1975年訪米時の昭和天皇への政治的関与に見る天皇の政治利用と大日本帝国憲法自体の天皇の政治利用

2015-01-17 09:46:49 | 政治


 ――どうも官僚を含めた国家権力が昭和天皇に対して「戦争責任は認めてはいけません」と圧力をかけているような気がする。認めたなら、天皇制はあなたの代で消滅し、その不名誉を歴史に残すことになります」とでも言われたのか。――

 昭和天皇は香淳皇后と共に1975年9月30日から10月14日にかけて即位後初めてとなるフォード大統領時代のアメリカ公式訪問を行っている。その際の外交文書が1月15日公開され、戦後30年の経過があっても米国民の反天皇感情を恐れて外務省が、いわゆる“想定問答集”を作成、懐柔工作、あるいは好感度獲得工作といったことを展開していたという。

 外務省の手による作成であっても、日米間の歴史認識に深く関係する昭和天皇の発言なのだから、背景に政治側の意図が働いていたはずである。

 二つの記事からどんなことが行われていたか、歴史の舞台を振返るという意味で見てみる。

 《昭和天皇訪米で戦争責任論に配慮》NHK NEWS WEB/2015年1月15日 21時12分)  

 訪問に当たって想定される懸案について分析した訪米半年程前の外務省作成文書。

 「天皇陛下はアメリカでは第2次大戦の記憶と一番密接に連想されやすい」

 「アメリカ人はパール・ハーバーを忘れていない。陛下の戦争責任について種々議論を呼ぶことは確実とみられる」

 対策―― 

 「第2次大戦については、『お言葉』の中で簡単にさらりとお触れになる程度とする」

 当時の駐米大使がアメリカの有識者から聞き取った意見を記録した文書内の大使の助言。

 「晩さん会などの『お言葉』で、戦争のことに触れられた方がいいと思う。あいまいな表現よりも、あっさり、かつ、はっきり触れられた方がいいのではないか」

 これらの集大成が1975年10月2日にホワイトハウスで行われた当時のフォード大統領主催の晩餐会での昭和天皇の「お言葉」であろう。天皇の「お言葉」は宮内庁や内閣が作成、天皇がアナウンスする形式を踏む。このことは「第2次大戦については、『お言葉』の中で簡単にさらりとお触れになる程度とする」とした記述が何よりの証拠となる。

 昭和天皇の「お言葉」「私が、深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が、我が国の再建のために、温かい好意と援助の手をさし延べられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」

 記事は、〈先の大戦に触れながらも、みずからと戦争との関わりなどについては、それ以上、言及しませんでした。〉と解説しているが、内閣の意思が言及を遮断、それに従ったに過ぎない。

 最後に外交史専門家の発言を伝えている。

 波多野澄雄国立公文書館アジア歴史資料センター長「東京裁判で天皇は訴追されなかったが、先の戦争で何らかの役割を果たしたという議論はアメリカの中に強くあり、日本側は、ここで天皇が何も発言しないとなると、その後の首脳会談などに影響があると考えたのだろう。ここで一応の戦争責任問題について決着させたいという配慮から、かなり考えた末に発言内容を決めたのだと思う」――

 以上見てきたことは自作自演の歴史認識ではなく、他作自演の歴史認識を演じた昭和天皇の姿だということである。

 当然、次の記事も同じ構図を取ることになる。

 《外交文書公開 昭和天皇訪米、外務省が戦争責任めぐり「想定問答集」作成》産経ニュース/2015.01.15 10:35)  

 1975年4月21日付の内部文書「天皇・皇后両陛下の御訪米準備の主要問題点」「NHK NEWS WEB」記事が訪米半年前に当時の駐米大使がアメリカの有識者から聞き取った意見を記録した文書と紹介していた文書のこと。)

 「(米国の)無数の地方紙において陛下をオリエントの帝王化するなどの事実歪曲、誤謬に満ちた記事等が掲載されることはある程度覚悟する必要がある」

 「米国人はパール・ハーバーを忘れていない。陛下の戦争責任について議論を呼ぶことは確実」・・・・・

 当時防衛大学校長だった政治学者の猪木正道氏に想定される質問と回答の作成を依頼、1975年5月6日在米大使館が最終的に作成した“想定問答集”

 「新聞等に(戦争責任を問う)投書等があった際に反論できるように」と11項目の質問を想定。その内の二例を記事は紹介している。

 「最高責任者として戦争責任を取られるべきではなかったか」

 「参戦は天皇の意思によってなされたか」

 ここで記事は重要なことを伝えている。〈なお今回公開された文書の中に回答は含まれていない。〉

 “想定問答集”が取り上げた回答例と記者の質問に答えた際の昭和天皇発言がほぼ一致していたなら、その権威を失墜させることになる。昭和天皇自身が自分の意思を自分の言葉で発言していたなら、公開は何も問題はないはずだ。

 前者の場合、国民が天皇の発言にカラクリを見ることになって、まことに都合が悪くなるだろう。そのための非公開=隠蔽であって、国家にとって不都合な情報はなお隠蔽する意図を持っていることが分かる。

 記事は以上の他に様々な手を打ったことを紹介している。

 外務省が訪米に際して「積極的広報」を重点目標に掲げて、昭和天皇の人柄などを紹介する報道機関向けのプレスキット(資料)を1300部用意したこと。16ミリ映画、テレビクリップなどを活用したことを挙げている。

 1975年10月22日付作成の訪米後の広報対応の総括文書では、〈戦争責任については「事前に決着がついた」と振り返り、昭和天皇が事前に米メディア記者と会われ、発言内容が報道されたことから問題はなかったとの認識を示し〉、〈昭和天皇がホワイトハウスでの歓迎晩餐会で「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」と遺憾の気持ちを示したことに関し、「実に適当なTPOだった」と絶賛し、テレビを通じた昭和天皇の「誠実なお人柄」が米国民に伝わり、訪米は成功だったと総括している。〉と伝えている。

 以上見てきたことの裏に常に隠されているのは如何に戦争責任問題を回避するか、如何に好もしい人柄と見られるか、様々に政治的に関与し、その関与を通して天皇を政治的に利用している、国家権力の意志である。

 国民統合の象徴となった現在に於いても、あるいは日本国憲法に「国政に関する権能を有しない」と規定されているにも関わらず、天皇は権力の二重性の元に置かれて、国政に関わる役割を担わされている。

 天皇の戦争責任の有無について書いた2006年7月13日の「朝日新聞」朝刊を参考までに記述してみる。

 《史実検証なお途上/歴史と向き合う》

 児玉氏・石原氏・・・保守派にも「責任論」

 「真に恐れ多いことではありますが、道義的には責任はあるのでしょう。終戦時の御前会議に天皇様に御裁可を仰いでいるのですから・・・・。(略)天皇様はまことに平和を愛されているお方でした」

 戦前から戦後にかけて宮中で昭和天皇に仕えた甘露寺受長(おさなが)は、天皇の責任について、こう語った(エール出版社編『我々にとって天皇とは何か』)

 明治神宮の宮司も務めた甘露寺は、天皇を深く敬愛していた。しかし、そのことと戦争責任は別の問題と受け止めていた。

 保守の中で天皇の戦争責任や退位に言及したのは、甘露寺だけではない。

 戦前から右翼活動家で保守政界の黒幕だった児玉誉士夫は、雑誌「正論」75年8月号(産経新聞出版局)に「私の内なる天皇」と題するエッセーを寄稿し、こう主張した。

 「私は法的な開戦の責任所在などどうでもいいと思っている。(略)陛下に戦争責任をとっていただきたいなどと言うつもりはない。ただ、陛下に天皇としての責任を明らかにしていただきたかったのである。具体的に言うならば、天皇のご退位を願いしたかったと言うことだ」

作家林房雄は『大東亜戦争肯定論』の中で「『戦争責任』は天皇にも皇族にもある。これは弁護の余地も弁護の必要もない事実だ」と書いた。

 石原慎太郎論文「日本の道義」で、現代の日本の「道義の退廃」を嘆きながら、「天皇の戦争責任が退位という形で示されなかったことは、天皇制にとっても不幸であった」(「自由」74年4月号)と論じたことがある。
 
   □  ■

 「天皇は神聖にして侵すべからず」という明治憲法第3条は、一般に、天皇の無答責(法的な責任は負わないこと)を規定するとされる。統治の全責任は、輔弼する内閣が負う――「昭和天皇に戦争責任はない」とする論者は、内閣法制局を含め、殆どがそう主張する。


 これに対し、「責任あり」とする論者からは「国内法である明治憲法の規定を楯に、対外的な責任まで免れることはできない」「法的にはともかく、道義的責任がある」「軍の最高指揮権(統帥権)は輔弼を介さず天皇に直属していた」「現実に天皇は主体的に戦争指導に当たった」という反論が出されてきた。

   □  ■

 新資料も次々、今後の研究期待

 90年代に入って以降『昭和天皇独白録』や、牧野伸顕、木下道雄、入江相政、河合弥八ら天皇の側近の日記など、これまで埋もれていた資料が相次いで公刊された。

 このため、天皇が「大元帥」として戦争指導上に果たした役割や、政治関与の実像、立憲政治の崩壊過程をめぐる歴史研究が近年、大きく進展してきたといわれる。

 『象徴天皇制への道』などの著書がある中村正則・神奈川大学特任教授(日本近現代史)は「天皇の戦争責任は、イデオロギーの問題というよりも事実の問題です。なのに、ジャーナリズムは依然として及び腰に見える。歴史学の成果と一般の読者をつなぐ仕事に積極的に取り組んでほしい」と話している。

 責任尋ねた唯一の会見

 記者会見は午後4時から始まった。1975年10月31日、皇居・石橋の間。元中国放送記者、秋信利彦(71)は、雨が降ってひどく寒かったことを覚えている。訪米を終えた昭和天皇(当時74歳)と香淳皇后が新聞、放送、通信社の記者50人と向き合った。

 主催したのは、日本の主要メディアが加盟する日本記者クラブ。質問は事前に宮内庁に提出されたが、その場での関連質問も認められていた。

 日本記者クラブ理事長で、朝日新聞副社長(後に社長)の渡辺誠毅が代表質問した。

 ――在位中、最も辛く悲しかった思い出は?

 「言うまでもなく第2次大戦であると思います」

 そんなやりとりのあと、関連質問が出された。

 「天皇陛下はホワイトハウスで、『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がありましたが、このことは戦争に対して責任を感じているという意味と解してよろしゅうございますか。また、陛下は戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」

 質問したのは英紙タイムズの日本人記者中村浩二(当時57歳、82年に死去)だった。毎日新聞出身で国際金融の専門家。「ダンディー」「反権力」「皮肉屋」。生前の中村を知る人々はそんな言葉を口にする。

 天皇が答えた。

 「私はそういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないのでよく分かりませんから、そういう問題についてお答えができかねます」

 沖縄訪問をめぐるやりとりに続いて、記者団の最後列から秋信(前出元中国放送記者)が質問した。

 「陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島に行幸され、広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない、われわれはこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならないと述べられ、以後、昭和26年、46年と都合3度広島に起こしになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか」

   □  ■

 広島に原爆が投下されたとき、秋信は10歳、広島市内から岡山県境の山あいの町に学童疎開していた。包帯を巻かれた被爆者たちが列車で送り込まれてくるのを間近に見た。

 58年に地元の中国放送に入社。ラジオのドキュメンタリー番組などの制作に当たった。

 65年1月、成人式に晴れ着で出席した広島生まれの女性が3日後に自殺した。原爆投下後に生まれ、後遺症を気にしていた。

 胎内被曝について取材を進めるうちに、小頭症患者の存在がわかってきた。多量に受けた放射線の影響で頭が小さく、重い知的障害があった。

 秋信は患者の家や施設を訪ね歩いた。多くは貧しく、福祉と医療の外に置かれて孤立していた。20歳になろうというのに、身長133センチ、体重35キロ、一日中ラジオの前に座っている女の子らがいた。子どもたちは存在のそのものの証に原爆の罪科を訴えていた。

 互いに支え合うため、6人の患者が集まって「きのこ会」を発足させた。秋信は事務局を引き受けた。

 75年夏、東京支社に赴任した。その矢先、中国放送は抽選で天皇会見への出席資格を得た。

 被爆者の間には「なぜもっと早く戦争を終結させなかったのか」との思いがある。秋信は、会見が近づいたある日、「原爆投下」を代表質問に入れてもらおうと、当時、東京・内幸町の帝国ホテルにあった日本記者クラブの事務所を訪ねた。「質問はもう全部決まってます」「関連質問は自由です。自分で質問されては」といわれた。

