総理は綸言汗の如し、という言葉そのものに、やっぱり、一番最高権力者ですから、その最高のリーダーが、やっぱり、一度自分自身でこうと、言ったことに、特に国民と約束したことは、きちんと約束を守るという態度に徹していただきたい、そう思います」

 麻生次期一野党議員「あのー、基本的にあの思っているとおりのことをきちんと自分の信念を、大事なことだと思います。私もそのように考えております。それは私、私共も同じように考えて、多分小沢党首も同様な考えで、これまで政治生活をこられたんだと存じますし、私もそのように思って政治生活をこれまで送らせていただいたもんで、私自身もそう思っております。

 従いまして、今申し上げましたように、私共は今回は政局よりは政策だと最初に申し上げております。そして、そのとおりに実行させていただき、一次補正の中に於いて、少なくとも、借り手側の話につきましては、一応の対策はできたんだと、数字の上がりも、そういった感じをいたしております。問題は貸し手側の、というところを、ありますので、是非、その貸し手側、につきましては審議、並びに採決をよろしく重ねてお願い申し上げたいと存じます。是非そういった上で、私共はこの年末にかけまして、我々は年末の予算というものを考え、一次補正に続きまして、二次補正、そして本予算と、きちんと1月には通常国会に於いて提出させていただきたいと思いますので、是非、協力の程を重ねてお願い申し上げて、時間だと思いますので、お答なり、答弁に代えさせていただきますが、是非こういった、こういった形でかねてからお願いといたしました、党首討論がきちんとできましたことに関して重ねて感謝を申し上げ、今後ともこういった形で党首討論ができて、国民の前で堂々と意見が交換できます機会があることを心からお願い申し上げて答弁なり、私の意見に代えさせていただきます。有難うございました」(終了)

 ――以下、感想。

 小沢次期首相は最初に3人の首相に就任祝いしてきたが、4人目が近いんではないかと述べた。4人目は自身が就任祝いを受けることになるのではないのか。

 麻生次期一野党議員「お陰様で一次補正も通していただいて、世界の先進国の中では、一番早く、景気対策というものに手をつけた国であったと、まず、その点はそう思っております」と自画自賛しているが、客観的認識性に欠けているから、つまり単細胞にできているから、お目出度いことに「政治は結果責任」という鉄則を忘れている。痩せ馬の先っ走りということもある、効果・成果が問題だと気づいていない。安倍前首相も教育基本法を改正したことを自分の首相時代の成果として誇っていたが、改正したからと言って日本の教育がどう変わったと言うのだろうか。外側のハコをつくり変えたに過ぎない。

 中小企業の資金繰り支援のための9兆円規模の緊急保証制度に関して、麻生太郎は
「9兆円の政府保証枠、中小、小規模企業対策などの、いわゆる9兆円の保証枠、また貸出額等々は順調に捌けております」と暢気なことを言っているが、景気が上向いている状況を受けて設備投資等に向けた資金調達ではなく、急激な景気悪化を受けた緊急避難のための資金調達なのである。「順調に捌けて」いる分、多くの中小企業が経営悪化に陥っていることの歓迎せざる証明でもあって、そのことを景気悪化度のバロメーターとして、逆に「順調に捌け」ない状況の方をこそ歓迎すべきなのだが、麻生の脳ミソは一般人とは逆さまに収まっているらしい。

 また短期間に全体的な景気の回復が望めないまま、さらに景気が悪化する状況に見舞われた場合、
「資金調達」は焼け石に水となってさらなる「資金調達」が必要となり、中小企業にとって際限もない負担とならない保証はない。

 だからこそ、小沢次期首相が後でいう
「倒産件数前年比14%増」という状況があるはずである。

 麻生がすべきは
「政府保証枠」「順調に捌けて」いることよりも、全体的な景気回復に向けた速やかな政策の実行であろう。

 それを、一次補正、二次補正、本予算と一連の提出に関して
「三段階、もしくは三段ロケット、色んな表現があろうと思いますが」と、中身と成果が問題であることに目を向けることもできずに表現に拘りを見せる見当外れを演じて得意然としている。

 これも単細胞の現れ。

 小沢次期首相が解散・総選挙を迫ったのに対して、麻生次期一野党議員
「トニイ・ブレアという人からゴードン・ブラウンに変りまして、まだ一回も選挙をやっていない」とか、「議会制民主主義に則ってルールのとおりにやらせていただいておる」「別に瑕疵があるわけではない」とか言っているが、トニイ・ブレアは安倍、福田みたいに1年そこそこで政権運営に行き詰って無責任に投げ出したわけではない。そのこと自体が既に「瑕疵」であって、麻生新内閣に対する国民審判は安倍、福田の政治的無責任をも勘案されなければならないはずだから、それが冷めないうちの早い時期に行われるべきであろう。

 そうしなければ、安倍・福田紛いの無責任が罷り通ることになる。しかも今現在、解散・総選挙を先送りする“政治的無責任”を麻生はやらかしている。

 小沢次期総理
「総理の言葉というものは、もっと、もっと重いものだ」と指摘したのに対して、麻生次期一野党議員「総理としてこの言葉にもっと重さが出るように今後とも努力をして参りたいと思っております」と一見殊勝げなことを言っているが、それで締めくくらずに党首討論だ、政党間協議だ、政策協議だとスムーズな審議や採決だけを願った言葉で締めくくっているのは、謝罪や反省よりも後者に重点を置いていることからの無意識の順序づけが現れたものであろう。

 そのことは続けて言った麻生次期一野党議員
「色々と私の発言等々で一部誤解を与えた」という言葉が証明している。「誤解」だとする罪薄めを自ら行っているだけではなく、例え一部であっても、常習犯化した各失言ごとに与えた「一部」が積み重なれば「大分」となることは無視して「一部」だと限定する神経は自らの失言に何ら痛みは感じないばかりか、何ら反省もしていない姿勢の現れであろう。

 まさしく蛙のツラにショウベンなのだ。しかも政党間協議、政策協議、審議、採決のお願いに始まって、そのお願いの連続で終わっている。頭から足の爪の先まで“お願い乞食”と化していた。一国の政治を運営する総理大臣の胸を張った姿はどこにもなかった。

 小沢次期総理はこう言ってやるべきだった。

 「首相の言葉は軽いものであってはならない。重くなくてはならない。しかしあなたの言葉は軽い。総理大臣の資質に欠け、その資格がないから軽い言葉しか出てこない」

 総選挙で勝って、国民の支持を背景に強い政治を行おうという強い意志を持てないだけの話。総理大臣としての無資質・無資格を身とした、そこから出た錆。元々リーダーシップなど持ち合わせていなかったのだ。蛙のツラだけは持ち合わせている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする