日本人がつくる人間関係に関わる体系すべては日本人性に影響を受ける。日本人性から出た制度、組織、慣習を形作る。何事も日本人性の反映を受けて成立・維持していくのだから、それはごく当然な因果性であろう。国と地方の関係に於いても、日本人性がつくり出した力学下にある。
このことの理解に役立つ新聞記事がある。
「地方分権描けぬ道筋」(06.7.21.『朝日』朝刊)
「地方分権で、国と地方の役割を見直す『新分権一括法』の制定が焦点となってきた」という出だしとなっている。新法の必要性では内閣・与党とも認識が一致しているが、その道筋が描けないでいるという内容の記事である。ここにきて小泉構造改革も迷走状態に入ったようだ。
「小泉政権が進めた三位一体改革は、補助金削減や税源委譲などのカネの配分見直しが柱だったが、国と地方の役割分担から改めて問い直す」(同記事)こととなったというから、「小泉政権が進めた三位一体改革」は最初から満足な内容を伴っていなかったと言うことだろう。
あれほど三位一体、三位一体と大騒ぎしていながらである。「カネの配分見直しが柱だった」と言っても、財政再建の必要上、国の負担を何兆円ぐらいは減らしたい、地方への財源移譲は何兆円に抑えたいといった、国により都合のいい差引計算で単に数字を弾き出しただけのことだから、〝見直し〟は次なる予定調和として宿命的に抱えていたということなのだろう。構造改革、構造改革とさももっともらしげに言い募ってはいたが、数字上の操作か職務配分上、あるいは配置上の機械的な操作・改変程度で終わっている改革ばかりではないか。
特殊法人や独立行政法人の整理統廃合にしても公務員改革にしても、いくつのものをいくつにするかといった差引計算、あるいは現在の数字をどのくらい減らすかといった最初に数字ありきで、組織・制度に於ける人事的な機能性の改善抜きでは本質的な問題解決にはつながらない。
人事的な機能性の中で最も問題としなければならない事柄は日本の官僚が特に血とし肉としている日本人の権威主義性がもたらし制度化している縦割りと縄張りの問題であろう。それが手つかずのままでは諸外国と比較してただでさえ低い公務員の生産性(無能ぶり)は低いままで推移し、改革が改革の体裁を成さないことになる。統廃合や人数削減で従来以上に生産性を上げなければならないところを、逆に組織改変や人数が減ったからと縦割り・縄張りが今までどおりに機能しないより悪い方向に病変して、その混乱によって逆に生産性がなお一層落ちる恐れなしで、改革が組織・制度の表面をいじっただけのこととなり、より始末の悪い結果をもたらすことになりかねない。
改革が数字を弾き出すか、職務に対する機械的な操作・改変程度で終始するといったことも日本人性に深く関係している。上は下を従わせ、下は上に従う権威主義の力関係・人間関係に阻害要件となることから欠如させている創造性のなさが、そういった機械的操作に向かわせているのだろう。
記事は国と地方の関係について次のように伝えている。「現在の分権一括法は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した。ただ、地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残り、役割見直しは不十分とされてきた」
カネの配分だけではなく、国の役割を主体に地方の役割をも一括して見直すべく取りかかろうとしているのが「新分権一括法」と言うことらしいが、「現在の分権一括方は、国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え、機関委任事務を廃止した」と記事が解説している国と地方の関係内容と、「地方全体の仕事の7割に相当する部分が国の関与が残」っている関係内容とは相矛盾する成立過程となっている。「国の関与が残」っている以上、「国と地方の関係を『上下・主従』から『対等・協力』に変え」たとは言い難いからである。
そもそもからして21世紀の自由・平等の民主主義の時代に自由・平等の民主主義に真っ向から反して「国と地方の関係」が「上下・主従」の権威主義的関係にあること自体、日本人が権威主義性を如何に歴史・伝統・文化としてきたか、「国と地方の関係」がそのような日本人性の反映の一つの姿であることを否応もなしに証明している。
そのようにも歴史・伝統・文化としてきた「国と地方」の「上下・主従」の権威主義的関係である、地方との間に「7割」も「国の関与」を残していて、「対等・協力」の関係に移行するわけがない。
例え「関与」がゼロとなったとしても、「対等・協力」の関係は成立しないだろう。権威主義性は日本人が血としている行動様式である。一朝一夕には消えてなくなるものではない。自分たちの情けない血を自覚して、余程意識的に行動しないことには中央の政治家・役人にペコペコ頭を下げる民族的に刷り込まれた習慣はそう簡単には改まらない。
国の関与が「7割」からゼロになり、地方が完全独立を獲ち取って完璧に別個に仕事をすることになったとしても、いわば地方の役人が中央の役人と顔を合わすことがなくなったとしても、県が今度は一番上の地位を獲得することによって、その権威主義性を強め、これまでの国と地方の「上下・主従」の権威主義的な人間関係に取って代わる形で、県と各市町村との従来からあった「上下・主従」の権威主義的な人間関係にさらに上乗せされる可能性無きにしも非ずである。
また国会議員が自身や秘書、あるいは系列の県会議員を通して地元選挙区の県の政策や事業に介入する政治家と県との権威主義的な支配・被支配の関係は国の関与とは別個の場所でも行われていたことであって、そういった権威主義的関係をも排除しないことには、いくら「新分権一括法」だと法律をこね回したとしても、改革の底から水漏れが生じない保証はない。
役人の天下りにしても、権威主義が助けている制度・慣習であろう。一旦手に入れた上下関係の有効期限が変化せずに持続するからこそ、天下りは成立する。在職中の内外に対する上下関係が離職後失効して対等性を招じ入れる類のものなら、天下りは成り立たない。離職後、特に在職中の内に対する上下関係が際立って力を持ち、その関係で有効期限が長く持続するものなら、再就職先で天下りとしての価値が高まる。
また天下りは中央の役人の特許ではなく、地方の役人の特許ともなっている生業(なりわい)であって、権威主義性が網の目のように日本社会を覆っていることの証明でもあろう。
天下りに顕著な形で見ることができるように、権威主義的な人間関係が機会の不平等をつくる大きな要因となっている。上に位置する力の強い者が下を従わせる特権を利用して、より有利な機会を手に入れ、下の者の機会を奪う。機会獲得の不平等は当然のこととして、利益配分の不平等をもたらし、そのことが格差をつくり出していく。よく言われる国と地方の格差も、国と地方が権威主義的に「上下・主従」の関係にある同じ構図からの利益配分の不平等がもたらした格差であろう。
そういったことに手をつけずに、手をつける頭もないからだろうが、安倍晋三は日本を「勝ち組」「負け組」に固定化しない再チャレンジ可能な社会にしていくと勇ましく大見得を切って、5月22日(06年)に第二の人生として農業を目指すサラリーマン退職者などとの意見交換を行ったそうだが、一応の功なり名を遂げ、それなりの生活資金を蓄えた、いわば「勝ち組」に入れてもいい人間相手により確かに「勝ち組」に位置づけていこうとする〝再チャレンジ〟支援であって、譬えれば天下りに新たな利益を与えるべく手を貸すようなもので、「勝ち組」「負け組」を固定化しないという趣旨に反することをして、その矛盾に気づかずに得意顔となっている。所詮「再チャレンジ」は奇麗事の政策で終わる宿命にあるのだろう。
日本人は上に立つとふんぞり返りたくなり、下に位置すると上に対してペコペコ頭を下げて取り入ろうとする人種である。そのような上下関係を改めることからすべての改革は手をつけるべきではないだろうか。真に対等の関係となったとき、言いたいことを言うことが可能となり、そこから政策にしても制度づくりに関しても、創造的な発想が生まれてくる。
情報の応用・処理能力不全は日本人性なのか