 ロビーで声をかけられた。「本当に原爆の質問をするんですか」。サンデー毎日の記者だと相手は名乗った。話をするうち、ぜひ質問すべきだと意気投合した。後に引けなくなった。

 本社の上司に電話で意向を伝えた。上司が言った。

 「わしゃ、知らんぞ」

   □  ■

 天皇は身を乗り出して秋信の質問に耳を傾け、そして言った。

 「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」

 元時事通信記者で、宮内庁記者クラブに所属していた稲生雅亮(いなお・まさあき)は、そのとき最前列にいた。侍従長の入江相政(すけまさ)が上目遣いに天皇の表情をうかがっているのが視野に入った。

 一連の受け答えを聞きながら、稲生は、「『言葉のアヤ』とはうまく返された。陛下には立場上言えないこともある。何もあそこまで聞かなくても・・・」と思っていた。

 会見後、宮内庁長官の宇佐美毅は「『やむをえなかった』というのは『原爆投下そのものに限って言えば、自分にはどうしようもなかった』という意味だと私は受け取っている」と補足した。

 会見の模様はその日の夕方、NHK、民法各局が録画で放送した。

 サンケイ新聞は1面コラム「サンケイ抄」(11月2日付)で「政治的に扱われかねない問題は、やはり本当は(質問を)避けるべきではなかったか」と書いた。

 朝日新聞は社説(3日付)で「記者団はなぜ天皇と戦争との関係をもっと掘り下げなかったのか。天皇ご自身もまた、なぜご訪米時におけるように戦争責任と戦争観について語ろうとはされなかったのか」と論じた。

 読売新聞の「歌壇」に欄(12月6日付)には次の作品が載った。

戦争責任は言葉のあやと言い棄つる天皇に捧げし身は口惜しけり

 常務を最後に7年前に一線を退いた秋信は今、こう振り返る。

 「広島の記者として、原爆について質問できたことはよかったと思っています。天皇は率直な気持を語ったのでしょう。私は淡々と受け止めました。記者は質問するまでが仕事で、その先、天皇の発言をどう考えるかは、視聴者や読者に委ねるべきことです」

 今年4月、きのこ会は広島市内で原爆小頭症患者の還暦を祝う会を開いた。秋信ら支援者が見守る中、9人の患者が、ケーキのローソクを吹き消した。(敬称略)

 海外各紙の論調は

 昭和天皇の死去に際し、海外紙は、戦争責任について次のように論じた(朝日新聞社編『海外報道に見る昭和天皇か』ら)。

 「彼は、戦争に反対して止めさせることができたただ一人の存在であったにもかかわらず、そうしなかったという汚点を背負っている」(英タイムズ)

 「(天皇は)自分の戦争責任問題については、公には一度も発言していないが、彼がこれを真剣に受け止めていたことは、天皇を非難をする人たちにも異論のないところである」(独フランクフルター・アルゲマイネ)

 「アジアと太平洋を踏みつけにした彼の戦争責任は厳しく問われることもなかった。植民地統治の様々な暴政についても『遺憾』の言葉を明らかにしたのみで、公式な謝罪は表明されたことはない」(韓国・東亜日報)

 「ヒロヒトが戦争を望まなかったというのは誤りである。彼が望まなかったのは対ソ戦である」(仏リベラシオン)

 「ヒロヒトと日本、それに近隣諸国の悲劇は、国民にとって神とされた人物が、彼が望んでいなかったにもかかわらず、彼の名が常に付き纏う悲惨な戦争を止めることができなかったことである」(豪シドニー・モーニング・ヘラルド)

 記事中に〈朝日新聞は社説(3日付)で「記者団はなぜ天皇と戦争との関係をもっと掘り下げなかったのか。天皇ご自身もまた、なぜご訪米時におけるように戦争責任と戦争観について語ろうとはされなかったのか」と論じた。〉とあるが、昭和天皇の訪米時発言は国家権力が天皇の戦争責任回避を前提としていた国家権力作・昭和天皇自演の発言であって、天皇の真の思いがどこにあろうと、国家権力意志を反映させた戦争責任回避を趣旨としているのだから、あの「お言葉」が精一杯であって、論ずるべきは他にあるはずだ。

