戦争は「国のために」に戦うものではない

2006-08-22 07:02:30 | Weblog

 合理的精神の欠如が「国のため」の戦争を可能とし、戦没者を神・英霊とすることができる

 自由・平等とか民主主義、人権といった理念を擁護するため、あるいは獲得するために戦うものである。そのような理念こそが人間を最も人間らしく存在させる価値観として機能するからである。人間の精神生命をより十全な状態で発揮せしめ、人間を様々な抑圧から解放した状態に置く諸要素だからである。断るまでもなく、自由・平等、民主主義、人権の否定は人間存在に対する抑圧要因としてしか働かない。

 〝国〟あるいは〝国家〟は戦争を行う理念足りえない。〝国〟あるいは〝国家〟は如何なる理念にも相当しないからである。何らかの理念を体現している〝国〟あるいは〝国家〟であっても、体制を秩序づける基本原理を不変のものとすることができるとは限らず、理念を普遍的価値として常に約束する恒常性を備えているわけではないからである。

 日本の中国及びインドシナからの全面撤退・中華民国国民政府以外の政府の否認・三国同盟の否認等を要求するハル・ノート(1941.11)を日本がアメリカの対日最後通牒と見なして決定した新たな侵略である南方進出に欧米植民地からのアジア解放を初期理念とした大東亜共栄圏構想を前面に押し出したが、その段階理念たる〝共存共栄・八紘一宇〟の否定の具体化そのものであった傀儡植民地である満州国及び武力侵略を続けていた中国をも大東亜に含む地域構想だったのだから、看板に偽りありの欺瞞に満ちた二律背反性を当初から構造としていた。いわば侵略を隠し、正当化するスローガンとして打ち出した理念に過ぎなかったのだから、占領地域で欧米帝国主義以上の収奪と人権抑圧が行われたというのも欺瞞に満ちた二律背反性の当然の成果としてあった結末であろう。

 またアジア解放に始まって〝共存共栄・八紘一宇〟を戦争の理念として掲げながら、「天皇陛下のために・お国のために」と〝大東亜〟全体ではなく、天皇と日本のみに限った忠誠と使命(=命の捧げ)を要求したのだから、如何に自らを頂点に置いた自国中心、日本中心だったかを証明している。実体的にも日本の支配下にアジアを置こうと計画し、実行に移された〝アジア解放〟であり、〝大東亜共栄〟がその正真正銘の正体だった。

 アジア解放にしても〝共存共栄〟にしても〝八紘一宇〟にしても、自由・平等、民主主義、あるいは人権の保障を担保する構造でなければ、真の理念足り得ない。日本という国自体が、それらを国民に担保していなかったのだから、アジアに実現できようがなく、言葉だけの矛盾に満ちたキレイゴトに過ぎなかった。

 裏表ない理念の実現を掲げた戦争はその勝利を手段とした理念の具体化を報奨とすることができるが、領土や物質的・経済的国益を満たす目的の戦争は上記プロセスを踏むことができない。日本の国家権力が国民に対して神の地位、英霊を報奨として天皇及び国に向けた命の捧げを求めたのは戦争を正当化できるだけのウソ偽りのない理念を持たなかったからだろう。いわば単なる物質的自国欲からの戦争だったから、なるはずもない神となることを約束し、英霊となるといった超越的存在を最大限の報奨として用意しなければならなかった。

 国民がそれを信じ、天皇及び国によって与えられた目標に向かって邁進できたのは客観的合理精神をものの見事に欠いていたからだろう。

 もしも靖国の戦没者を神・英霊だと信じることができるなら、爆薬を身体に巻きつけて死に赴くイスラム原理主義者たちの自爆テロがアラーのもとで最高の場所を与えられる勝利の殉教であり、自らを超越的存在とするジハードであることを類似概念として信じ、エールを送ることをしなければならない。

 また戦争だけではなく、国家や国家権力者を絶対とする如何なる国家行為も国民を抑圧する方向に向かう。国民の絶対性を並立不可能なものとして排除することによって国家及び国家権力の絶対性を成り立たせ得るからである。いわば国民の存在条件を犠牲とすることによって国家の絶対性は可能となる。戦前の日本及び現在の北朝鮮がそのことを証明している。

小泉首相にしても安倍官房長官にしてもアメリカが体現している、勿論それぞれに矛盾を抱えてはいるが、自由・平等、民主主義、市場経済、法の支配、人間の尊厳及び人権といった価値観を人類共通の普遍的な価値観とし、その共有自体を誇らしいこととしているが、その一方で靖国神社の戦没者に関しては「国のために戦った」、「国に殉じた」と、兵士の〝戦った〟あるいは〝殉じた〟行為を肯定することを通して、「国」を肯定する相互肯定を今以て行っているが、戦前の日本は自由・平等、民主主義、市場経済、公正な法の支配、人間の尊厳及び人権を体現していなかった「国」である。

 一方でアメリカが体現している価値観を共有する「国」だとして日本を誇り、その一方でそれら価値観を基本原理としていなかった戦前の「国」を肯定視野に入れている。二人の頭の中は便利に仕上がっているらしく、相容れない二つの「国」――過去と現在を断絶させることもせずに背中合わせに仲良く連続的に共存共栄させることができるようだ。合理性を備えた普通の感覚では不可能な共存共栄を可能としている。日本の政治家ならではの合理性をクスリとしない、状況に応じて態度を変えることのできる思考回路が疑念もなしにそう仕向けているとしか考えることができない。

 「あの戦争が侵略戦争であったなら、靖国の英霊は浮かばれない」という言説をよく耳にするが、英霊が浮かぶ・浮かばれないを条件として戦争の性格が決定されるわけのものではない。信じた事柄に裏切られると言うことも、信じるという行為自体が間違った選択だっということも世の中にはいくらでも存在する。存在した事実とその経緯を以て判断されるべき戦争の性格であって、英霊の立場を決定要因とするのは単なる感傷でしかなく、日本人が如何に合理的思考能力、あるいは客観的認識性を欠いているかの証明であろう。

 人間が如何なる形の死を以ても神・英霊なる超越的存在と化すはずもなく、合理精神が発展途上の人間でなければ成り立たたせ得ない産物でしかない。

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