夏の暑い日に駐車場に止めた車の中に幼児を置きっ放しにしていたことも忘れてパチンコに何時間も夢中になったり、あるいは買い物で商品選びに長時間費やしてしまい熱中症で殺してしまう、過去に何度もあった愚かしさからの悲劇を子育てに関わる戒めの情報の一つに付け加えることができない大人がどうしようもなく存在し続ける。
父親の親権喪失にまで至った幼い長男に対する虐待の前歴を情報として伝えられ、把握していながら、また他の姉弟(小学2年生の姉と小学1年生の兄)の発育状態が普通の子どもよりも劣悪で、手や顔にケガの跡があることを学校から連絡を受けていながら、兄弟のうち残る3歳の三男の状況把握のために一昨年10月に面会したものの、顔にあざがついているのを確認していながら問題なしとし、小学校に通う次女の様子を通して一家の状況が把握できるという理由でそれ以降一度も面会せずに放置し、結果的に今年の5月に十分な食事を与えられない状態で死亡させてしまった児童相談所の児童虐待に対する繰返し起こる今回の機能不全。有り余るほどの情報を手に入れていながら、それらの情報を情報として有効に生かすことができなかった。
情報は収集することが目的ではなく、収集した情報を如何に相互に関連付けて自分たちの情報としてつくり上げ、自分たちのものとした新たな情報を如何に処理・応用して職務に役立てるか、そういった当たり前にしなければならないことが当たり前に行われていない。何のための情報収集だったのか。役に立てることのできない情報は収集する意味を失う。
自分のことに夢中になって車に放置したまま子供を死なせてしまう若い夫婦はバカな人間だで片付けることができるが、児童相談所の人間はそれなりの高等教育を受けているばかりではなく、職務上、児童問題について様々な勉強を積み、それらを基礎に社会的経験をも積んで、それなりの知識・教養を身につけているはずの人間である。教育と経験・教養が何ら機能しないという逆説は何を意味するのだろうか。情報処理・応用能力の未熟性は日本人性としてある自然な姿だと言うなら、如何ともし難い。
埼玉県ふじみ野市営の流水プールでの今回の事故(06.7.31)。吸水溝のボルトで締めるはずを針金で留めておいた柵が外れて、柵の1枚を遊泳中の小学生3年の男児が見つけて近くの女性監視員に渡したが、彼女も他の監視員もそれが何のための物なのか理解できず、事務所の社員が吸水口の柵だと気づいて、監視員に人を近づけないように指示して補修道具を取りに行っている間に小学2年の女児7歳が吸い込まれて脳挫傷で死亡させてしまった。
ボルトで締め付けておくべきを針金で簡単に取り付けておいた手抜きもさることながら、監視員に人を近づけないように指示したのが事実とするなら、指示によって表された情報を即座に処理・応用することができなかった任務遂行に関わる無責任と考えた対応(創造的な臨機応変性)の欠如、さらに監視員が柵が何を目的に利用されている物なのか即座に理解できなかった情報伝達の不徹底と、「1時間に1度の点検も、吸水口の確認はせず、プールの水底に危険物が落ちていないかどうかをチェックするだけだったという」(06.8.2.『朝日』朝刊)ことから判断すると、過去に吸水口や排水口に関係する事故が何度となく発生しているのだから、それを教訓として「1時間に1度の点検」に関しても吸水口・排水口を主たる危険箇所としてチェック項目に入れておくべきを入れておかなかった情報活用の不備をも問題としなければならないのは当然のことだろう。
情報化社会、情報化社会と騒ぐが、それは単に双方向的な情報伝達の機械化が高度化し、一般化したと言うだけのことで、伝えられた情報をどう解読し、どう活用するか、伝えられる情報が指示という形で特定の目的を持っている情報なら、その目的に添って読み間違いなく如何に判断し、如何に処理するかといった情報の処理・応用に関わる基本は双方向的な情報伝達の機械化の高度化・一般化とは無関係のことで、それらが発達状態にあるからといって、そのことに対応して情報の処理・応用能力までが高度化するわけではない。
政府の人間が日本人の情報処理・応用能力の未熟性に目を向けずに、情報機器の配備状況と使用環境整備(インフラ整備)だけを以て日本はIT大国だと言っているようでは、未熟性は無理のない話かもしれない。