 訪米後の日本記者クラブ記者会見は、《アメリカ訪問を終えて》日本記者クラブ/1975年10月31日)と題してネット上に紹介されている。

 記者会見は皇居「石橋の間」で行われた。

 中村康二記者(ザ・タイムズ)「天皇陛下のホワイトハウスにおける『私が深く悲しみとするあの不幸な戦争』というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。

 また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」

 昭和天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」(以上)

 改めて晩餐会での天皇の「お言葉」を記してみる。

 「私が、深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が、我が国の再建のために、温かい好意と援助の手をさし延べられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」・・・・

 「不幸な戦争」を悲しむ主語は昭和天皇自身だが、「不幸な戦争」を起こした主語は隠したままである。いわば戦争責任に触れたわけではなく、「不幸な戦争」の結果としてのアメリカの援助に感謝を述べることを全体的趣旨とした発言であろう。

 戦争責任に触れているように見せかけて、実際には触れていなかった。と言うことは、戦争責任自体を「言葉のアヤ」としたわけではないことになる。もしそうだとしたら、あまりにも無責任であり過ぎる。その無責任さに於いて国民統合の象徴たる資格さえも失うことになる。

 米大統領主催の晩餐会で天皇の「お言葉」とさせた国家権力作・昭和天皇自演の文言自体を「言葉のアヤ」(巧みな言い回し)と表現したはずだ。但し国家権力側の天皇の戦争責任回避意志はしっかりと受け継いでいた。

 だから、戦争責任について明確に言及することはできないし、その意思もなかっただろうが、あのようになぜ言わせたのか、あるいはあのような表現になぜなったのか、そういった「言葉のアヤ」を理解するだけの文学方面の知識がないから、理解できないと発言せざるを得なかった。

 要するに意図せずして権力の二重性を露わにした。

 広島原爆投下に対して天皇が答えている「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」にしても同じ構図を取っているはずである。

 広島原爆投下はポツダム宣言を無視した軍部を交えた国家権力の判断をキッカケとしていた。直接的責任は権力の二重構造の上位に位置する国家権力にあるのに対して二重構造の下位に置かれた昭和天皇が自身の責任を言えば、天皇の責任と国家権力の責任との関係に焦点が当てられることになって権力の二重構造が暴かれることになった場合、天皇制の権威を失うことになる。

 このことは大日本帝国憲法の第一章天皇 第3条に関係する。「天皇は神聖にして侵すべからず」存在だから、法的責任は負わない天皇無答責を保障しているとしているが、大日本帝国憲法の天皇の規定を見ると、国家統治の責任主体はどう見ても天皇自身にある。

第一章 天皇

第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス

第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
  ・・・・・・・・・・
十一條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

第十二條 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

第十三條 天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス

 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」存在だから、責任に関してもそれを課して侵してはならないという意味で国家無答責だとする解釈には無理がある。天皇に現人神としての絶対性を与えた規定と見るべきだろう。つまり過ちなき絶対的存在とした。

 責任を課して過ちある存在だとした場合、天皇の絶対性を利用した国家統治まで狂うことになる。

 もし誤った場合の逃げ道として、統治の全責任は輔弼する内閣が負うこととした第五十五條「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」を利用して、そこに論理的な正当性を無理やり置いたと見るべきである。

 なぜなら、「輔弼」なる言葉の意味は旧憲法で天皇の権能行使に対して助言を与えることだから、論理的には助言に対して責任を負うが、国家統治とその責任に関しては最終的には天皇自身が負わなければならないことを意味することになるはずだからだ。
 
 要するに国民統治を完璧とするために天皇なる絶対的存在を創り出したが、実際の統治は国家権力が行う権力の二重構造を擁護するためには天皇の絶対性まで擁護しなければならない便宜上、「天皇は神聖にして侵すべからず」を「天皇無答責」の根拠とし、第五十五條「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」の規定を統治の全責任は輔弼する内閣が負う根拠としたに過ぎない。

 つまり天皇は責任を負わないとすることで国家権力までが責任を負わない正当性としているということではないか。

 このことを言い換えると、大日本帝国憲法自体が権力の二重構造を基に天皇の政治利用で成り立っていた。

 戦後の国家権力が戦争を総括しない理由がここにあるはずだ。総括すれば、権力の二重構造を国民の目に曝け出すことになり、天皇制自体の存続が危うくなる。

 国民は国家権力と天皇制の権力の二重構造と政治権力の天皇の政治利用に目を凝らさなければない。


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