テレビで報道していたことだが、プールの汚れた水を浄化装置を通してきれいな水にして元に戻す排水口の柵に足を突っ込んでしまった小学生を大人が引き出そうとしたが吸い込む水の勢いが強くて引き出せずポンプを止めるよう頼んだところ、ポンプを止めると雑菌が繁殖するから決して止めてはならないとマニュアルに書いてある情報をそのままに伝えて断ったという事例があったそうだが、杓子定規にしか情報を解読できないのなら、光ファイバー網が日本全国如何に整備されようが、日本人が老若男女一人残らずパソコンを操作できるようになったとしても、意味もないことである。
果たしてプール経営組織はプールに於ける発生年月日・発生場所を付した過去の死亡・傷害事故例とその各原因を一覧表の情報としてマニュアルに記入し、社員及び監視員の教育に提供しているのだろうか。
過去に似通ったものであっても死亡例があり、そのことから流水プールでの吸水口の柵が外れた場合は流水がまだ体力の幼い子供を吸い込んでしまう程に危険だと理解しているなら、それを防御する柵は余程意図的な力を働かせない限り外れない工夫を凝らしておくべきではなかっただろうか。件の柵はボルトが外れれば手前に倒れてしまう状況にあったようだが、上から見てコの字型のレールを口を内側に向き合わせて縦に左右に取り付け、前後に開け閉めする引き出しを縦にする形でそこに上から柵を落とす仕掛けにすれば、故意に持ち上げない限り、ボルトで締め付けておかなくても重みで柵はどこへも逃げていかないし、掃除のときの取り外しも簡単となる。柵の左右の枠の各上下に10センチ×5センチほどの穴を開け、そこに左右2個ずつのベアリング仕様の滑車を取り付けてスライドさせれば、柵はガタつかないし、取り外しもより簡単となる。なお一層の安全を図るなら、落とし口にマンホールと同様の蓋をし、鍵がなければ開かないようにしておけば、関係者以外は触れることはできなくなる。
機会あるごとに言っていることだが、危機管理とは最悪のケースを想定して、その想定した最悪のケースを回避すべく方策を講じることを言うはずである。そのためには想定しなければならない最悪のケースを知っておくことが絶対前提となる。知った上で、先回りする形で〝最悪のケース〟に至らない措置を一つ一つ講じていく。
想定とは適切な内容で情報をつくり上げることであり、そのつくり上げた情報に従って如何に適切に活動できるかに情報の処理・応用能力はかかっている。
プール事故は監視員が最悪のケースを弁えていなかった可能性があるが、児童相談所に関しては虐待死は常に弁え、常に想定しておかなければならない(情報としてつくり上げておかなければならない)最悪のケースであるが、それを回避するための活動が機能しない〝最悪のケース〟が性懲りもなく繰返されている。
繰返される根本原因が情報のつくり上げもさることながら、情報の処理・応用能力の未熟性にもあるのは言うまでもないことだろう。
『朝日』新聞が06年7月28日の朝刊で、10月2日から施行される容疑者国選弁護制度で国選弁護人を選任できる容疑者・被告人の資力の基準額を法務省は50万円以下にする方針だとする記事を載せている。
所持する現金・預貯金等が50万円以上なら私選弁護人に振り向けられるという。50万円という基準額の根拠は、「①平均世帯の1ヶ月の必要生計費は約25万円②刑事事件を受任した私選弁護人の平均着手金は約25万円――とした上で、『50万円以上あれば、私選弁護人に着手金を払った上でひとまず生活できる』と説明している」という。
国がカネをかける国選弁護人ではなく、国の懐を痛めない私選弁護人の方に回したい意図が露骨に見える。振り分けの線引きが「ひとまず生活できる」というラインだと言うから、裏返すなら、線上にある人間は「ひとまず」の生活で十分と言うことだろう。それが厭なら犯罪を犯すなということなら、犯罪を犯すも犯さないも、その跡始末となると「資力」(=カネ)次第と言うことになる。
容疑者もしくは被告人が独身なら、留置場暮らしが生活費を賄ってくれるが、家族があって、容疑者もしくは被告人の働きで生計を立てている場合は家族の生活は「ひとまず」どころか、3ヵ月後、4ヵ月後と続くのである。国の側から言わせたなら、人権もクソもない、国も借金でクビがまわらないんだ、そこまでは面倒見れるかと言うことなのだろうか。
財政再建のためにあらゆる場面で国にかかるカネを極力減らそうと悪戦苦闘している政府・官庁の姿には心底から頭の下がる思いがする。政治家・官僚自身のムダ遣いには殆ど手をつけず、野放し状態にしておいて国民向けにのみ悪戦苦闘しているのだから、その点に関しても再度頭を下げなければならない。
まあ、日本だけではなく、地獄の沙汰もカネ次第が相場の人間世界である。「04年度の刑事訴訟法改正で容疑者国選弁護制度が導入された際、資力を申告する制度も盛り込まれ」、「資産の範囲について法務省は、手持ちの現金や預金のほか小切手、郵便貯金などに限り、不動産や貴金属は含めない意向。虚偽申告すれば10万円以下の科料になる」(同記事)と言うことだが、弁護士選びもますますカネ次第となるわけだから、結構なことではないか。
計画的に犯罪を犯そうとした場合は、資産を現金・預貯金から不動産・貴金属に換えておけば、自分の懐は痛めずに国のカネで裁判が受けられる。予めそうしてから犯罪に着手する人間も出てくるかもしれない。
戦後の「基本的人権の尊重」が自分の権利だけを主張する、自分さえよけれはいいとする行き過ぎた利己主義の風潮を生み、カネの力で何でも解決しようとするカネ万能の世の中をつくり出したと、そのような戦後精神を是正するために公の精神を重視すべきだ、占領下につくられたという理由までつけて、その方法として教育基本法だけでなく、憲法にも「国を愛する心」の植え付けを求める条文を盛り込むべく、これも悪戦苦闘している。
マスコミはこぞって時代の寵児扱いした若き経営者の「カネさえあれば、何でも買える」と豪語した言葉を究極のオールマイティーと讃えながら、メッキが剥がれると、その言葉がそれを口にした人間の人格のすべてを物語る忌むべき証明であるかのように手のひらを返すように批判の対象とし、「カネ」という言葉をあからさまに口にすることが悪であるかのような雰囲気を世の中に伝えた。
だがである。カネですべてが解決できるわけではないが、カネが大いなる力であることに変わりはない。稼ぐ方法、あるいは使い道に善悪はあるが、カネそのものは常に善であり、より多くの場合、平和の使者となる。そのことを身に沁みるまでに日々思い知らせているのは世の中のカネ万能主義の風潮だけではなく、政府のなりふり構わない財政再建策も一役買っている。
上記の容疑者国選弁護制度に譬えて言うなら、カネがあれば有力な弁護人を何人でもつけることができるが、なければ満足のいく形で自由には選べないとなってはカネの力を思い知らされることになり、国の政策はそのように仕向ける動機ともなっているはずである。
年金制度改正による給付額の減額と社会保険庁のズサンな職務からの年金制度に対する不信から国民にカネがなければダメだな、カネがあってこそ人間らしい生活ができる、貧乏ではダメだ、辛いだけ、情けないだけだと、カネの力を改めて認識させたとしたら、そのようなカネ万能主義への意識改革も政府が一役どころか、二役も三役を買ったことになる。
特に若者世代に年金に対する不信感を強く植えつけているとしたら、老い先長い生涯に亘って頼れるのは自分のカネだけということになって、そのことがカネ万能主義どころか、カネ至上主義に走らせたとしても、止むを得ない心理変化と言える。
医療費の自己負担分引き上げがカネの力を再認識か、再々認識させていることも、入院時の食事に保険が適用されなくなり、自費で賄わなければならなくなったこと、介護保険法改正によって介護報酬の単価が引き下げられたことが訪問介護サービスの質の低下につながった場合、やはりカネこそが安心を与えてくれる源だと、葵の印籠だと思い知り、子や孫、その他の近親者に、カネをすべてとしろ、カネこそが政治家・官僚が世の中をどんなにおかしくしても唯一助けになるお助けマンだ、政治に期待するな、自分のカネに期待しろ、警察に捕まらない範囲で手段を選ばず、カネを稼け、稼ぎに稼ぎまくって、安心を手に入れろと教え諭したとしても無理のない話で、基本のところでそう仕向けたキッカケは政府の社会保障政策と言っても過言ではないだろう。
6月(06年)に可決・成立した医療制度改革関連法によって12年度始めまでに全国38万床ある療養型病床を6割減らして15万床にする切り捨て政策によって一番安心できるのは医療ケア付き有料老人ホームしかない、そういった施設に入るには金持ちにならなければだめだという意識が一般化したなら、一般化の後押しをした栄誉はやはりそのような制度をつくった政府に与えなければならない。
〝カネこそ力〟の風潮に若者世代が既に侵食されていることを証明する朝日新聞の記事(06.7.25.朝刊)がある。医学部への志願者が急増し、医学部シフトが加熱しているという内容である。見出しの一つが「少子化でも10万人突破 強まる生活安定志向」と謳っているが、一部を紹介すると、「今春、関東の私立大医学部に入学した女性(19)は、『一生食べていけるのかは大事。医師免許は年齢制限もないし、更新制もない。病気はなくならない。高校生には利点ばかりが見える』と話す」――
記事は「強まる生活安定志向」としているが、医者の収入は一般的な「生活安定」を超える安定性を保証する。カネ万能主義が一般的な「生活安定志向」を超えて、より高いレベルにまで向かっているということを物語っていないだろうか。
「文部科学省は『学校基本調査報告書』などから集計すると、全国の国公立大と私立大の計80の医学部(医学科、防衛医大含む)の定員約7700人に対して、志願者数(延べ人数)は、00年度入試では8万8996人だったが、04年度入試で10万人を突破。05年度入試はさらに増え、10万5993人だった。
この間、大学・短大の志願者数が約9万2千人減少した。さらに84年度をピークに医学部定員が『医師過剰時代』の回避などを目的として政策的に減らされてきたことを考えると、受験生の『医学部シフト』は顕著だ。(後略)」――
05年度で定員に対して14倍近い受験生が殺到した。その一方で24時間拘束され、プライベートな時間がなかなか持てないきつい仕事という不人気から多くの産婦人科医が姿を消し、地方の過疎地では医者の来てがいない。「医学部シフト」は都会中心、十分休日が取れる医業へのシフトであり、その意味するところは社会的責任意識からではなく、一般的高収入を超える「カネ万能主義」志向一本やりの風潮といったところだろう。
そのような風潮はテレビの影響もあるに違いない。医者をセレブと持てはやし、リッチの最先端に位置する職業の顕著な一つとして紹介することが流行りとなっている。テレビがセットする医者との見合いパーティ。その持てはやしが医者との見合いに女性をなおさらに駆り立てる。あるいは女医を社会的ステータスの証明として伴侶に求める男。テレビが取り上げることによって有名人化する可能性への期待も「医者シフト」の傾向を後押ししている原因の一つになっているかもしれない。
医者になるには小学生のときから中高と有名塾に通い、成績がそれ程でなければ、高い学費を覚悟しなければならない私立医大を選択しなければならず、医者になるまでのバカにならない子どもの教育費をクリアできるかどうかは親の収入にかかってくる。いわば親の収入が子どもの将来を左右し、将来的な生活の保険の有効性に関係する。当然のこととして、親が支払う保険料次第・カネ次第で否応もなしに子どもの生活に格差がついていく。
国会議員に二世議員が多く占めるのも(名ばかりで中身はニセ議員というのも多く占めているだろうが)、親の名前ばかりではなく、カネの力がモノを言っているに違いない。
小泉改革に於ける財政再建策がひそかにカネ万能主義を煽り立て、それが一層の社会的格差を生み出し、その社会的格差がまたカネの力への認識を日々新たにして、なお一層のカネへの執着というカネ万能主義への悪循環のスパイラルを渦巻かせている。
医者となった彼ら・彼女らの多くは自民党支持者へと変身していくことは間違いない。そのような支持者を抱えた自民党が自らも陰でカネ万能の利己主義を支えて格差社会をつくり出していながら、戦後の「基本的人権の尊重」が自分の権利だけを主張する、自分さえよければいいとする行き過ぎた利己主義の風潮を生んだと警告を発し、機会の平等を柱とした再チャレンジ社会の構築を訴えている。その小賢しげな顔をした倒錯的矛盾はどう説明したらいいのだろうか。